先輩とお豆腐
「お疲れさま。休憩、行っておいで」
バイト先で忙しなくテーブル席の合間を飛び回っていた私は、その声に思わず時計を見た。
時計の針は、確かに私の休憩時間を指し示している。
体感ではまだ一時間くらい先な気がしてたんだけど、どうやら時間の感覚が狂っていたらしい。今日はいつもよりお客様が多くて忙しかったから、そのせいかもしれない。
「じゃあ、お先に休憩入らせてもらいますね」
私に休憩時間を知らせてくれた店長に一礼して、バックヤードに引っ込んでいく。
お店の中では今も多くのお客様がお食事されていて、私の同僚も忙しなく働いていた。この忙しい中で休憩に行くのは正直ちょっと気が引けるというか、申し訳ない。私程度でも少しは戦力になるんじゃないかな、と思ってしまう。
けど、そんなこと言ったら、また先輩に「阿呆」って言われちゃうんだろうなあ。
後ろ髪引かれる思いのままバックヤードを突っ切って、休憩室の扉を開く。休憩室には六人掛けのテーブルとマガジンラック、簡単な湯沸かしポット。
最近ようやく見慣れはじめた手狭な休憩室には、私の他に先客が一人。バイト先の制服をピシッと着こなし、テーブルの角に陣取って缶コーヒーをすする少年の姿。
「お疲れさまです、先輩」
「おう、お疲れ」
短く挨拶すれば、これまた短い返事がきた。
お茶を煎れて彼の斜め向かいの席に座る。先輩と休憩時間が被る時の、私の定位置。なんとなく正面や隣は気恥ずかしいし、離れすぎてもおかしな気がするから、自然といつもこの席になってしまった。
お茶を飲んでほっと一息。斜め向かいの先輩もコーヒーを一口。ついでにマガジンラックにあった雑誌をぺらぺらと、興味なさげにめくっている。
先輩、退屈そうだなー。
かくいう私も退屈。さっきまで騒がしかった店内にいたせいか、休憩室の静かさが却って居心地わるいし。あと二人きりの時に、会話もなしで静かすぎると、すごく気まずい。
「あの、先輩」
「……なんだ」
ぶっきらぼうな返事。だけど、一応きちんと雑誌から顔を上げて私を見てくれる。
とにかく居心地の悪い休憩室の空気をどうにかしようと、私は少し気合いを入れて口を開いた。
「お豆腐には、なにかけて食べます?」
私の質問に、先輩は眉間に皺を寄せて雑誌を閉じる。
それから沈黙。考え込んでいる、というよりは『なにわけわからんこと言ってんだ?』という顔に、私はやらかしたことを悟った。
そうですよね。沈黙が辛いからって、いきなり持ち出す話題じゃなかったですよね。いやでもほら、突飛な話題の方が、ノリが悪そうな先輩でも食いついてくれるかなー、なんて打算もあったりなんかしちゃったりなんかして。
「いきなり、なにわけわからんこと言ってんだ?」
「声に出してまで言われた!?」
「あ?」
ショックを受ける私に、先輩は怪訝な顔。
先輩がそういう顔をすると、妙に迫力があって怖いんだけど、ここで引き下がるわけにはいかない。なぜなら、休憩室が気まずいままだと、ちっとも休憩した気持ちにならないからです!
