第18章 新たな1ページ
魔法の糸は瞬時に消え去り、だらりと脱力したネイザーの体がみるみるしぼんでいった。いや、それでもデカいけど。
俺はおそるおそる、上半身に込めていた力を緩めてみる。
初対面で理知的に見えた大男の顔は、大昔に俺が畑で育てていたマメみたいな形状に凹んでしまっていた。
俺の腕から離れたネイザーの体が、静かに石床へと落ちた。変形した首から上が、あさっての方角を向いている。
カンカンカンカァン。
鐘の音が闘技場に響く。
舞台を覆っていた壁が消える。静まりかえっていた観衆は一転、今度は割れんばかりの大歓声をあげ始めた。
「「決、着ッ!魔闘技の歴史にぃッ、新たな1ページが加わりました!
勝者ぁ、格闘家、『持たざる者』マッド・エリスビィッッ!皆様、盛大な拍手を!」」
いや、誰だよそいつ。どこ行ったんだよマジで。
俺は魔法によって緊急の治療を受けているネイザーを見下ろしながら、どうにも釈然としなかった。なんで俺が、こんな痛い思いをする羽目になったんだ?
「マット!」声がしたと思うと、クロノがいきなり俺の胸へ飛び込んできた。
痛い、と思いかけたが、抱き締められ黒髪の甘い匂いを感じた途端、俺のケガは全て治癒していた。クロノの魔法か。
「すごく怖かった、マットが心配だったよぉ。ふえええんっ」
クロノは半裸の俺にしがみついて泣きじゃくっている。俺はその背中をさすり、俯いたまま泣くクロノの頭にこっそり口づけた。
……さっきの仕返しだ。ありがとう。
時の神様がこんなに感情を出したのは、いつだったろうか。華奢なその体は熱くて、衣が汗でびしょびしょだった。本気で心配しててくれたんだな。
クロノが漸く落ち着いてきて、急に恥ずかしくなったのか、慌てたように俺から離れた。少し乱れた髪と衣を直し、ぷいっと顔を背ける。
「ぐすん……ふぅ。
ま、まったくもう、つくづく世話のやける人間じゃな。おぬしは」
その言葉が、俺の心を揺さぶるほど愛おしく感じられた時、また歓声が沸いた。隣で治療を受けていたネイザーの意識が戻ったようだ。
俺は人殺しにならないで済んだ。
「クロノ様、あいつが目覚めたんなら、もうそれでいいんじゃないっすかね。
俺、そろそろ腹減ったし、早くプロテイン(たんぱく質)とカーボ(炭水化物)補給したいんで」
「……ふふっ、そういう言葉、300年前にも聞いたぞ。
しかし今から、名誉と報酬が貰えるのではないか?ほら」
クロノが視線を向けたほうに、こちらを見ている三人がいた。
さっきボディチェックをされた歴戦の勇士っぽい人と実況の女性、解説の男性だった。ウルといったか、この解説者もネイザー並みのバルク(筋肉量)だけど、こいつら一体どうなってるんだ?
「「それでは皆様、勝者にインタビューです!マッド選手、こちらへどうぞ!」」
拍手が起きている。俺はゆっくりと、呼ばれた舞台中央へ向かった。
「「マッド選手、歴史に名を刻みましたね!」」
「「えー、お。あの、まあ何とかなったみたいですね」」
顔に向けられた、楽器のような物のほうへ発声すると、自分の声が空間全体に響いたもんで驚いた。しかしこの受け答え、何の内容もないな。
「「次の試合も、『魔闘技』に出場されるんでしょうかッ!?」」
「「あー、条件次第ですかね。とりあえずお金と住む場所が欲しいんで、今」」
「「それでは今後にも期待ですね!最後に、観客の皆様に向かって一言どうぞ!」」
「「そうですね……えー、鍛えてても痛いもんは痛いっすね。やっぱり」」
会場に爆笑が起きた。なんかウケたみたいだし、もういいだろう。俺は四方八方へと手を振った。
「……じゃあおまえさん、マッド・エリスビィとは別人ってことか!?」
「たぶんそうです。俺には昔からマット・クリスティって名前があるんで」
「なるほどなあ……じゃあマッドのほうは、無謀な試合を組んどいてバックレたってこったな。
そんで俺達がマッドを捜している時、たまたま名前が似ているおまえさんが来ちまった。
みんな間違いに気づかないまま……さらに信じ難いことに、おまえさんのほうが勝っちまったんだ」
「これ、俺は賞金とか貰えないんですかね?」
「うーん……難しいのは、もしおまえさんが別人だってバレると、さっきの死闘が無効試合にされちまう、ってことだな」
雲行きが怪しいな。俺、タダ働きっぽいぞ。
「そこでだ。もう、おまえさんがマッド・エリスビィってことでいいんじゃねえか!?
俺は何も聞いてねえし、知らねえってこと。第一、ファイトマネーは勝った奴が得るもんだ」
「それって、幾らくらいですか?」
「相手があのネイザー・エル・サンディだからな。保険とか諸々引いて……
300万と少し、くらいだと思うぜ。今から計算させるよ」
300万ロニー。それだけあれば、当面の生活は大丈夫そうだ。少し安心して、横のクロノを見た。
はっとしたような表情の後、クロノは今まで見たこともないような悲しい顔になっていた。力なく視線を下げ、唇を噛んでいる。
今にも泣き崩れそうな、そんな表情が見たかったんじゃないのに。
何故?
……そうか。俺が一人で生活していけるようになったら、クロノの役割は。
「クロノ様、300万もあれば、俺もう大丈夫ですかね?」
「え?あ、あぁ……そうじゃな。そう、もう大丈夫……
わたしが、いなくなっても」
……クロノとの別れ。考えたこともなかった。
いや、何度となくあったはずだ。なのに、俺は、その未来を見ないようにして、この今まで歩いてきてしまった。