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5-1


 ◇◇◇



 はぁ、とため息を吐きながら、わたしはシャワーヘッドを握っていない方の手でハンドルを回した。

 温かい水が出てきたことを確認してから、わたしはシャワーを浴びる。緊張で仄かに汗ばんでいた身体に流れる熱湯が気持ち良い。


 だけど――。


 最初はそんなつもりじゃなかった。

 慧さんと会えたら積もる話をして、できれば一緒にご飯なんて食べたりして、遅い時間だからと駅まで見送ってもらって、それで今日は終わりになるはずだった。


 それなのにいま、わたしはその慧さんの家でシャワーを浴びている。着ていた学校の制服や下着は浴室の手前に畳んで置いてある。

 当たり前だ。浴室に服を着て入る人はいない。

 でもどうしてシャワーを浴びているのかと言われれば、自分でも何でかわからない。


 混乱している――冷静ではない。


 舞い上がっている? ――冷静でいられるはずがない。


 それでもシャワーを浴びているとわたしは少しずつ、冷静さを取り戻すことができた。

 ハンドルを回してシャワーを止める。ボディソープとスポンジが視界に入る。わたしは使うかどうか迷って、結局それを使うことにした。

 柔らかいスポンジにボディソープを落として十分に泡立てから身体を洗う。見た目のわりに良く泡立って使い心地が良かった。


「慧さんもこれを使ってるのかな」


 思ってから、わたしは言葉が口から出てきたことに気づいて、慌てて扉の方を見た。

 大丈夫、聞かれていない、と思う。

 わたしは家でそうしているように身体を洗いながら、もう一度ため息を漏らした。

 そもそもの原因は、慧さんの帰りが遅かったことだ。慧さんの帰りを待っていたわたしにも問題はあるけれど、思っていた以上に、想定外なくらい、慧さんの帰りは遅かった。

 積もる話をする時間も、一緒にご飯を食べる時間も、駅まで見送ってもらう時間も、何もなかったのだから、仕方ない。

 まぁ待ち続けたわたしもわたしなのだけれど、慧さんに会えたときの事を思い出すと、恥ずかしさに沸騰してしまいそうだった。


「泣くつもりじゃなかったのに……」


 その声は小声だったけれど、浴室ではとても良く響いて聞こえた。わたしはまた扉の方を向いて、安堵した。

 身体の泡をシャワーで洗い落とすと、今度はシャンプーを手に取って髪を洗った。思えば誰かの家でお風呂に入ったのは、慧さんの実家――梨乃(りの)ちゃんの家に泊まったとき以来かもしれない。


「梨乃ちゃん……もうずっと会ってないなぁ」


 梨乃ちゃんとは中学校までは同じだったけれど、高校は別々のところへ進学したので、今ではすっかり疎遠になってしまっている。もし今日のことを梨乃ちゃんに話したら、彼女は何て言うだろうか。


「応援、してくれるかな……」


 そんなことを考えながらぼんやりとしていたからだろう。わたしはその気配に全く気づかなかった。


「――香澄ちゃん」


「きゃっ」


 唐突に聞こえた慧さんの声に、わたしは反射的に高い声を上げていた。


「――あっと、ごめん、驚かせちゃったかな」


 にも関わらず慧さんの声は穏やかで、静かだった。わたしは声のした方――今度こそ扉を一枚隔てたその向こうに、慧さんの気配を感じた。


「――着るかどうかわからないけど、大きめのウェアを見つけたから置いておくね」


 何のことかさっぱりわからなかったけれど、慧さんの声はそれっきり聞こえなくなった。わたしは高鳴る心臓の音をシャワーの音で誤魔化した。


「ホントにわたし、何やってるんだろ……」


 話したい事がいっぱいあったはずなのに、何も話せなかった。

 何も言葉にならなかった。

 言葉がでなかった。

 慧さんに会えたら頭が真っ白になってしまっていて、どうしようもなかった。


 家に帰れない時間になっているとは思わなかった。

 気づかなかった。

 嘘、途中から気づいた。

 でも、どうでもよかった。

 慧さんならきっと、私が泊りたいと言えば許してくれると思った。

 その言葉を口にしたときはさすがに怖かったけれど、やっぱり慧さんは優しかった。


「はぁ……」


 嬉しさと恥ずかしさと大胆さと不安さが入り交じる。

 渦を巻いて、溶け合わずに、混ざり合う。

 ぐるぐるぐると排水溝に流れ落ちていく水のように。

 わたしの想いは、どこに流れ落ちて行くのだろう。


「あっ」


 そういえば、畳んでおいた制服と下着は、どちらを上にしていただろうか。



 ◇◇◇



 お風呂から上がったわたしは、慧さんが置いていったと思われる男性物のウェアを手に取った。

 広げてみると、確かに大きい。わたしの身体は小柄でも大柄でもない、普通くらいだと思うけれど、男性用の洋服と比べると、やっぱり小さいのだと改めて思った。ウェアに鼻を近づけて軽く匂いを嗅ぐと、少しだけ洗剤の匂いがした。サイズが気になったけれど、制服のまま夜を過ごすよりは良いと思うし、何より慧さんがわたしのために用意してくれたものを断る理由はなかった。


