第62章 400戦無敗の漢
ローラは、歴戦の勇士クライスの新聞記事の切り抜きや、『クライス・カルミエ~400戦無敗の漢』という書籍まで出してきてくれた。
「本にまでなるような偉人だったんすね。あの人」
「オプティマの歴史で一番売れた本なんですよっ!?これ!」
「マジかぁ。やっぱ俺、筋トレ関連の情報しか目に入ってなかったんだな」
「クリスティさんって、ほんと筋トレに一途なんですね……」
400戦無敗か。……いや初見から只者ではないと思ってたけど、流石に強すぎるだろ。
「ローラさんは、俺とクライスさんが闘ったら、どっちが勝つと思いますか?」俺は尋ねてみた。
いちいち何かと熱い女性、ローラは「闘技」に詳しい。俺の試合を観戦しててくれたことも何度かあるし、クライスの闘いぶりも知っているはず。
「おお、それは激アツなご質問ですねッッ!!うーん……どうしたって私情が入っちゃうからなぁ……
でも、私は今まで、お二人の闘いを観てきましたからね。
どちらが勝つか?となれば!クライス・カルミエです」
心がざわついた。
……そうか。俺は、負けるのか。
「でも実際、ほんとに試合が実現したら、私はクリスティさんのほうに賭けます」
「え?」
「クライス・カルミエは『完成』しています。
でも、クリスティさんは『成長』してるんです!
私は、そこに賭けたいと思いますッ!!」
闘技場へと歩く道。たぶんクライスは、いつものように悠然と、そこに居るだろう。
「クロノ様、最近は宙に浮かんでないで、ちゃんと歩くようになりましたね」
「これも筋トレの一環じゃからな」
「えらいねえ。よしよし」俺はクロノの頭に軽く掌を乗せた。
「ちょ、ダメっ!今は汗かいてるし」クロノが慌てて、首を引っ込めかける。
「汗かいてこそ、運動ですよ」
「……むう」
照れながらも、嬉しいらしく顔が綻びかかっている。可愛いな、こいつ。
……心配かけたくないな。クロノには、弱いところ、かっこ悪いところ、見せたくない。
「マット。負けるのが、怖い?」
びくっとした。
不意に訊いてきたクロノの声には、怖れの色もなく、ただ優しかった。
……俺の不安のほうが、表情に出てしまっていたかも。強がろうとしておいて、もう心配かけてしまってる。
ダメだな、俺。
「正直言って、怖いですね。まあ……勝つ、負けるって以前に、まず『闘う』ことが怖いかな。
俺が好きで、ずっと続けてる『筋トレ』っていうものは、純粋な『積み重ね』なんです。あえて言うなら、勝負する相手は、昨日の自分だけ。
でも『闘技』は、そうやって人々が積み重ねてきたものの『壊し合い』なんです。
どんなにリスペクトし合っていても、必ずどちらかが否定される。
それを1万人の観衆が、じっと見ている。
……あそこは、そういう場所なんですよ」
「マットは、自分に期待してる。でもひょっとしたら、試合で何もできないまま負けるかも知れない。負けたら、自分が積み重ねてきたものを否定される。
だから、闘うのが怖い。そういうことだよね?」
「あ。それ以前に、そもそも痛いのが嫌ですね。ボコボコに殴られてると、小さい頃お兄ちゃんにやられてたのを思い出しますし」
「筋トレも、同じように苦痛ではないのか?」
「やっぱ、違います。自分でやるのと、他人にやられるのは全然違いますよ」
「ふーん」クロノは俺の隣を歩きつつ、ぼんやり返事をした。
「まあ『怖い』って感情を、自分から話す前に、クロノ様に悟られてた、っていうのが恥ずかしいんですけどね。俺としては」
クロノは立ち止まった。少し遅れて、俺も足を止め、クロノに振り向く。
神様は笑っていた。
「……ふふ。我から見ると、逆じゃよ」
「逆?」
「逃げていいし、逃げたほうがいいかも知れない勝負じゃろ?
なのに、おぬしはローラの話を聞いた瞬間から、もうそれを受けて立つ気でいる。
だからこそ、震えておるのだろう?その手は」
俺は思わず、自分の手を開き見た。
「震えてました?」
「そうだよ。ばか正直者」
言い終える前にクロノは、俺の手を強引に掴み、その小さな手と繋いだ。
「やる気なんじゃな?クライス・カルミエと」
「……はい。やる気でいます」
握りしめたクロノの手が、さらに力強くなる。
「勝って」
「え?」
「勝ってきて!」
……俺は少しの間だけ空を見上げ、笑ってみせた。果てしなく。
「当たり前だろ?」
「そうかぁ、受けてくれるか!おまえさん、流石だな!
何しろ俺のほうは、だぁーれも挑戦してきてくれねえもんで、半年近くも試合が組めてなかったんだぜ!はっはっは」
「クライスさんは今まで、400戦以上無敗だそうですね。恥ずかしながら、知りませんでした」いや、まず名前すら知らなかったし。
「それ、俺も自分で数えたことないんだよなぁ。
ずっと昔、ここオプティマへやって来た時、職安の受付に『今まで100回くらい戦って、負けたことねえぜ』って売り込んだのも数に入ってるみたいだしな。
そうだ、せっかくだから訊いてみるか!
おーいスタッフ、俺の試合の記録ってあるかぁ!?本当に400戦無敗なのか、俺はよぉ!」
「はーいはーい、確認しますね。ボスは……えーと、あ。きゃはははっ」
スタッフの腕章を着けた女性は、ノートをめくっていたかと思ったら急に勢いよく笑いだした。
「何でぇ、どうしたんだ?」
「ボス、オプティマ闘技場での記録、言っちゃっていいですか!?」
「いやに勿体つけるじゃねえか。いいよ、早く言ってみな」
女性は、整った綺麗な歯を見せて、また笑った。
「クライス・カルミエ、現在!399勝、0敗です」