5人だけど合体はしないよ
ドイツ軍の下士官は多くの場合、師団レベルかそれより上で数週間の研修をやり、伍長に昇進するものでした。研修に行かせてもらうところが上司の判断なのです。上の軍曹どのと仲が悪く、いつまでたっても伍長になれないなどというケースもありました。そのほかに非常に歴史の長い「下士官学校」の制度もありました。下士官学校の途中から歩兵砲の操作ばかり教えられる人も、普通の歩兵小隊長ができるように教育される人もいました。
今のところ下士官学校から戦車兵になった人のことを聞いたことがないので、下士官で車長をしている人は、兵士として4つのどれかの役目を勤め上げて昇進した人であったと思います。士官候補生になってから戦車の訓練を受けた人は、まあ少尉になったら車長をやるしかないですよね。
偵察に使う装甲車は、初期のドイツ戦車並みに装甲がペラいので、敵弾を受けたらとっとと脱出しないと助かりませんでした。2人の装甲車乗りが同じことを書いているので、ルールとは言えないまでも広く見られた慣行だと思うのですが、装甲車の車長はレシーバやマイクロホンをつけないことを黙認されていました。コードが引っかかったりしてとっさに脱出できないことがあるからです。装甲車の砲塔の上は開いていますから、身振りと肉声ですぐ近くの車両とはやり取りできましたし、車内には通信手がいました。
ヴォルフガング・シュナイダー『パンツァータクティク』はこの種の話をするときのバイブルなのですが、日本語版は絶版で少々お高く取引されています。この本には、砲手は車長に事故があったら代わる人として訓練されていた……とあります。たぶん戦争が始まるまでは、そうだったのです。ひとつのチームが何か月も異動しないで、欠けもしないで訓練していくなら、それができます。ところが死傷者が補充されると、「砲手として訓練されてきた新米」が熟練したチームに入ってきて、どーすんだよこれ……ということも起きたようです。
大戦中盤以降になると、戦車や自走砲の部隊はクルーよりも動ける車両が少ないことが常態化して、後方を手伝いながらお声がかかるのを待っている人たちが中隊本部なり大隊本部なりにプールされていましたから、そこのところで調整したり、後で書くように装填手としてしばらく見習い期間を置いたりしたんじゃないでしょうか。当然ですが、砲手はみんなの運命を握る奴だという意識はあったようです。
戦車砲手の訓練は、一般砲兵の訓練よりも難しいところがあります。照準器で視界を制限される中で、だいたいの方位を車長から指示されて、見つけて撃つのです。どうしたらそれが上手くなるのか、決定版が出ないままいくつかの戦車学校がバラバラに訓練をしていたと砲手の回想にあります。だから砲手という立場と、訓練を積んだクルーのナンバーツーという立場を重ねるのは、もともと難しかったんじゃないかと思います。
シュナイダーによると、装填手は大変な仕事なのですが、覚えることが少なくて、すぐ誰でもできるようになるポジションだそうです。対戦車自走砲ナースホルンに乗っていた人の回想ですが、ソヴィエト軍の奇襲を受けて装填手が負傷し、道を歩いていた歩兵を呼び止めて大雑把に仕事を説明し、装填手をやってもらって何とか急場をしのいだ戦例がありました。ああ装填手って脳筋なのかなあと思うのは、「装填手だった人の回想」が全然出てこないのですよ。もちろんあちらにも戦友会誌の類はあって、そっちにはたぶんあって、本一冊にまとまらないと古書店に出てこないからマイソフの目に留まらないだけなのですが。これをお読みの、Jで装填関係のお仕事をしている皆さん、ぜひ回想を出版して後世に残してください。
通信手はモールス信号とか、ある程度覚えなければいけないものがありました。おとなしい、神経の細やかな人向きのポジションと思われていたらしく、シュナイダーによると裁縫の仕事を押し付けられるようなこともあったとか。
戦車と戦車をつなぐ無線電話は、10kmもいかないうちに届かなくなります。だから連隊本部やら師団司令部やらへの通信はもっと性能のいい別の通信機を使う必要があり、特に偵察情報などは電信も使われました。複数の通信機を積んだら砲を積む場所がなくなった、持っていける弾が減った……というのが指揮戦車なわけです。プラ模型の説明書などで大隊本部や連隊本部に「隊長車」「副官車」の戦車があるように書いてあるものがあります。大隊長や連隊長は自分の乗る乗用車があって、地図を広げたり見晴らしのいい場所に陣取ったりしたほうがいいと思ったら、戦車に乗らずに指揮をします。敵陣近くに出たほうが様子が分かると思ったときに、通信小隊の指揮戦車を使うのです。だからそれぞれの指揮戦車には、大隊長や連隊長とは別に車長がいます。
そして操縦手ですが、一般にこのころのドイツでは、自動車の操縦を習った軍人に免許証は出さないけれども、任務中に乗っていても無免許で処罰されないということになっていました。砲兵士官候補生が後方で12トンハーフトラックを受け取り、自分で運転して前線近くにいる部隊に帰る途中「実家に寄った」とか書いてある回想があって近所迷惑な話です。
ところが操縦手には訓練修了証のようなものが出て、しかも「10トン以下限定」のものもあったのだそうです。つまりIII号戦車みたいな重い奴はダメよということで、訓練期間が少し短かったのだとか。ひょっとしたら、北アフリカに急いで要員を送っていた時期に限ってのことだったかもしれません。
戦場において弾薬の切れ目は命の切れ目です。補給のチャンスがないまま孤立することもあるでしょう。ですから車内には弾薬箱が積めるだけぎっちり詰め込まれます。戦車道に使われる戦車群の車内はキャラの顔がみんな見えていますが、あんなに見通しは良くありません。前に乗っている操縦手と通信手が「後ろに」出てきて砲塔ハッチから脱出するチャンスはまずありませんでした。ですから戦車が撃破されたとき、主砲が自分たちの真上のハッチをふさぐように止まってしまったら、脱出は極めて困難でした。
もう少し続きます。