無限画布⑤
〈氷冠〉のリーダーである氷御津は、三人目の〈彩〉幹部と対峙していた。
狂ってる〈彩〉幹部から仲間を引き連れて逃げてきた彼女は、その道中で逃げ道を塞ぐように佇んでいたこの男と遭遇したのだ。
黒い衣。顔の下半分には巻き付けられた麻布。目付きの鋭さは、暗殺者。
「……あくまで逃がさないつもりなのね……! 忌々しい……!」
「…………………」
無言を返す禿頭。彼は組んでいた腕を静かに解き、広げて構えた。
「……そこを、どきなさい!」
前方の無言男も薄気味悪いが、真後ろからは現実的な死の脅威が追ってきている。焦りの心は仲間たちの脚を前に進ませ、邪魔者を蹴散らそうとする。
雄叫びを上げながら攻めかかるこちらに禿頭はすっと、手を水平に伸ばした。
その手から一本の白い糸が地面に伸びているのが見え、氷御津は気付く。
「駄目!」突進の脚を止め、仲間たちを制止する。
「みんな、駄目! 距離を取って!」
声は届いた。しかし遅い。距離が、相手の間合いに入ってしまっていた。
姉御? と振り向いた部下の一人が、足元から登ってきた細い糸に捕まる。
彼は動きを封じられ、そのまま糸は巻かれていき、ついには繭状にまで包み込まれた。繭はバランスを失い地面に倒れる。白い糸は一つではない。他の仲間たちもやはり同様に地面から伸びてくる糸の群れに絡め取られていき、繭に変じられていく。
地面に扇状に展開されている糸の始点は、ハゲの男の垂らした一本の糸。
恐ろしく冷たい男の眼が氷御津に突き刺さる。
「くっ、これが『渦色』……! とにかく、ここから離れて……!」
ステップで後ろに下がる。追ってくる糸を短剣で切り刻み、その柄を強く握りしめる。鬼の皮膚が張られた柄の、異能を持つ短剣だ。自分らの力だけでは〈彩〉に打ち克つことはできない。その差を埋めるために与えられた武装であり、頼みの綱だ。
まだ蜘蛛の糸が及んでいない場所まで下がり、短剣を突き刺すように構えた彼女は、自身の能力を発動させる。溜めと集中が必要なために、発動にしばし時間が掛かる彼女の力は、三人目の刺客にしてようやく発揮できるのだった。
「………………」
『渦色』が足を止めた氷御津に歩み寄ってくる。それと同等の速度で地を這ってくる真っ白な糸。絨毯のように広がったそれに一歩でも踏み込めば、一瞬で包まれてしまう。
だが、そしてその時には、充分な時を稼いだ彼女の力は発動していた。
氷御津は息を溜め、叫んだ。
「……〈喪われし氷の世界・フロストワールド〉ォッ!」
短剣を持ち、伸ばされた腕から生まれ出たのは、凍結という破壊現象だった。
始まりは霧と霜の発生。その二つは〈氷冠〉の女を中心に満ちていく。
やがてそれは、地面を構成する物質に波及し、地割れを引き起こす。
近くのカーブミラーが音を立てて破砕した。空を走っている電線が霜に覆われピンと張る。寒さで落ちてきた野鳥が空中で凍っていき、地面で結晶のように粉々になる。
絶対的な冷気がその空間を支配していく。
地を這う糸すら、霜柱と自身の凍結によって動きを止められる。
「……………ッ!」
『渦色』が無表情を崩し、自分の手を見た。その指先が見る見る凍り付いていく。すでに足の方も凍ってることだろう。
「今頃驚いても遅い。私の『氷絶界』はもう開かれている」
動けなくなった『渦色』に地面、それと空気中から絶対的な冷気がじわりと伝わっていく。このまま突っ立っていれば、全身の水分が凍り付き、死に至る。
氷の笑みを浮かべた氷御津は腕を引き、短剣を振るう構えを取る。
相手に考える隙を与えないように、『氷絶界』の鬼は得物を振るった。咄嗟に『渦色』は後ろに跳んだ。敵に攻撃を許さぬためと、この以上身を凍らせないようにと。
当然、元より刃の届く距離ではない。振るいはするも何も斬ろうとは思っていない。彼女が狙っていたのは敵を斬ることではなく、短剣の効力が発揮されること。すなわち敵が動いてくれることだった。
「忌み焦がせっ! 『炎蛇之牙』!」
