第51章 共に生きゆくことを
……夜、橋の上を歩いている。それは大きな石橋で、俺には見覚えがあった。
オプティマの街に架かる、クロノと二人きりで歩いた橋。
そういえば、この橋の真ん中で、クロノとお別れしたんだったな。すぐ戻ってきたけど。
「イリスさん。酔ってますか?」
隣のリャンが、やや覚束ない足取りで進みながら、訊いてくる。
「あたしよりあんたでしょ。珍しいね、あんなに飲んで。フラフラしてるけど、大丈夫なの?」
「大丈夫です!でもイリスさんと一緒にいると楽しくて、つい飲みすぎてしまいますねぇ」
「まったく、どうしたんだい。何かあった?」
「……イリスさんは、幸せですか」
「え」
「オプティマで暮らして、僕とお酒飲んだりしている、この今、あなたは、幸せを感じてくれていますか?」
「う、うん。幸せだよ。急にどうしたの、って思うけど」
リャンは橋の中央まで来て、柵にもたれかかり、夜空を見上げた。
「今夜は、月が綺麗ですね」
「ほんとだね」
「……イリスさん。僕、ずっと考えてました。それで、僕が出した答えを言います。
イリスさんの心には、今でもずっと、ブレンダンさんがいる」
「……ひゃひゃ、あんた今日はどうも変だね」
「ブレンダンさんは、あなたを愛していると思います。それは、いつまでも変わらない」
「もういい。もうやめよう、こんな話」
「ブレンダンさんは!」
リャンは泣いていた。月の光が反射して、涙の粒がキラキラと輝きを放ち、流れ落ちていく。
「ブレンダンさんは、ずっと、イリスさんの幸せを願ってるはずなんですッ!
あなたを悲しませたくて、泣かせたくて、戦場から逃がしたんじゃあないッッ」
リャンは震えながら下唇を噛み、そのせいで出血してしまっている。
「だから、だから、いつかブレンダンさんが、あなたの元へ帰ってくるまで、ぼ、ぼ、僕が!あなたのそばに、います!
……イリスさん。今は、僕が、あなたを幸せにしますから」
涙と口元の血で、ひどい顔になった冴えない男は、イリスを正面に見据え、その精一杯の努力で、ぎこちなく笑った。
「ばーか。女の前で泣いてる奴が、『幸せにします』なんて、笑わせるよ……」
視界が滲み、リャンの姿も橋の上の景色も歪んで、ほとんど見えなくなっていく。
「なんで?なんでよ、あたしなんかのために」
「愛しているからです。僕も、ブレンダンさんと同じように、あなたを」
……イリスが、また違う世界を映し出す。それは次第に、断片的なものへと変化していった。
「リャン、ごめんね。いっぱい心配かけたね」
「ブレンダン、ごめんなさい。
あたしね、あなたがいるのに、別の人を愛しちゃうのかな」
「……汝、その健やかなるときも病めるときも、
喜びのときも悲しみのときも、
富めるときも貧しいときも、
愛し、敬い、慰め、助け、
その命あるかぎり真心を尽くし、
共に生きゆくことを、
誓いますか?」
……ごめんね、ブレンダン。あんたは、祝福してくれるのかな?
ごめんなさい、リャン。優しくて、真っ直ぐで、そんなあんたが愛したのが、あたしみたいな女で、ごめん。
「……誓います」
イリスの意識が、途切れた。
我に返った俺は、エルフの体を見た。それは痙攣し、のたうち回っている。
「んー、残念ですが、これは失敗ですね。肉体のほうが拒絶反応を起こしているようです」
「エリーゼさん、イリスが助かる見込みは!?」
「前例はありません。この状態に陥った場合、魂は行くことも帰ることもできず、そのまま死を迎えます」
「くそ!僕のせいだ」マッドが叫んだ。こんなに感情を剥き出すマッドは見たことがなかった。
「クロノ様、何とかなりませんか……」
俺はクロノを見て、言葉を失った。
神様は、その大きな瞳ごと零れ落ちるのではないかと思えるほどに、止め処ない涙を流していた。
「うう、ブレンダン……リャン……こんなに心を打つ過去が」
「クロノ様、ちょっとクロノ様!そうやって感動してる間にイリスが死にます。
マジで、何とかする方法はないんですか」
「ぐじゅ……イリスは言っておったな。死とは結果であり、それは『空になったテーブル』のようなものだ、と」
クロノは空間から、大きな魔石を取り出し、噛み砕き始めた。
「マット。我が倒れたら支えよ」
「へ、へい」
クロノの手が、空中で痙攣を続け暴れるエルフの肉体に触れた。
「今から用いるのは、神のみが持つ力じゃ。よって、手持ちの魔石で足りるかはわからん。
マッド!もしイリスが反応したら、呼びかけを続けよ。いいな!」
「わかった。すまないが、頼む。クロノちゃんだけが頼りなんだよ」
クロノとエルフの体が、螺旋のような光に包まれていく。それは部屋を照らし、その全体の温度を上げていった。
「むうううっ」クロノが空いている左手で魔石を取り出しては、齧る。その額から汗が吹き出て、顎を伝い、床に滴っている。
少し経って、エルフの全身の緊張が少し緩んだ。
その眼は激しい瞬きを繰り返しつつ、何かを確認しているような印象もあった。
「イリス!イリス、聞こえる!?僕だよ!マッド・エリスビィだ!
なぁイリス、目覚めたらさ、せっかくこんな美人になれたことだし、僕と遊ぼうぜ!旅もしようか。一緒に仕事だってできる。
帰ったらリヴァにも会えるしさ!今頃みんな心配してるよ、きっと。
だからさ、この声、届けよ!届いてくれぇ!イリスッッ!」