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遠すぎると役立たない、近すぎると危ない

 第1次大戦の時から、「戦車の周囲に歩兵がついて行かず、相手の歩兵が周囲に潜んでいると、いろんな手段で戦車を破壊・捕獲される」というのは常識と言いますか、現実でした。当時の戦車には無線機がないので、分かっていてもそれを防げないままいろいろな工夫がされました。


 じつは同じころ、戦車の一部は武装を外して、燃料や弾薬を戦車のところまで運ぶのに使われました。砲弾の穴だらけになったでこぼこの戦場で、戦車の通れるところに荷物を持ったまま進めるのは戦車だけ……ということがよくあったわけです。この応用として、戦車をがらんどうにして歩兵を乗せることも試されていますが、すでにドイツの敗勢が明らかな頃だったのではっきり「役に立つ、立たない」という結論は出ませんでした。


 その後、オートバイに乗った歩兵やトラックに乗った歩兵を戦車と協力させることを世界中の陸軍が試しました。戦争が終わると軍隊は貧乏になるので、装甲された車両に歩兵をつけて戦車につけることは、しばらくだれもやらなくなりました。むしろ、ガルパンのドゥーチェが乗っているCV33のように、「歩兵と機関銃を乗せた軽装甲車両」にそれだけで戦闘をさせ、歩兵の代わりにすることが結構真剣に研究されました。例えば国内の治安維持なら、わずかな戦力で広い範囲をパトロールできて予算節約になるかもしれない……と植民地の広いイギリスなどは考えたわけです。


 そういう、オートバイやトラックの話は別の機会にして、ここでは1937年に開発が始まった、ドイツ戦車の相棒であるSPW(装甲兵員輸送車)の話をしたいと思います。Sd.Kfz.251系列と、少し小さい250系列のことです。


 どうしてこの車両が登場したか、はっきり経緯を説明してくれる資料はまだ見たことがありません。ずっと後の1941年から1942年にかけて、SPWに乗った歩兵(シュッツェン)のための訓練マニュアルが登場しました。そこから出発することにします。


 そこでは、SPWに乗った歩兵は戦車の代わりに、敵陣地、塹壕など戦車から見つけにくいものや、戦車では撃破しにくいものを歩兵たちみんなの目で見つけ、歩兵の火器で撃破するのが役目だと書かれていました。SPWは小銃弾くらいなら防いでくれるかもしれない(試しに撃ってみたら貫通したという兵士の回想があります)装甲と、車内の備品としてMG34軽機関銃を1丁、MP40かMP42短機関銃を1丁持っていました。よくプラモデルのSd.Kfz.251が、車体の前と後ろに機関銃を1丁ずつ持っていますが、どちらかが備品でどちらかが分隊の機関銃チームのものなのです。分隊が戦闘のために降りたときは、ふたりの兵士がSPWに残り、ひとりが運転してもうひとりが機関銃と無線機を扱いました。


 つまりSPWは、第1次大戦の時から戦車のそばで歩兵がやったほうがいいと思われていたことをするために、現場まで歩兵を(比較的)安全に連れて行くものだったのです。そのためには、多少は防御力があって、戦車と同じくらいでこぼこの地形に強い車両が必要で、トラックやオートバイではダメだったのです。


 なおシュッツェンというのは英語のシューターにあたる言葉で、鉄砲が登場するまでは弓兵のことでした。だから「狙撃兵」と訳されることもあります。第2次大戦期のシュッツェンは歩兵(インファンテリー)とほぼ同じ意味に使われていましたが、装甲部隊ではインファンテリーという言葉を避ける傾向がありました。


 さて、タミヤの「ドイツ歩兵 進撃セット」なんかをご存知の方は、「戦車の上に乗ったドイツ兵」のイメージをお持ちでしょう。これはドイツではマニュアルなどで統一的に指導されたものではなくて、1941年にソヴィエトと戦争が始まってから、数週間のうちにソヴィエトのやり方を真似して始まったものです。


 ソヴィエトは戦後になってBMPシリーズなどの歩兵戦闘車を作りましたが、第2次大戦が終わるまでは歩兵は歩くか、戦車に便乗するものでした。例えば戦車師団に属する歩兵が、「第何大隊はどこからどこまで、この戦車隊に乗せてもらえ」などと命令されたのです。振動と熱を我慢しながらしがみつくわけですから、楽なものではありませんでした。


 ソヴィエト戦車師団の歩兵はこうして頻繁に戦車に乗りましたが、戦車は敵弾が集まる場所でもありました。ですから普通の歩兵より(平均的に)短命だという自覚は広がっていたようです。優勢なときは便利な移動方法なのですが、途中を敵に襲われる可能性が高いと損害を増やす結果にもなったので、大戦後半になるとドイツはあまりこれをやらなくなりました。「後方だからと油断して戦車や突撃砲に便乗していたら敵襲を受けた」ようなケースも出てきたわけですが。

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