「実はですね、今日友達が『今年初めて冷奴食べた』って言ってまして」
「ああ、まあ五月なら湯豆腐より冷奴か。……それで冷奴になにかけるか、って話題になったと?」
「はい。ちょっとした論争ですよ!」
「論争ってお前……」
心底どうでもよさそうな声色で先輩が言う。
そりゃ、あまり建設的な話題とは言えませんけど、そんな風に言わなくたって。実際に話をしていた私たち的には、十分熱くなれる内容だったんですからね。
「お前らがどんな話をしてたかは知らんし、どうでもいいけど」
「先輩。それは思ってても、口に出したら嫌われる奴です」
「お前が俺に、どんなオモシロ回答を期待してるのかも知らんけど」
「あ、大丈夫です。私、先輩にはそこまでユーモアセンス求めてないので」
「冷奴にかけるなら、醤油だな」
「なるほど、お醤油ですか。すごく一般的で、実に先輩らしいですね」
これはある程度わかっていたことだけど。遊びのない選択肢は、さすが先輩らしいというほかない。
お醤油。
いまや様々な調味料が売られている日本だけど、冷奴にかける調味料第一位になるのは、やっぱりお醤油だと思う。統計なんてとったわけじゃないけど、きっと国民の過半数はお醤油派なんじゃないかな。
そんな風に考える私をどう思ったのか、先輩はやや不機嫌そうな声色で言った。
「ユーモアがなくて悪かったな」
「悪いだなんて言ってませんよう。いいじゃないですか、お醤油。堅実で、間違いなくおいしいですもん」
「お前、ちょっとバカにしてないか?」
「してませんしてません。先輩は先輩らしい感性で安心した、ってだけです」
心の底からそう思っているのだけど、先輩はどこか納得していない様子。
「俺らしい感性ねえ……。要するにお前の中の俺は、ごくごく一般的な感性しか持ち合わせていない人間だと」
「そんなひねくれた言い方しなくていいじゃないですか。先輩は常識的で素敵ですね、ってことですよ」
「物は言い様だな」
「それはお互い様では?」
おどけたように返してはみたものの、じとりとした目の先輩はちょっと怖かったり。
先輩は元々ちょっぴり目つきが悪いから、少しのことでものすごく怒って見えるのだ。だからいまのこれも、見た目の表情ほど機嫌を損ねているわけじゃないと思う。
思うけど、やっぱり怖いものは怖いので、先輩はその辺ちょっと損してるんじゃないかな。
「それはそうと、先輩」
「なんだ」
「お醤油の他にはなにも使わないタイプですか?」
「その話、まだ続けんのかよ」
あまり乗り気ではないトーンでそう言った先輩は、だけど少しの間考えて、
「ネギがあれば刻んで乗せるし、鰹節があればかけるし、しょうがあればすり下ろすな。醤油以外は、そん時の食材の具合次第だろ」
と、そう答えてくれた。
私としては『お醤油以外の調味料は使わないんですか?』という問いかけだったので、先輩の回答はちょっとズレたものだったんだけど、それはまあいいかな。意図がズレちゃった悲しさよりも、面倒くさそうにしながらも、きちんと質問に答えてくれることの嬉しさの方が勝っちゃってるから。
「私、お豆腐にしょうがって使ったことないです」
「そうか」
「でもいいですね。しょうがの辛さが、さっぱりした冷奴のいいアクセントになりそうです」
味を想像する私に、先輩は頬杖をついてこう言った。
「それで? 論争になったって、お前らの中じゃ、いったいどんな意見が出てそうなったんだ」
「ああ、それはですね。喋ってたうちの一人が、お豆腐にはキムチかけるって言い出して……」
「キムチ? って、あの漬け物か?」
「はい。赤くて辛い、先輩がいま想像したものだと思いますよ」
主に白菜なんかを唐辛子と塩で漬けた、韓国とか朝鮮とかが発祥っぽいお漬け物。見た目はだいたい赤くて、酸味と辛味が絶妙なハーモニーを生み出す品。
「こう、冷奴ってさっぱりしたい時に食べるものってイメージが強くて。キムチなんかかけたら、味の主張が強くなりすぎて、それはもう冷奴じゃないというか」
そりゃキムチはおいしいし、ご飯にかけて食べるのは大好きだけれど。でもやっぱり冷奴にかけるものじゃないと思う。
「なるほど。それを言って、キムチが有りか無しかの論争になったと」
「そうなんですよ。ちなみに私は無し派です」
「そりゃ、今の話の流れならそうだろうよ。しかし、キムチなあ……」
ふーん、と先輩は少し考える素振り。
あれ? 即・無し認定しそうな気がしていたのに。冷奴にはお醤油、と迷いなく答えた人だったので、この態度はちょっぴり意外だったり。
「まあ、それもありか」
「ええ!? 嘘でしょう!?」
まさかの回答に思わず声を荒げてしまった。
だって、だって、キムチですよ!?
