第35章 クロノ対話篇
「正しいか、誤りか。まずそれは、そもそも『前提を必要とする問い』なのじゃ」
「前提?」
「1+1の答えは?と訊かれたら、おぬしも2と答えるじゃろう。基本的にはそれが『正しい』。
しかし、それぞれ同じ分量の小麦粉と砂糖を混ぜ合わせたものを、『これは2である』とは誰も言わない。
つまりじゃな。何かを『正しい』と判断するには、そうするための『物差し』が必要だということ。1+1には、『数学』という物差しが。
そして、おぬしが先ほど言った『こうすることが正しいか否か』という問いの、物差しなど存在しないよ」
「神様でも、そういう正しさの前提は持ってないんですか?」
「仮にそんなものがあるとしたなら、何故、我々はわざわざ『間違ったこと』が存在する世界を創り、管理しているというのか?」
「……じゃあ、『善』や『悪』って何なんです?善い行い、悪い行いって、あるんじゃないんですか」
「ふむ。では、それを判断する際の『前提』となっているものを考えてみよう。
例えば、雨が降る。これは善か、それとも悪か?」
「えー、降らないと困るのは確かですけど……」
「降らなければ、作物は枯れ、人は飢えと渇きに苦しむ。
しかし降れば、時には村を飲み込み、山を崩し、多くの人の命を奪うこともあったのではないか?」
「そう、ですね」
「考えてみたところで、もう一度尋ねよう。『雨が降る』こと自体に、善悪はあるのか?」
「ない……みたいですね」
「そう。ではマット。おぬしが石を持ち上げ、落とす。その行いに善悪はあるか?」
「クロノ様は怒ってたと思います」
「ごほん、まーその話はいいから!もう300年経ってるし!
……別に他のことでもいい。朝に目覚めるとか、腹が減ったから飯を食うとか、おぬしの何気ない行動に、善悪は存在すると思うか?という話じゃ」
「やっぱ、どうも、なさそうですね」
「うん。では、おぬしは下のほうに人が居ることを知っていて、それを目掛けて石を落としたら、どうだろう?」
「それは悪いことです」
「そうじゃな。何故、悪いと思う?」
「傷つく人がいるから、ですかね」
「なるほど。しかしそれでは、新たに考えてみなければならぬことができたな。
傷つく人がいるから悪い、というなら、例えばその石を落とした相手が狂った魔法使いで、おぬしが石をぶつけて殺さなければ何十人を殺していたかも知れない。
そう考えられる場合なら、石を落とせば、傷つく人は減らせることになる」
「いや、それはそうかも知れないですけど。
そういう考えを持って行うかどうか、が重要なんじゃないですか?」
「これでわかったな。そう、善悪とは何か?それは、人の『意志』なのじゃ。それによって行動した『結果』に、善悪があるのではない。
『結果』だけをみれば、人を救おうとして殺すこともあるし、その逆もあるじゃろう。
そして、人はその『結果』を想像するから、『行い』に悩む。今のマットのようにな」
「……俺の悩みは、答えのないもの。ってことですかね?」
「そう。だから我のように神も、人々の行いの『結果』は知らないよ。今から300年経ったとして、その未来にどんな世界があるのかは、神も知らぬこと。
そもそも、すべて決まっているというなら、時が流れていく必要もないしな。まさしく『空になったテーブル』じゃよ、そんな世界は」
「善悪とは人の意志、っていうのは……どういうことですか?」
「『雨が降る』ことに善悪がないのは、雨が『意志』を持たぬものだからじゃな。
雨は、大気が空へと立ち上り、それがまた降りてくるというだけ。雨が、自らの意志で降る、降らぬを決めたりはしない。もちろん悩んだりもしない。
自らの意志で行動を選び、そこに善や悪を感じ、悩むということは、神が人間だけに与えた能力であり、権利なのじゃ」
「善悪は、俺のなかにあるってことですかね」
「そう。全ての人間のなかにある。そして、そこにしか存在しない。
神に与えられた善き意志を、自らの行いにどう生かすのか?それは人に委ねておるよ。
『意志』は各人に与えているが、『結果』については最低限のコントロールしか行っていない。神々とは、そういうものじゃ」
「じゃあ、神様っていう存在は、人間の行いを見て『それは正しい』『間違っている』とは思わないんですか?」
「……おぬしらと一緒じゃよ、我々も。人の生き方に、正誤などない。
ただ、そこに見え隠れする『意志』に対して、それを尊んだり憎んだりする。ふふ、要は『好き嫌い』ということじゃな」
「……神様って、どういうものなんですかね?クロノ様と長く一緒にいるせいか、かえってわからなくなってきました」
「人間を創る者だから、子に対しての親みたいなもの。特別な力を付与されてはいるけど、基本的に、人間と変わらないよ。
だから人の形をしておる……というより、人が神に似てるってこと」
「……確かに。クロノ様って、いい匂いがしますもんね」
「ふわっ!?な、な、へ変態っ!」
クロノは慌てて、ずっと掴んだままでいた俺の袖を振り払った。
「そんなこと思ってたの!?お、愚か者っ」
「あ、すんません。なんか今は正直に言いたくなって。そうすることが『善』なのかなー、という気が」
「むりやり話に絡めなくていい!むうう……要は、くさいってことでしょ!」
「いや本当に、なんでこんないい匂いがするんだろう」
「もう嗅がないで!きゃーっ」
「あ、ほら。あの宿!良さそうですね」
「……着いたらわたし、真っ先にお風呂入るもん」
結局、答えがないなら、生き方は自分で決めるしかない。今のところ、その道筋がはっきり見えたわけでもない。
ただ、話している途中から、神様っぽい口調を頑張ってるクロノが愛しく思えてきて、宿に着く頃には悩みも消えてしまっていた。
「マットのばか。嫌い」
「ばかなんで、これからも色々教えてくださいね。俺は好きですから。よろしくお願いします」
「……むうう」