第7章 人間の限界とは
限界は、何処にあるんだろう。
元々の世界に暮らしていた遠い昔、ルガール・ベンストルという人の伝記を読んだ。
俺は大雑把な記憶を頼りに、内容を思い出していた。
……彼が生きた当時、人間が1マイルを4分以内に走りきることは「絶対に不可能」だと言われていた。
当時の識者たちは、
「ヒトの肉体は、それほどのペースで走れるようには創られていない」
「人間がそんな速度で走り続けようとすれば死んでしまう」とまで言っていたそうだ。
しかし、彼は長年にわたり研究と並行してトレーニングを重ね、衆人環視のなか、その不可能とされたタイムより1秒早くゴールした。偉業だった。
だが、話はここから始まる。
「ベンストルが1マイル4分を切った」という話が流布すると、それまで「絶対に不可能」だと信じ込んでしまっていた人々の目が覚めたのだ。
結局、ベンストルの偉業から一年の間に、実に数十人もの人間が4分の壁を打ち破ってしまった。
……つまり、人間の限界とは、過去の人間がそう決めつけてきた、というだけの妄想に過ぎない。
ベンストルの逸話は、彼の偉大な功績と共に、未来を生きる我々にとっての教訓として、俺のなかに記憶されていた。
俺が筋トレを始めた当初、「ギフト」を持たない俺の能力がここまで伸びると考えた人がいただろうか?
いや、神々にすら予測できなかったのかも知れない。
本来、ヒトの寿命は有限であるはずだからだ。筋トレだって永遠に積み重ねられるものではない。
全身の筋肉のそれぞれは、さらに密度を増してきたように感じられる。脚どころか、片腕で床を叩くだけで体は飛び上がり、天井まで達するようになった。
まず天井があることを知るまでに何年かかったか、は忘れた。
どのくらい前だったか……これは比較的新しいことのような気もするが、俺はクロノに疑問を尋ねていた。
「クロノ様、最近の俺の筋トレって見てます?」
「見てはおるよ。しかし、この眼で直接となると……もう10年は見ておらん。
もう、同じ空間で眺めていられるレベルではなくなっておるからな」
「俺が壁を蹴って向かいの壁まで跳ぶ時、体に不気味な衝撃を感じるようになったんです。その正体がわからなくて」
「音の壁、じゃな」
「音の、壁?」
「おぬし、山彦という現象を覚えておるか?」
「ああ、音が反響して数秒後に返ってくるあれですね」
「そう。音というのは……何と言えば伝わるか、そう、水面に立てた波のように広がるのじゃ。
おぬしらが使う単位だと、音の波は1秒に372ヤードの速度で飛んでいく」
「かなりの速さですね」
「いやいや、おぬしの跳ぶ速度が、その音の波に追い付きかけているんじゃよ。
だから、おぬしが発した衝撃に自らぶつかっておるんじゃな」
「……俺、そんなに速く跳んでるんですかね?」
「我も驚いておる。人間がここまで強くなったことなど、いや魔物でも、これまでの世界になかったであろうな」
音の壁、か。
結局は数年でその衝撃にも慣れ、突破することができた。
あらゆる限界というのは妄想である、そう切り捨ててしまっていいものなのだろうか。
俺は白く狭い永遠の空間で、日々思い悩み、それら全てを筋トレによって解決してきた。
俺には、それしか持ち合わせがなかったのだ。
くよくよ考え込むより、とにかく動いたほうが有益だと感じられた。ただひたすらに、昨日の自身を超える。それだけが生き甲斐だった。
「人間がこれほどひたむきに生きる存在だとは、我も考えたことがなかったぞ。
……このような言葉にどれほどの意味があるかは疑問じゃが、マット。凄いよ、おぬしは」
「クロノ様が素直に褒めてくれるのなんて、初めてじゃないっすか?」
「そうかも知れんな。ふふ」
「あ、やっぱ素直なほうが可愛いですよ」
「む、むう……いつまでも神をからかいおって」
二人で笑い合った。
俺もクロノも、年をとらないし死ぬこともない。
正直なところ、最初は永遠が怖くもあった。それはひょっとすると死よりも苦しいものではないのか、と。
でも、違ったようだ。例えば美味い物を食べる時、好きな人と過ごす時、希望に向かって進む時、人々は永遠を望むのだろう。この瞬間がずっと続くように、と。
俺は永遠のなかにいる。
ある人は俺を羨むかも知れない。ある人は俺を憐れむかも知れない。
人生に終わりがあるというのも、ひとつの救いなんだろう。俺はそれを失った。
ただ生きていく。ただ繰り返していく。
「300年ですか」
「そうじゃ。切りのいい数字じゃな……って、な、何を急に笑っておるのじゃ?どこか変だというのか!?」
「ははは、たしかに。変ですね」
「え、ほんとに?どこ?なんか乱れてる?うそっ、下着見えてるとか!?」
クロノは髪を撫でたり服の裾を直したり忙しい。
「いや、そういうのじゃなくて。
一人の人間に300年も付き合ってくださるクロノ様、という存在が変だって意味ですよ」
「む、むううう……おかしいか?」
「はい。だから好きなんですけどね」
「ふぇ……あわわわ」
「あ、ちょっと待って。今日は、まだ消えないでください。
300年の記念日に、やってみたいことがあるんです」
この章にある「1マイル4分の壁」の部分は実話であり、ロジャー・バニスターというイギリス人が1954年に成し遂げた偉業です。
数字など改変してもよかったんですが、「事実は小説よりも奇なり」ってことで。