第52章 新しい体
クロノの消耗が激しく、すぐ低血糖のようになっては、魔石を食べて立ち直る。
その背中を支えている俺は、神の衣が汗でぐっしょり濡れているのを感じていた。
……それにしても、魔石は足りるのか?あとどのくらい残っている?もっと採っておけばよかった。まあ、ついさっきまでは、売ってお金にするくらいしか使い道はないと思い込んでたからな。
「……むうう、まずいな。無駄遣いが過ぎたか」
クロノがその両手とも、エルフの体に置いた。魔石の在庫は尽きたらしい。
「マット。これが終わったら、我はしばらく眠る」
「了解っす」
「やれるだけ、やりきりたい。ずっと支えてて」
「わかりました。ずっとね」
荒かったクロノの呼吸が、さらに乱れる。汗が涙のように流れ落ちていく。
エルフを包んでいた光はチカチカと点滅し、クロノは急に意識を失って、俺にしなだれかかった。口は開きかけ、ぐったりと脱力している。
「エリーゼさん、イリスはどうなりました?」
「んー……クロノさんが、何に対して働きかけていたのか、私には推測しかできないのですが!
おそらく、最初の段階は、肉体の拒絶反応を抑えるための魔法、だったのではないかと思います。
ただ後半、魔力の消費がより激しくなってましたので、それは何故でしょうかね?私にも、わかりかねます」
イリスの魂が入ったはずのエルフの肉体は、ぴくりとも動かない。
「おい……なあ、イリス!イリス!?」
マッドの声だけが部屋に反響していた。悲痛だった。
「そろそろ起きなよ、イリス!大魔法使いなんだろ!?ブレンダンが帰ってくるまで生きるんだろ!?」
俺が抱えているクロノも同様に、死んだのかと思うほど無防備な姿で眠っている。
「あの、クロノ様、イリスの魂は大丈夫なんでしょうか?」
頬っぺたをぷにぷにしてみる。反応はない。とりあえず首から上に滲んでいる汗は、俺の服の袖で拭いてやった。
「クロノ様。俺は、あなたを信じてますからね」
エルフの肉体は、イリスは動かなかった。
「……どうも、やはりダメっぽいですね。残念です。
はー、また失敗かぁ」
エリーゼの言葉は他人事のようだった。
それを冷たいとは感じたし、小さからぬ怒りも覚えたけれど、エリーゼのように過去、数百回も同じ光景を目の当たりにしてきたなら、誰もが無感動になるのかも知れない。
そもそもイリスは、エルフではなく人族だし、エリーゼにとっては、魔物が一匹死ぬようなものなのかも。
マッドは自身の両手で、エルフの手を握りしめながら、黙っていた。眼を閉じたその顔から、感情は読めない。
「……マッド。あの、イリスは」
「握り返してきた」
「えっ?」
「今、僕の手を、握り返してきたんだよ!」
「本当に!?」
「おおお!?まさか、それは誠でございますか!?」
「あははっ、なあイリス!そろそろ目を覚ましたらどうだ!思い出せよ。俺はな、あの時おまえに言っといたろ?
『俺の剣に、おまえが魔法をかけろ』って!
おまえも、今の俺と同じだよ。新しい体に生まれ変わったんだ!今の俺は、大魔法使い『じゃない』ブレンダン様だけどな。
だから、またおまえが必要なんだよ。ほら」
エルフの耳元で話しかけるマッドの口調は、いつもと明らかに違っていた。力強く、それでいて愛おしむような。
……このマッドは、さっきイリスの記憶で見たブレンダンを見事に演じているのか?
それとも、マッドが、ブレンダン?
「マッド、イリスの動きは?」
「ああ、だんだんはっきりしてきた。多分だけど、今、新しい体に慣れようとしてるみたいだよ」
「……マッド、あなたは、マッドなんですか?」
「もちろん。それが何か?」
「さっきの声かけは?」
「口では何とでも言えるからね。イリスに届くなら、僕は誰にだってなりきってやるよ。あっははは」
エリーゼも、エルフの体に手を当てて確認した。
「確かに、動いてますね!ぐぐぐ……こ、こんな大逆転が、起こりうるとは!諦めなければ……諦めなければっ!」
エリーゼはこの場面で涙を浮かべている。ちょっとその辺の感性が、俺達とは違うようだ。エルフ族だからか?
「エリーゼ、どうかな?今の状態は」
「あ、はい。過去の成功例に照らし合わせてみますと、現在のイリスさんは言わば、生まれたての赤ちゃんです。
脳から指令を送りながら、神経系の発達、つまり新しい体の扱い方に慣れようとしている段階ですね」
……神経系の発達か。
確かに子供は、初めて言葉を話す時、初めて立ち上がる時、何度も試行と失敗を重ねながら、動作を学習していく。それは、筋トレも同じだ。
「エリーゼさん、じゃあ徒手抵抗で筋肉に刺激を与えれば、神経系の発達が促進されますかね?もしくは、クイックリフトで」
「マット!君がそんなことさせたら、せっかくの新しい体が壊れちゃうよ。
っていうかクイックリフトって、赤ちゃんに絶対できないやつでしょ」
「確かに。すんません、『神経系』という言葉に反応してしまいました。てへぺろ」
「お、てへぺろとはね。マットも使いこなしてきたな」
不意に、がばっとエルフの体が起き上がった。しかし、それは操り人形のように、見えない糸で吊られたような奇妙な動作だった。
「イリス!おはよう」
「イリス……でいいんですかね?喋ることはできますか?」
「んー何やら、ちょっと様子が変ですね!?
しかし、私はこのような前例を見たことがありますよ!」