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 ◇◇◇



 今日もまた午後23時に会社を出る。夜風が冷たい。

 隣の席の同僚は、22時を過ぎた頃には姿を消していた。彼に割り当てられていた仕事が片付いたのかは僕の知るところではない。

 僕だって自分の持ち分だけで手一杯なのだ。他人の分まで気が回るほど僕のスキルレベルは高くない。だからこそこんな時間まで仕事をしているのである。

 それでも、居室にはまだ数えられる程度には人が残っていたのだから、頭が下がる思いだ。学生の頃はまるで考えもしなかったことだが、身を粉にして働いている彼らがいるからこそ、この社会は何とか回っているのだろう。

 そして今では僕もその一人というわけだ。

 僕はすっかり食べ損ねた夕飯をどうしようか考えながら駅へと向かう。しかし結局駅に着いても夕飯を決め損ねていた。時間も時間なので、もう食べなくても良いかなと思い直してもいた。

 車両に乗り込み、空いている席に座る。するとすぐに眠気が襲ってきた。

 電車に乗っている40分は、僕にとっては貴重な睡眠時間だ。眼を閉じると、意識は簡単に沈んだ。


『次は――です。――への乗換えは――』


 アナウンスが耳に入り、僕ははたと目を覚ます。不思議なことに僕はこれまで電車で眠っても寝過ごしたことは一度もない。どういう作用が働いているのか、必ず下車駅のアナウンスが鳴る頃には目を覚ますのだ。

 とはいえ一応扉上部の電光表示版を確認する。次の停車駅名に僕が乗換えをする駅名が表示されると、人知れず小さく頷いた。

 腕時計で現在時刻を確認する。大丈夫、終電の乗換えには十分間に合う。

 僕は電車から降りると乗換える電車のホームへと向かう。そこで暫く待っていると時間通りにローカル線の最終電車がやってきた。乗換えの駅が始発なので、車内はガラガラだ。僕は扉の傍だと開くたびに冷たい夜風が入ってくるのを危惧して真ん中寄りの席に座った。

 そうして僕の意識はまた眠りの底に沈んでいく。

 一眠りしていれば、下車駅に着くのは一瞬だ。



 ◇◇◇



 帰り道の途中でコンビニに寄って、中華まんを一つとサラダを買った。

 これが今日の――もうすぐ日付が変わって明日になりそうだが――僕の夕飯だ。

 コンビニの袋に腕を通し、両手はコートのポケットに入れて寒さを防ぐ。

 この時間にもなれば、車通りもほとんどない。駅から歩いて数分も経った頃には、響くのはアスファルトを叩く僕の足音だけになった。

 コツッ、コツッ。

 革靴の立てる音が一定のリズムを刻んでいる。コンビニの袋が揺れてビニールの擦れる音が鳴る。

 もう1週間も経てば五月になる。今年の大型連休はうまいこと休みが繋がっている当たり年らしいが、どうなることだろう。去年の今頃はまだ研修期間だったので暦どおりの休みだったが、現在の仕事状況を考えると休日出社する必要があるかもしれない。

 まあ、それならそれで構わないか。

 大型連休と言っても特にやることがあるわけでもない。だからといって仕事がしたいわけではないが、出てくれと言われれば僕はたぶん断らないだろう。


 ――去年までの僕ならともかく。


 連休の予定が仕事で埋まるというのもそれはそれで寂しい気もするけれど、予定が埋まっていないことと比べれば大差ないだろうとも思う。

 そんな益体のないことを考えているうちに、僕の住むマンションの前に着いていた。

 僕はオートロックの共用玄関を解錠してエントランスに入る。

 僕が入居したときは新築だったこのマンションも、今年で築4年となる。設備は比較的新しめで、耐震構造やオートロックなどの防犯設備もしっかりしている。一戸当たりの間取りもそれなりに広い割に、家賃と管理費はそう高くない。その理由としては、マンションの立地条件が人気のない郊外で駅から少し遠いという点と、4階立ての12戸でエレベーターが付いていないからだと、仲介してくれた不動産屋の担当者が話していたのを覚えている。

 ただ僕が借りているのは2階の部屋なので、そもそもエレベーターを使う必要もないので、エレベーターがあってもなくても関係なかった。

 僕は毎日そうしているように階段を上る。途中で一度折り返してさらに上り、2階の廊下に足を付けた。

 そこから左に曲がってまっすぐ行った奥の部屋が、僕の部屋だ。


「……え?」


 左を向いたところで、僕は思わず固まってしまった。

 身体よりも先に向けた視線の先――僕の部屋に入るための扉の前に、一人の人間がうずくまっていたのである。

 僕はつい反射的に階段の影に身を隠した。そうしてその場所からもう一度恐るおそる覗き見てみると、その人間は少女のようだった。扉を背にしてしゃがみ込み、両手でスカートを押さえている。額を両足の膝に押し当ててうずくまっており、その表情は髪に隠れて伺い知ることができない。

 いったい誰なのだろう。

 というか、なんで僕の部屋の前にいるのだろう。

 少女の様子を注意深く観察していた僕だったが、自分の家の前でいつまでもこうしているわけにもいかない。

 僕はさして乱れてもいない呼吸を整えると、意を決して廊下へ出た。

 そして部屋の前まで慎重に歩を進めていくと、そこでようやく少女は僕の存在に気づいたのか、ピクリと身体を震わせた。

 僕はその場で足を止めた。次に少女がどんな行動に出ても対処できるようにと用心していたからだ。

 果たして少女は、俯けていた顔をゆっくりと上げた。よほど長い間押し当てていたのだろう、その額に膝の後がくっきりと浮かんでいたが、それよりも――。


「………ぁ」


 少女は呆けたような顔を向けて僕の姿を認めると、か細い声を漏らした。


「えっと……」


 僕は口ごもる。少女の前に姿を見せたものの、何を言えばいいのか考えていなかった。

 まるでこの瞬間、時間が止まってしまったかのようだった。

 少女はじっと僕の目を見つめて、たまに逸らして、唇を微かに震わせながら、声にならない声で何事かを呟いている。

 僕も僕で、こんな場面に遭遇したことがないのでどうして良いかわからず、ただただこの少女が誰なのか(・・・・)を考えていた。


「――――さ……ん」


 と、そこでようやく、少女の途切れ途切れだった声が実体を伴って僕の耳にも届いてきた。


「………………(さとし)さん」


 少女が口にしたその言葉は――。


「えっと……うん、そうだけど」


 間違いなく、僕の名前だった。





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