 わたしはさすがに下着だけはどうしようもなかったので同じものを身につけると、普段持ち歩いているポーチから化粧水と乳液を取り出して顔に塗った。それからドライヤーで髪を乾かしてから、ウェアに着替えた。

 制服を手に持ってダイニングに戻ると、いつの間にかローテーブルが片付けられており、そこには布団が敷かれていた。


「香澄ちゃん、もう出てきたんだ」


 後ろから声がしたので振り返ると、奥の部屋から慧さんが顔を覗かせていた。どうやらそこが、慧さんの部屋らしい。慧さんは部屋から出てくると、わたしのウェア姿を見て言った。


「やっぱり少し大きかったみたいだね」


 大きく開いた首元や手を覆う長さの袖を見てそう言ったのだろう。わたしはすぐに首を左右に振った。


「そんなことはないです。ちょうど良いです」


「え、ちょうど良いの?」


 慧さんは呆気にとられたように目を白黒させた。何が"ちょうど良い"のかわたしのもわからなかったけれど、反射的にそう言ってしまった以上、何とか取り繕わなければならないと思った。


「えっと、ほら、萌え袖とかも出来ますし」


 わたしはそう言って、長い袖から指を少しだけ出して、ひらひらしてみせた。女性物の洋服でもそういうデザインの物はあるし、寒くなってセーターを着るようになると、クラスの女子たちも良くやっているのを覚えている。


「それなら良いんだけど」


 慧さんは訝しみながらも、まあいいか、と納得してくれたようだ。


「そういえば聞き忘れていたんだけど、夜ご飯は食べたの?」


 食べていない。本当なら慧さんと一緒に食べる予定だったから。


「はい、慧さんを待っている間に」


 だけど、わたしは嘘をついた。だって時間ももう遅いし、それに今は、食べ物なんて食べられそうもない。


「ふぅん、そっか。それなら良いんだけど。……ずいぶん待たせちゃったみたいでごめんね」


 慧さんはわたしの言葉を疑わずに頷いてくれた。慧さんに謝られたとき、わたしの胸がチクリと痛んだ。

 慧さんは、きっと気づいてる。

 わたしがどのくらい、慧さんを待っていたのかを。

 普通に考えれば、何となくわかることだ。

 だからなのかな。慧さんの言葉は、とても優しく、私の胸に響いて――痛いんだ。


「それじゃあ僕もお風呂に入って寝るかな。あ、布団はそこに敷いておいたから、もう時間も遅いし、香澄ちゃんも早く寝た方が良いよ」


「はい。ありがとうございます。そうしますね」


「ところで歯ブラシは持ってる? もし持ってなければ、前に旅行のホテルでもらってきたアメニティの歯ブラシで良ければあるけど」


「あ、それは大丈夫です」


 わたしはポーチから歯ブラシを取り出して見せた。


「そっか。さすが女子高生だね」


 慧さんが感心したように頷く。


「そうだ、最後にもうひとつ。明日の朝は何時に起きる予定?」


「えっとぉ……」


 わたしはスマートフォンで今の時間を確認する。現在時刻は午前1時に差し掛かったところ。ここからなら学校までそう遠くはないので、遅くても朝の7時に起きれば十分余裕があると思う。


「7時くらいには起きると思います。慧さんは?」


 問い返すと、慧さんは少し考えるように「うぅん」と唸ってから、


「僕もたぶん7時くらいかな。もし僕の方が先に起きたらこの辺りを行き来すると思うから、うるさくて起こしちゃったらごめんね」


 自分の家なのだからそこまでわたしに気を遣わなくて良いのに。

 そう思いながらも、それと同時にわたしは、わたしのことを気に掛けてくれている慧さんの気持ちを嬉しく思っていたのだった。


「無理を言って泊めてもらっているのはわたしのほうなので、慧さんは何も気にしないでください」


 そう答えるだけで精一杯だったわたしは、もう十分に満たされていて――。

 何よりもわたしという存在が許されている証のような気がして――。


 ――わたしの心臓はもうずっと、ドキドキしっぱなしだった。





妹の眉住梨乃(まゆずみ りの)は次回に少し登場します。

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