「普通、堅実、常識的。頭の固い先輩が、冷奴にキムチを認めるんですか!?」
「お前やっぱバカにしてるだろ?」
じろりとした視線が強くなる。
うっ、確かに少し言い過ぎたかもですけど、そんな睨まなくてもいいじゃないですか。
「っていうか、俺はお前がそこまで頑なにキムチを認められない方が意外だ」
「だって。さっきも言いましたけど、キムチの主張強くないですか?」
「そうかもしれんが、そういうもんだって割り切って食えばいいだろ。なんだっけ……、韓国風温奴? とか、そういう商品だってあるじゃねえか」
「ええー……と、焼き肉屋でみたことあるような?」
「ああ。アレたしか、キムチとタマゴが豆腐に乗ってただろ」
言われてみれば、そういう商品もみたことあるような。
「でもそれ、冷奴じゃなくないですか?」
「なんでそんなこだわりが強いんだよ……」
はあ、と先輩は疲れたようにため息を吐く。
「そもそも、他人の食い方とかどうでもいいし」
「ざっくりと結論を口にしましたね……」
「その食い方を強制されるなら断固抵抗するが。そうじゃないなら、すごくどうでもいい」
「二回も繰り返さなくても」
眉尻を下げる私に、追撃をかけるように先輩は、
「だから、あんまりしつこく他人の食い方に文句つけるようなことすると、それこそ論争じゃなくてただのケンカになんぞ」
なんて、胸に刺さるようなことをおっしゃってくれました。
「……っ」
「なんだ。おかしな顔して」
先輩の指摘が痛かったからですよ。とは言えずに、私は曖昧な笑顔。一方の先輩は、怪訝そうな顔を隠しもしない。
「あはは、そんなにヒドい顔してます? これでも容姿には少し自信があったんですけど」
「いや、誰も顔のつくりについてなんて語ってねえだろ。なんだその妙な誤魔化し方は」
「誤魔化すだなんて人聞きの悪い。ただ、私は……」
「なんだ」
「もう少し早く、この話をしておけば良かったなあ……って、思っただけです」
誤魔化しなんかじゃない。本当の気持ち。
だけどそれを聞いた先輩は、ますます怪訝な顔になって、
「冷奴の話をか?」
「はいっ!」
変な奴。
ボソりと、先輩はそう言って再び雑誌へと目を落とした。
※※※
「お先に失礼しまーす!」
制服から着替えると、裏口から店を出た。
冬に比べて日はかなり長くなってきたけど、バイト上がりのこの時間だと、もうちょっと薄暗い。
既に西の方へ夕日は沈みきって、家に帰り着く頃にはすっかり真っ暗になっているハズだ。
「じゃ、帰るか」
先に店を出ていた先輩が、そうやって声をかけてくる。
「はい」
駆け足で先輩の隣に並ぶと、私たちはゆっくりと帰路に就いた。
少しずつ薄暗くなっていく道を、二人で並んで歩く。
会話はほとんどないけれど、休憩室の時とは違って、不思議と居心地は悪くなかった。
状況に慣れてしまったのもあるのかな。バイトを始めてから、自然に先輩と帰るのが当たり前になってしまったから、帰り道の沈黙はさほど辛くない。
ちら、と隣を歩く先輩を見る。
初めてバイトに入った日、『どうせ帰り道だから』と、誰に言われるでもなく、私を途中まで送ってくれた。
それ以来、その先輩の好意に、私はずっと甘えている。
もちろん、それは私たちの退勤時間が重なった時だけなのだけど。それでも先輩は優しい人なんだって、そう思う。
「そういや」
「はい?」
沈黙を破るように口を開いて、少しだけ高い位置から先輩が私の顔をのぞき込んだ。
「結局、お前はなにかけて食うんだ?」
「へ? あ、ああ。冷奴のお話ですか」
一瞬、なんの話題かわからなかった。
それと同時に、たしかに突拍子もない話題だなあ、って思う。これは確かに、休憩室で先輩が微妙な顔をしたのも納得というか。
「私は普通に」
「醤油か?」
「あ、いえ。お醤油もおいしいとは思いますけど」
んー、と一番使用頻度の高い調味料を思い浮かべて指を立てる。
「青じそドレッシングとごま油を混ぜて、アクセントにマヨネーズですかねっ!」
私がそう言った途端、先輩がぴたりと立ち止まった。
なんだか俯いて、小刻みに震えていらっしゃるような……?
「……あのな」
「は、はい。なんでしょう?」
目つきの悪い先輩が、さらに目つきを悪くして一言。
「おまいう!」
「はい?」
『お前が言うな』、って。いったい何に対してなんでしょうか?