第37章 世界の見え方
ペンダントを着けたクロノは、闘技場までの道のりをずっと上機嫌で歩いていた。
「身に着ける物ひとつで、眼に映る世界ごと変わったような気分じゃ」
「そんなに嬉しいものなんですか」
「るんるんじゃ、るんるん!」
「ふふっ」
「笑っておるがよい。そんなマットだって、筋肉が増えたらるんるん気分じゃろうに」
「あー、確かに。女の子にとっては、それくらいの変化ってことか」
「そういうこと!」
闘技場の正面出入口。門の脇に立つ大きな時計には、10時40分と表示されており、既に興奮した人々で溢れかえっていた。
「試合がある日は、いつもこんな感じなんですかね?活気あるなー」
「そうじゃろうな。手軽に非日常を味わえるし、公営ギャンブルとしても規模の大きなイベントじゃから」
「マッドは……まだ、っぽいですね」
「うん、イリスは来ておるよ。ほれ、そこに」
クロノが指し示す先には、多くの人に囲まれ、エサを貰い、撫でられている黒いネコの姿があった。
「かわいいー!ネコちゃん、ごろごろ言ってるー」
「これも食べな!ほれほれ」
「しっぽ三本ある!ふしぎー」
俺は人混みをかき分けるようにして、イリスに近づいていった。
お婆ちゃんとか、さん付けでは傍目におかしいか。見た目はネコだしな。
「イリス!」
はっとした顔でこちらを見たイリスは、たっと走りだしたかと思うと、俺の肩に跳び乗った。
「にゃー」
「人気者ですね。ネコの姿は」
「へへ、あたしの若い頃も、こんな感じで男が寄ってきてたさ!」
イリスは俺の耳元で、囁くように喋った。人々には正体を隠しているらしい。当たり前か。
「クロノ様ー、マッド見ました?」
「いや、来ておらんな」
「ぼんじん!マット!」
「はい?」
子供の声がして、下を向くと、膝の破れたズボンを履いた小さな少年がいた。
「マットせんしゅ、ぼんじんのほこり!サインして、サイン」
「え、俺が?」
「うん!ふくと、くつにもかいて」
ペンを手渡された俺は、よれよれの服と擦り切れた靴に名前を書いた。
「ありがとございます!」
「へい、どういたしまして」
「あーっ、マットだ!マット・クリスティだよ、あれ!」
「『四天王』ネイザーをぶっ倒した奴だ」
「最強の『持たざる者』だぜ、あいつは」
「マット、握手してくれよ」
「マット選手!腕とか触ってみてもいいですかぁ?」
人が集まってきた。まずいな。女性が来ると、クロノが怒る。いや、見るともう怒っていた。
「えーと、あんまり触るのは、ちょっとあれですかね」
「照れてるー!可愛い。近くで見ると、まだとってもお若いんですね」
「んー、まだ一応17歳……なのかな?体は」
「17歳!?きゃー、お肌すべすべだぁ!あ、筋肉って、意外と柔らかいんですねー」
「あの……肌も筋肉も、たんぱく質で構成されてるんで、食べ物からしっかり摂取するといいっすよ。肉とか魚とか。
あと水も多めに飲んでくださいね。1日5ポンド以上を目標に」
「わかりましたぁ!あの、もしよかったら抱っこしてください!」
「あー、じゃ私も!」
「ぼくも!」
……これ、あかんやつや。誰か助けてくれ。
もみくちゃにされている時、人垣の向こうで、ひときわ大きな歓声が起きた。
「あんた、マッド・エリスビィじゃねーか!」
「カッコいい!笑顔が素敵っ」
「マッド様、ハグしてくださーい!」
「もちろん!お美しい女子のみんな、順番にね!あっははは」
場の空気を、マッドの登場が一気に塗り替えた。俺が呆気にとられているうちに、マッドはサインしたりハグしたりキスまでしたり、忙しく立ち回っていた。
「クロノ様、あれがマッドなんすね」
人々が移動してくれたので、やっと近くに寄れたクロノに声をかけた。
「むう……まあ、チャラいよね。ほんと」
「あれはちょっと真似できないなー」
「しなくていい」
「しませんよ」
「マットは、マットのままがいい」
「……今日は素直ですね。酔ってもないのに」
「うん。たまにはね」
クロノが真っ直ぐにきてくれると、一気に照れくさくなる。顔が熱い。人々の意識がマッドのほうに向いてくれてて良かった。
「マット、おはよう!ちょっと情報を集めててね。思ったより遅くなったよ」
「マッド、思ってた以上に人気者なんですね」
「何言ってんの?僕が来た時には、みーんながマット。君のほうに注目してたんだよ?あははっ」
そう言われると、そうか。
「自分を客観的に見れるようになったら、世界の見え方もまた変わってくるさ。
マットは僕のことを、なんだか凄いと思ってくれてるでしょ?」
「はい。そう思ってます」
「その僕に言わせれば、君のほうがよっぽど凄い。やっべえ体だし、めちゃくちゃ強いし、とにかく真っ直ぐだ。
少なくとも、マットのほうがぶっ飛んでる。というのは間違いないね」
「ひゃひゃひゃ、マット君。良い意味で、あんたからは若さを感じるよ。
あんた、317年も生きてても、そこは変わんないんだねぇ」
「あれ?俺、年齢の話とかイリスさんにしてましたっけ?」
「あたしゃ、大魔法使いイリス・キーレだよ」
「よし、みんな。一番遅く来た僕が仕切るのも変な感じだけど、これから重要なことをいくつか話しておこうじゃないか。
作戦会議だ。人がいないとこ、向こうの芝生あたりにしようか」
マッドは闘技場の敷地にある、広場のほうに目を向けた。