第1章 凡人である俺が筋トレを始めた理由
楽しい! 爽快! ためになる! 筋肉物語、はじまり。
その黒髪の美少女は俺に向かって叫んだ。
「もう許さないから! ……あっ、じゃなくて! お、おぬしのような愚か者は、時を司りし我が力によって永遠に悔やみ続けるがよいっ」
刹那、俺の眼前のすべては白く無機質なものへと変わった。小さな畑ひとつほどの広さがある、しかし何もない部屋。
……俺がこの空間に閉じ込められてから、いったいどれほどの日を繰り返してきたのか?
最初のうちはひたすら地面に記録を刻み続けてきたが、10年を超えたあたりで面倒になって、やめてしまった。
俺みたいな何の才能も与えられなかった農家生まれの凡人が、ひょんなことから神の怒りに触れたおかげで、永遠の日々を繰り返し続ける羽目になっている。
真っ白で平坦、ただ広さと高さだけがある部屋。ここに物はない。あるのは閉じ込められる前に着ていた服装と、腰に着けた道具袋だけだ。
……それで、改めて思うけれども、うん。
まったく最高だ。環境としては完璧すぎる。
俺は永遠に筋トレをしていたいんだ。
畑仕事を手伝っていた15歳の頃、俺は農村の皆と同じように朝日と共に目覚め、太陽が高くなると作業を終える生活だった。
俺、マット・クリスティが生まれたのは代々と続く農家だった。
五きょうだいの真ん中だったが、皆一様に何の「ギフト」の印も刻まれていない体で生まれ、凡人として育っていった。
俺が物心ついてから、隣村に「勇者の印」を持って生まれた子供が現れた。
俺達が住む村にも、「魔法使いの印」を持つ家系があった。そいつらは常に俺達を見下し、自らは特別な存在だと称していた。
悔しかった。このまま一生を終えるのは嫌だ。
俺は平凡だったが故に、それを受け容れて生きることができなかった。弱い人間ほど弱さを認めようとしない。まあ俺が若すぎたのもあるか。
両親がいつも「これからのご時勢、うちみたいな農家の子にも教養が必要になる」と口癖のように言っていた。
裕福な家庭ではなかったと思うが、俺が「本を買いに行きたい」と言えば大抵お小遣いをくれた。迷惑をかけたくなかったので、貸本なども頻繁に利用したし、そもそも立ち読みが多かったけれど。
生物学、自然学、力学、解剖学、生理学……あらゆるジャンルを読み漁っているうち、気がつくと俺は一冊の本を手に取っていた。
アラン・シュヴァルツ著『筋肉は鋼となる』
筋肉、鋼……? なんて力強い響きなんだ。
俺は期待を胸に、そのえらく分厚い本を開いた。
その冒頭、精巧緻密に描かれた、アラン自身の肉体のイラスト。全身のあらゆる筋肉がはち切れんばかりに肥大し、人間を超えてしまった人間。
……俺は、それを美しいと思ってしまった。
バカげた肩幅を構成する三角筋、何か背負ってるのかと思うほど膨らんだ広背筋、刀で彫ったように深く刻まれた胸筋から腹筋へのセパレーション。そして大樹の根っこを思わせる強大な脚。
「やべえ……これが、神か」本屋の棚の前で、思わず声が出てしまっていた。
「適切な鍛練を積めば、やがて肉体は鋼を超える強さをもつであろう」
「鍛練、食事、休息。これぞ三本の柱である」
「過去の自身を超えていけば誰しも何時か、ふと振り向いて気付くだろう。高みへと上りついていることに」
うおおおお、アランの言葉いちいちかっけえええ! テンション上がってきた!!
その本を手にした時から、俺の人生に筋トレが始まった。そして筋トレは俺の人生そのものとなっていった。
全ての学問は筋肉に繋がっている。
……俺はプッシュアップ(腕立て伏せ)やクランチ(腹筋運動)を反復していくうち、それを知った。無意味な学問などありはしない。学びを止めない限り、いつか全ては繋がる。
全てが俺の筋肉となり、力となる。
日常生活のあらゆる活動はボディビルディングの一要素である、という認識が俺に芽生えたのだった。
とは言え、そもそも俺には何の才能もない。スタートの時点では基礎的な体力すら同年代の平均レベルに劣っていた。
もっとも、「腕力の印」「走の印」「投擲の印」などを持つ奴らのそれぞれには敵うはずもない宿命。生まれた時から、俺の負けは決まっていたようなものだった。
……その現実は、俺の前で少しずつ変わり始めた。
アランの考案による三分割の筋トレメニュー、目標毎日1ポンドの肉食、筋発達を促すハーブ類の摂取。
正しい鍛練は決して裏切らない。食べる物は日々、俺を育ててくれた山から得てきた。
16歳になった時、俺の体力は全ての要素で平均を超えていた。とは言ってもまだ凡人には違いなく、外見も服を脱いだら少し腹筋が割れて見える程度だった。
才能がないと、こんなに頑張ってこんな程度なのか。勇者は5ヤードの高さにある怪物の頭まで跳躍し、斬って捨てたと伝記にあった。俺は助走をつけて1ヤードも跳べない。
しかし、俺は諦めない。選択肢などなかった。
やるか、やるか。