第5章 俺は考えるのをやめた
どのくらい経っただろうか。
俺は床に刻んできた記録を数えた。
最初の一週間が経過したあたりで、俺は時の神に筋トレの記録をつけたい旨を申し出たところ、ぶつぶつ文句言いながら彫刻刀みたいなのを貸してくれたんだった。
この刀だけは、床に文字を刻んで残しておくことができる。
お、もうすぐ一年になるのか。つまり350回は筋トレを重ねたことになるな。
今は毎日全身をトレーニングしている。本当なら休息も大事なはずなのだが、この空間では疲労はリセットされる。
これまで肩や膝を計三回か四回ほど痛めたにも関わらず、それすら寝れば治っていた。
そして、筋トレの効果は積み重なり続けている。
逆立ち歩行は部屋の端から端まで往復できるようになり、腕だけで軽く走れるまでに発達した。
ここ何回かのトレーニングでは手をすぼめ、指先だけを接地させて走ることで指の強化も狙っている。
ジャンプ系の種目も順調だ。立ち幅跳びは5ヤード弱くらい跳べるし、垂直跳びも伝説の勇者が跳んだ半分くらいまでは届くようになった。
走る速さは体感しかないが、たぶん速くなっているはず。
手を着かずブリッジを行って首を鍛えるトレーニングは、段階的に発展していって、今は頭部だけで逆立ちした状態から首のバネでジャンプして半回転し、足で着地する芸当も可能になった。
最近は四つ足でダッシュ、壁を蹴って三角跳びなど、あらゆる種目を試してみている。
こんな空間でもやれることは無数にある。どうせ一日で治るからケガの心配もしなくていい。
ああ、筋トレって素晴らしいな。
「あのー、マット殿……」
「あ、クロノ様、おはようございます」
「お、おはよう……じゃなくてっ。筋トレってそんなに楽しい?いい加減飽きてこないのか?」
半年くらい経ってから知ったが、時の神にはクロノという名前があった。最初に言ってくれればいいのに。
「筋トレは最高ですよ。何の才能もない俺が、ここまで強くなれるんだし。クロノ様も見ててわかります?俺の変化」
「それは理解しておる。ギフトがないのにそこまで逞しい人間は珍しいであろうな」
「うん、でもまだまだっすね。俺、もっと強くなりますッッ」
「むうう……」
そもそも俺が時の神の石を割り、叩き起こされたクロノは怒って俺をここに閉じ込めたのだった。
つまりこの永遠の空間は、俺を苦しめる罰のつもりで用意したらしい。
しかし、俺は素直に喜んでしまった。それから、どうもクロノはさらに気を悪くしているようで、いつか俺が外に出たいとか言って哀願するのを心待ちにしている感がある。
いちいち人間くさい神だな。まあ感謝してるけど。
「おぬし、家族がいるであろう?」
「ああ、両親と、きょうだいが上と下に二人ずついます」
「もう一年近くも行方不明になってるんじゃぞ?心配かけているとは思わんのか?」
なるほど。そっち方面で落としにきたか。
「あー、たぶん大丈夫です。誰かが死んだりいなくなったりする、こういう時のために五人きょうだいなんですよ俺達」
「むうう……ふん、おぬしの姉はもうすぐ結婚するというのに、おぬしはそれを祝ってもやれん愚か者だな」
「へー、わざわざうちの様子見てきてくださったんですね」
「え、あっ!?しまっ……」
また顔真っ赤になってる。この神様、やっぱ頭弱いよな。
「まあ、クロノ様のそういう慌てた表情も好きですけどね」
「むううううう、もう知らないっ」
恥ずかしさが一定以上になるとクロノは消える。こういうやりとり、もう何回やってるんだか。
よし。気を取り直して、俺は今日も逆立ちダッシュから始めよう。今日は手の指三本だけで走ることにする。
「なあマット、おぬしがここに来てから今日で三年になるんじゃぞ」
「三年ですか。じゃあ普通の世界だったら俺、もう二十歳ですね」
「……あの、もう十分なのではないか?筋トレ」
「筋トレに十分なんてのはありませんよ」
「おぬしは、何のために鍛えるのだ?」
「あー……考えたこともなかったな。うまい料理を食らう如く、じゃないっすかね?」
「むう」
むう……とか唸る際、クロノはいつも頬っぺたを膨らませる。
透き通るような肌に漆黒鮮やかな長い髪は、さすがに神様と思わせる芸術の美しさなのだけども、その立ち居振る舞いだけ見てたら実家の妹と変わらないな。
「今、クロノ様のその表情見てたら、ちょっと故郷が恋しくなりました」
「え、ほんと!?」
「ほら、そういう子供っぽいとこが妹に似てるんですよ」
「むうう」
「可愛いっすね」
「……せっかく、ちょっと外の様子見せてあげようと思ったのに!もう知らない!」
あ、消えた。
しかし考えてみると、兄姉だけでなく妹も、そろそろ結婚して新たな環境のなか生活していくのかも知れないな。
……俺だけが時の流れから離れ、ただひたすらに筋トレを続けている。
まあ楽しいからいいや。どうせ終わりたいと思っても終われないので、俺は考えるのをやめた。