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◇◇◇
「いってきます」
玄関で靴を履いた僕はそう言って外へ出る。そしてすぐに振り返って扉の鍵を閉めてから、人知れず息を吐いた。
すっかり習慣となってしまった行為というものは、なかなかどうして止められるものではない。僕は鍵をポケットに仕舞うと、駅までの道を歩いた。
満員電車は好きになれない。
そんな単純な理由で、僕はローカル線の――それも各駅停車の電車しか止まらない駅から徒歩15分のところに住んでいる。
通勤時間はおよそ1時間。ドアツードアでこの時間なのだから、聞く人が聞けば決して遠くはない距離だろう。
電車に乗っている時間は40分。途中で主要線に乗換えることになるが、これも下り方向なのでそれほど混み合うこともない。
僕が駅のホームに立つと、構内アナウンスが響いた。毎日同じ時間に同じ場所に立っている僕は、別段苦労もなく空席に腰を落とした。
ローカル線で終点まで。そこから乗換えて数駅。
僕は今日も、職場に向かう。
◇◇◇
社会人になってからもう1年が経った。
あっという間のことだった。学生のときには考えられないくらい瞬く間に、1年が過ぎたのだ。
そしてもう2年目の4月も終盤を迎えようとしている。
「たまには早く帰りてぇなぁ」
そんな独り言が隣の席から漏れ聞こえる。
改めて計算しなくてもわかることだが、このところの僕たちの毎日というのは、半分以上を仕事に費やしていると言っても過言ではない状態だった。そろそろ月当たりの総残業時間のことを念頭に置かないと、危ないかもしれない。
自社的には水曜日がノー残業デーだという話だったが、常駐している僕たちにそんなルールは適用されない。
では常駐先の会社のルールはというと、金曜がノー残業デーだという。そうなればもちろん金曜日は残業なしで帰れると思うだろうが、どういうわけかそうはならない。
上長曰く、
「金曜はうちのノー残業デーじゃないから」
それなら水曜はノー残業デーになるのだろうか。答えは否だった。
「それはうちのルールだけど、ここはそうじゃないから」
正直意味不明で、きちんとした筋は通っていないと思った。それでも納得するしかないのだろうと、当時の僕はそれ以上問うのを止めた。
もはや意味の無い問答だ。社会とはそういうものなのだと、受け止めるしかないのだ。
それからずっと、こんな毎日を送っている。規定の上限いっぱいまで残業してしまえば、後はもう定時退社するしかないのだからと、少しおかしな思考に到達したこともあった。
「仕事終わったら帰られるよ?」
「お前それ本気で言ってるのか?」
「いいや」
配属されてからもう何度目かになるかわからないやりとりだ。たとえひとつのタスクが片付いても、その先には次のタスクが待っているだけなのだ。
だけども、誰かがやらなければならないことだ。誰かがサボれば、そのしわ寄せが他の誰かに行くことになるからだ。
だから僕は仕事をする。少なくとも、自分に与えられた仕事だけはちゃんとこなそうとしている。
ただそれでも、
「そもそも業務時間内に終わる仕事量じゃねぇじゃん。何でこのWBS、1日12hの見積もりで線引かれてるんだよ!」
僕もそれには激しく同意するけれども、これ以上人員を割けない以上は仕方のないことだ。
たとえ僕たちの仕事が請負業務だとしても、自社の人員不足はどうしたって補えない。ならば今いる人たちだけで対処するしかないのだ。
「知ってるか、同期の吉岡。あいつの配属された部署は毎日定退らしいぜ。先月の残業ゼロだったってLINEで言ってた」
「配属された部署で多少の差異があるのは仕方のないことでしょ」
「多少か?」
「まあ波はあるしね」
「波がないときのベースラインが同じとは思えないが」
それもそうだ。
「とやかく言っても仕事は進まないよ。口よりも手を動かさなきゃ。それに僕たちは残業した分だけ吉岡よりも多くのお金をもらっていると思えば、まだモチベーションは維持できるよ」
「それならお前は、お金はあるけど使う時間がない人生と、時間はあるけどお金がない人生のどっちが幸せだと思うんだ?」
「時間を使うのに必ずしもお金が必要ではない分だけ、後者の方が幸せかもしれないね」
「……モチベーションさがったわ」
同僚はそう言って表情に影を落とすと、財布を片手に席を立ったのだった。
WBS…Work Breakdown Structure。プロジェクトを理解し管理する上でプロジェクトの各工程を各担当者の作業レベルまで展開しTree構造にまとめたもの(ウィキペディアより引用)
LINE…アプリケーション。ソーシャル・ネットワーキング・サービスの一種。スマートフォンやフィーチャーフォンなど携帯電話やパソコンに対応したインターネット電話やテキストチャットなどの機能を有する(ウィキペディアより引用)