『大人』
走る。走る。
何も考えるな。とにかく走れ。
外は土砂降りの雨だ。オーダーメイドで仕立てたお気に入りのスーツも台無しだ。
だが、今は、そんなものは、構うものか。そんなものは、後でどうにでもなる。
走れ!走れ!
あいつの家まで。走れば5分とかからず着くはずだ。
なのに、遠い。いつもよりも、遠く感じる。
もっと早く!もっと早く!
俺は今、世界で一番、速く走る男だ。
そう信じないと、間に合わなくなってしまうような気がしてしまう。
見えた!
あいつの家にはオートロックなんて邪魔なものはない。
2階へ続く階段を駆け上がり、玄関のドアの前に立つ。
インターホンなんてまどろっこしいものを押している時間はない。
濡れた拳でドアを思い切り叩き、大声を張り上げた。
俺だ!俺が来たぞ!開けろ!!
傍から聞いていれば、借金取りか何かと思われるような口ぶりである。
だが、そんなものは構うものか。
返事がない。
俺は我慢できなくなって、ドアノブを思い切りひねった。壊してやろうと思ったんだ。
だが、それはすんなりと回り、ドアは開いた。
俺はドアを思い切り開けて、前を見た。
そこには
あいつが
浮いてる
天井の梁から
紐が
あぁ
俺は、そこで意識を失った。
俺には、幼馴染の男友達がいた。
小学校も、中学校も、高校も、大学も。俺たちは同じ所に通っていた。
俺たちは、お互いに何かがあれば、いの一番に互いに話し合った。
馬鹿をする時も、青臭い恋の相談をするときも、苦しくて助けを求める時も、まずそいつに話した。俺も相談に乗った。
流石に会社まで同じ所に勤めることはなかったが、それでも俺たちは頻繁に合って、愚痴だの何だのを話し合った。
長い付き合いの俺とそいつは、まさしく『相棒』だった。
最初に様子がおかしくなったのは4月になってからだ。
成績優秀なあいつは、どうやら今までよりもハードな所に配属になったらしい。それをこなせると思われのことなのだろう。
それまで、俺たちは最低でも週に1回は会っていた。連絡するってだけなら、ほぼ毎日である。
それが、あいつの配属が変わってから、連絡がぷっつりと途絶えてしまった。
大変な所だとは聞いていた。だから、忙しいせいだと思っていた。
それに、年度初めはどこの会社も忙しいものだ。
俺も慌ただしくしていたせいもあり。こちらから連絡をすることもなかった。
3ヶ月が経ったある日、急にあいつから電話があった。
声を聞いただけで分かる。相当疲れている。
電話だけでいいというそいつを、俺は引っ張り出して飯に行った。
席について、改めてあいつの顔を見た時に、俺は後悔した。
目に見えて痩けて、生気がまるでない。生気どころが、死相が見えんばかりの顔だった。
適当になんか食おう、と言っても、飲み物でいいと言う。
食欲もないのか。
どうやら食欲どころか、寝ることもままならないらしい。
覇気のない声で、泥のように吐き出されるものを、俺はずっと聞いた。
聞いていて、涙が止まらなくなった。
俺は、自分の忙しさにかまけて、こいつがこうなるまで気付いてやれなかった。
そんな俺自身が。
悔しくてたまらない。
憎くてたまらない。
俺は、あいつに、会社を休めといった。病院に行けとも言った。
何度何度も何度も、しつこく言った。
あいつは、ありがとう、とだけ言って。ふらふらとした足取りで帰っていった。
そんな状態でも、結局あいつは病院にもいかず、会社に行ってしまった。
俺は、そんな状態の、あいつへの思いが抑えきれなくなった。
その日の仕事終わり。俺は上司に時間を貰い、抑えきれないものを吐き出した。
少しでも、このやり場のない思いを整理して欲しかった。
泣きじゃくる子供のようになりながら、整理もされていない話を、上司は静かに聞いてくれた。
一通り話し終えて、しょげた顔の俺に、上司はゆっくりと話してくれた。
「お前のしたことは間違ってはいない。
だが、もらったアドバイスをどうするかは、受け手の問題だ。
お前がいくら忠告しようが、肩入れしようが。
動くかどうかを決めるのは、相手の意思だ。
だから、もうお前はそいつにそれ以上自分から関わるな。関わっても、お前が辛くなるだけだ。
自分の分をわきまえるのが『大人』なんだよ。」
お前は十分やったよ、と言って上司は俺の肩を叩いてくれた。
俺は、それで少しすっきりした。
あぁ、俺は精一杯やったんだ、って。
そう、満足した。
そう思って、会社を出た。
天気予報は晴れだって言っていたのに、酷い雨だった。
さて、どうしたものかと思っていた時に、電話がかかってきた。
あいつからだ。
俺は、躊躇った。
出れば、きっと俺は辛くなる。それは良くないって話をしたばかりだというのに。
それでも、俺は、出てしまった。
「もしもし?どうした?」
唇が、わずかに震える。
「もう駄目だ。もう駄目なんだ。」
あいつの声は、やけに静かで、穏やかだった。
「せめて、お前にだけでもお別れを言っておこうと思ってさ。」
何を言ってんだって、口を動かした、はずだった。声が出ない。
「今までありがとう。」
やめてくれ。もうそれ以上言わないでくれ。
「じゃあな『相棒』。」
その言葉を聞いた途端、俺は荷物も何もかもをほっぽり出して、走り出していた。
俺たちは『大人』だ。少なくとも、そう言われている。
自分がどこまでできるかを見極めることが『大人』だ。
自分ができないことを、素直にできないと認めるのも『大人』だ。
そこに感情は伴わない、合理性だとか、そういうものを使うのが『大人』だ。
『自分の分をわきまえるのが『大人』なんだよ。』
ついさっき、言われた言葉が俺の頭に響く。
じゃあ、今の俺はどうなんだ?
今の俺を衝き動かすものは、『大人』のそれじゃない。
それは、あいつへの
想いだ。
感情だ。
激情だ。
俺はただ、がむしゃらに、走っている。
それが『大人』じゃないっていうんなら。それでいい。
俺は『大人』なんかにはなりたくない!
そうして走ったんだ、走って走って、それで…
気が付くと、病院のベッドの上だった。
頭に靄がかかったようだ。
しばらく、俺は何をしていたんだろうなぁと考えて
思い出した。
ガバッと上半身を起こし、ベッドから飛び降り、ドア方に駆けた。
いけません!と誰かが俺を阻む。
俺は「あいつが、あいつが!」と言いながら暴れた。
がむしゃらに暴れる俺に、止めようとしていた誰かが
「あの方は亡くなられました!」
そう叫ぶように言った。
何を言っている?
俺は、その言葉を噛み砕く。
『なくなった』?
『亡くなった』?
『死んだ』?
死んだ
そうか、死んだのか。
俺は、泣いた、哭いた。ないた。
ベッドに縋り付き、声も抑えず、涙も洟水もそのままに。
ないた。
『大人』ではない俺が、友のために、ないた。