第19章 別れのあと
おいしくないな。
クロノと一緒にいた300年のなかで、俺は毎日ずっと同じ物を食べていた。ウサギの干し肉、シカの干し肉、蒸した芋。それと水。
食べ尽くしても、寝て起きたら元に戻っていた。だからまた食べた。それでも、300年間「おいしくない」なんて感情を抱いたことは一度もなかった。
そして、今の俺とクロノが向かい合う料亭のテーブルに置かれた料理は、そんな保存食なんかよりずっと温かくて、ずっと高級で、ずっと上品で、そのはずなのに。
「クロノ様、美味しいですか?」
「……うん。ありがとう、マット」
会話は何度となく、途切れてしまっていた。もうお互いに察してしまっている。
別れ。出会いと同じ数だけ、必ず訪れるもの。ずっと考えないようにして逃げてきたもの。
……父と母が死んだ時も、きょうだいが死んだ時も、俺はそこに居なかった。今になって考えてみると、俺は別れなど体験したことがないのかも知れない。
永遠に続くと信じたものが終わる感覚。大切な何かを失う感覚。それを今、俺は317年の人生で初めて食らっていた。
「何じゃ、マットのほうこそ、もっと食べないと保たんのではないか?せっかくの料理を」
「あ、そうですね。ちょっと……何て言ったらいいか。
クロノ様はこれから、どうされるんです?」
「我は、マットが……おぬしの生活がひとまず安定したことを、神々の本部へ報告する。
それで、御役御免じゃな」
「元の……あの小屋に戻るんですか?」
「さあな、おそらく配置替えかも知れんよ。おぬしとの一件、我の不祥事には違いないから」
クロノはゆっくりと、感情を殺すように、パンをほんの少しずつ千切っては口へと運んでいた。
「お別れ、ですか」
「そうなる」
胸がざわめく。首筋が冷たくなる。そうか、これが別れか。
料亭を出て、繁華街を二人で歩く。できるだけゆっくりと。最後の一口を味わうように。
歩くうち、大きな橋の真ん中まで来ると、自然と二人は立ち止まっていた。水面の揺らめきは絶えず、ぽつんぽつんと見える鳥が羽を休めていた。
「……マット。あの……
ここで、別れよう」
「え?」
「今から本部に飛び、諸々を報告する。そうしたら、もう顔を合わせることもなくなるじゃろう」
「そう、ですか。なんか、やっぱ寂しいですね。
ずっと同じようで、けっこう色々あったな。この300年」
「そうじゃな。ふっ、そもそも、おぬしが我の眠りを……」クロノが急に後ろを振り向いた。その背中が震えていた。
「……ごめん。ちょっと……色々、思い出しかけて」
クロノの涙声。俺は歯を食いしばった。
今、口を開いてしまえば、俺まで泣いてしまいそうだった。
その時、ふいと見上げた視線の先に、夕陽が映った。見事な空だった。
「あ、クロノ様。夕陽が綺麗ですね」
「ん……ほんとだね。そう、綺麗」
しばらく沈黙が続き、俺は次の言葉を探そうと振り返ってみた。二人の影が、長く伸びている。
人生で幾度となく経験したはずの、ただの夕陽。でも今は、それが特別だった。
「ねえ、マット。最後に」クロノが夕陽を見上げたまま、俺に話しかけてくる。
「……最後に?」
「あのさ。今、まで、あ、あ、ありがと……じゃあ、ね」
途中しゃくりあげてしまって、ほとんど声になっていない言葉を発した瞬間、クロノは消えた。
俺は、残された。
「……何だ。あっさりしたもんだな……ぐっ」
独り言を呟いた瞬間、急に涙が溢れて止まらなくなった。
やっぱり、口なんか開くもんじゃなかったな。
「つらいなぁ……クロノ……別れって」
夕陽が滲んで変形していた。今は綺麗なものなんて何も見たくないから、丁度いいや。寒くないのに体はずっと震えていて、どうも可笑しい。
何も行動を起こせないまま立ち尽くして、気がつくと太陽もいなくなり、夜になっていた。
これからどうしようか。とりあえず、腹減ったな。人間なんて薄情なもんだ。
「……クロノ、今までありがとう」
そんな言葉が俺の口から自然と零れた瞬間、周囲に異常な歪みを感じた。
何だ?
俺はつい昨日、ネイザー・エル・サンディと相対した際に味わったような、心を圧し潰すたぐいの危機を直感した。
「マット・クリスティ。今から貴様を聴取する」
「そーいうこった。洗いざらい説明してもらうよ。何があったんだ?」
姿を確認。あ、クロノの先輩方6人だ。いや6神か。
とうに陽が落ちたはずのこの橋の上が今、華やいだ光と香りに満ちている。
眼鏡のお姉様が、いきなり俺の胸ぐらを掴んだ。凄まじい力を感じた。
「マット・クリスティ。私、今けっこう怒ってるわ」異常な剣幕で、俺の体を揺するショートの青い髪。その激しさのあまり、眼鏡がずれてしまっている。
「返答によっては逮捕する。マット!クロノに、何したの!?」
「え」
「私の可愛い後輩が、さっきから……ずっと、ずっと泣いてんだよおぉぉっ!」
お姉様は完全に冷静さを失ってしまっている。その美しい眼に涙が溜まっているのが見えた。
「クロノちゃん、とっても落ち込んでるみたいなのよぉ。マット君なら、事情わかるよねぇ?話してほしいの」金髪のエロい女性も、今は口調が冷たい。
「なあマット君。こいつさ、この前言ってただろ?『クロノをよろしく』って。
それがな、今もう泣いてて話もできないくらいなんだ。どう思うよ?」
俺に掴みかかる青髪の頭を撫で、抱き留めるように制止した、引っ詰めの緑髪が揺れる長身の女性。
ずれた眼鏡を優しく直してあげていたが、俺のほうに視線を向ける頃には、殺意のようなものさえ感じられる凄みがあった。
うん、だいぶ理解できたぞ。どうも、俺がクロノを泣かせた罪人だと思われているらしい。
全員の眼が、怖い。