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パンツァーさん、どうしてあなたはパンツァーなの

 ドイツの戦車はなぜパンツァーなのでしょう。じつはけっこう難しい問題です。Panzerは英語のArmorにあたる言葉であり、鎧を着た中世騎士はGepanzerter Ritterです。第2次大戦のころのドイツ戦車は正式にはPanzerkampfwagenですが、英語に直すとArmored Fighting Vehicle、つまりAFVになってしまいます。ところがイギリスはもともと秘匿名称だったTankが気に入ったのか、その後もずっと戦車のことをTankと呼ぶようになりました。AFVという言葉を使い始めたのが誰だかわかれば、たぶんそれをドイツも導入したんだろうと思えるのですが、まさかドイツのPz.Kpfw.をAFVと英米で訳したんじゃあるまいな? というのもワンチャンあるわけです。


 ドイツは第1次大戦でA7V戦車を作った後、もっと量産しやすい軽戦車を作ろうとして、試作しているうち終戦になりました。これはLeicht Kampfwagenと呼ばれていました。Leichtは英語のLightですから、このころはPanzerが頭についていなかったわけですね。第1次大戦最後の年である1918年、ドイツ最初の対戦車砲である3.7 cm TAK 1918が生まれました。このTAKはTankabwehrkanoneで、第2次大戦での対戦車砲はこのTankがPanzerに変わってPAKと呼ばれました。つまり当時のドイツから見て、イギリスが使っている車両がTankであったわけです。まあドイツも相当数の連合軍戦車を捕獲して使っていたのですが、自分が開発した戦車のことはTankと呼ばなかったわけですね。1923年に出たいわゆる「ゼークト教範」では、Kampfwagenという言葉が使われています。


追記 A7V戦車を配属した、3個中隊編成の大隊は当初Sturm-Panzerkraftwagen-Abteilungと呼ばれ、すぐSchwere Kampfwagen-Abteilungと改称されました。ですから短期間ですが、第1次大戦中にPanzerkraftwagenという名称が使われています。これとKampfwagenを組み合わせた言葉であったわけですね。



「戦車」という概念はいろいろな方向から挑戦を受け続けてきました。現代のMBTが何であって何でないかについては、「ミリタリ警察日誌  5.装甲車は戦車に入りますか(https://ncode.syosetu.com/n0046es/5/)」で論じましたから省略します。戦間期に多くの陸軍が模索した「歩兵の機械化」としての豆戦車についても、そこで短く扱ったので略します。


 ドイツの場合特に重要だと思うのは、ヴェルサイユ条約をなんとか緩めてもらうことを前提に、しかしできるだけ言い訳しやすく開発を進めていた長い歴史があることです。植民地の多いイギリスのように軽武装で快速のパトロール部隊が要るわけではありません。そうすると対戦車能力のない低速な軽戦車は「たくさん集めて攻撃に使うしか使い道のない兵器」になってしまいます。当時の低速戦車は「戦場まで前進するのに時間がかかる」もので、敵襲があってからそこに行くのは大変だからです。ドイツの戦車はIII号戦車でも高速かつ対戦車能力を持つように構想されましたが、これなら防御にも使える戦車の姿になるわけです。そのかわり1両1両が高くつくものになり、生産も難しくなって配備が遅れ、訓練用のI号戦車やII号戦車をたくさん持つ結果になったのですが。


 グデーリアンが戦車部隊の仕事を始めたころ、ちょうど秘密に作っていた軽戦車LaSの実物大模型(加工しやすい軟鉄でできた戦車)が完成しました。III号戦車やIV号戦車は車長・砲手・装填手・操縦手・通信手の5人乗りでしたが、LaSは4人乗りで、車長が砲手を兼ねていました。


 たいしたことではないように見えますが、これが今の言い方で言えば、人間工学的に問題になりました。大戦初期のドイツ戦車部隊が持っていた大きな優位は、戦車同士で、また戦車と戦車以外の部隊が通信し合って、協力して戦えたということです。とすると車長はレシーバとマイクロホンを耳とのどにつけ、外側の様子をうかがいながら戦うということになります。逆に砲手は照準器に目をつけていなければなりません。やっぱり5人乗りにしようということで、作り直しになったのです。


 逆に言えば、当時たいていの国の戦車は、手で回しやすい小さな砲塔を持っていて、その中には車長くらいしか入れませんでした。ドイツ軍は車長と砲手と装填手が分業できる大きな砲塔を作り、車長がハッチを開けずに周囲を見回せるように、細いのぞき穴のついたキューポラと呼ばれる部分をつけました。


 ドイツ軍がチェコスロバキアを占領したとき、35(t)戦車とその生産設備を分捕りました。この戦車は車長・操縦手・前方機銃手の3人乗りでした。ドイツ軍は通信機をつけて前方機銃手を無線手とし、4人目を装填手として詰め込みました。座るところもなく、外が全く見えない状態で装填だけをやることになったのです。それでも、車長に判断と報告の余裕を与えることは大切だとドイツ軍は考えたのでした。


 次回は、この5人の分業や訓練にまつわるお話をしたいと思います。


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