案の定まんまと跳んでくれた『渦色』を感知して、手に持つ剣身が妖しく光った。爬虫類の瞳のような赤い光は、疾速で伸びた。剣長を無視して宙に飛び出した光は、加速と捻りを何度も用いて、跳んでいる『渦色』の身に突き刺さる。
これに害はない。これは蛇が獲物をマークしたに過ぎない。
もう一度蛇の剣が、蛇の住処である剣身が、身を縮める。
ケケケケケッケケケケケケケケケケケケェ! と。
蛇の模様が刻まれた剣の腹が笑うと、短剣は火が付いたように赤く染まり、先に出た光を追いかけて、獲物に向かって飛び出した。
その数、八つ。一本は剣であり、それに従う他の七つは紅炎によって形作られる。
金属は硬いはずという固定概念を超越し、柔らかく伸びる『炎蛇之剣』の剣身は、七本の炎を引き連れ、蛇のように空を這いずり回った。
弛み、撓み、軋み、伸び。
加速を何度も繰り返し、演舞のように回り、抉るように弧を描き、赤い光の残した軌跡を辿りながら、その終着地点にいる禿頭へと、歯を向ける。
刺さる直前で『渦色』は上に跳んだ。近くのビルに放った糸を手繰って、回避となす。だが、それさえ炎蛇にとっては児戯に等しい。燃える蛇は一度噛み付いた標的を決して逃がさない。上に逃げた獲物を追って、八匹の赤き蛇は直角に跳ねた。その身を捩らせ、顎を開いて躍りかかる。
『渦色』は再び跳ぶ羽目になる。彼が次に降り立った場所は、霜が深く覆っている地面。こちらの目前だ。一度足を止めれば張り付いてしまう極寒の地でもある。
だからこそ炎蛇はその身を激しく燃え盛らせ、逃げる敵を追尾し続ける。
「遅いって、私は言ったわ。知らないのかしら、蛇は熱を見て敵を食らうのよ。この氷点下の中じゃあ貴方の温度は目立つわよ? 私の領域内で逃れることは不可能だわ。退きなさい『渦色』。あなたも生きながら焼き食われたくは、ないわよね?」
真正面から対峙する二人。激しい熱と轟きが上から降ってくる。
天から二人の間に降りてきた炎の蛇は熱を求め、迷うことなく体温の高い『渦色』に食らいつく。氷御津の体温は能力発動中はゼロに近い。ならば蛇が食らいつく対象は常に相対者になる。
一本の剣を中心に、放射状に広がって食らいつく七本の炎。
「……………………………」
『渦色』は爪から白い糸を、今度は太目に出し、指の間に掴む。その数八本。糸は周囲に漂う冷気によって凍結し、小振りのランスとなる。
交差された『渦色』の腕が閃き、八本の槍は八匹の蛇に向けて投げ付けられる。
キンッ、と一つの堅い弾きの音が起こり、七本の炎は槍と相殺される。いや、正しくは主軸の短剣が弾かれたため、他の炎が方向を見失い、消えてしまったのだ。
燃える燐火と残像を空に残し、短剣が元の長さに縮んでいく。
暗鬱たる曇天の下、火花に照らされた氷御津の顔には歯を剥いた笑みがあった。
喜びであり、威嚇であり、強い意志を表す笑いである。
敵の姿勢は糸を放ったままのもの。弾かれた剣身は自分の手元へ。
鞭のようにしなって戻ってきた『炎蛇之剣』を掴み直し、氷御津は唱えた。
「業火に焼かれ、氷河に埋まれ――」
謡いの言葉に乗ずるように、火炎の蛇は大きく歌う。
氷御津の手元から生まれ出た陽炎は、まず持ち主を祝福するように包み込み、蛇の剣に吸い込まれていく。灼熱の蛇は獲物を探すように、ゆっくりと身をもたげると、
「――『炎蛇之牙』ッ!」
八つ首の炎竜が生まれた。
その身を滾らせ、光に乗って、炎を伴う大蛇は『渦色』に食らい付く。
「………………ッ!」
赤い剣が『渦色』の胸を貫き、七匹の炎蛇が男の身体を飲み込んでいく。炎をまとった乱気流が地上で発生し、中心にいた一つの人影を覆い隠す。
人間の形をしていた物体は炭化し、炎の激流の中で塵と化していった。
敵を食らった炎の竜は、咀嚼のような動きを見せると、空気に薄れて消える。
熱が膿んだ空は、息が吸えたものではない。だが、氷の女が口笛を一息吹くと、空気は冷たく澄み切ったものに変わる。荒熱を排除した上で人熱を食む短剣をかざしてみるが、反応はない。熱のあるものはここにはない。消え去ったのだ。
「……やっと。やっと一人、倒せたのね。こんな調子じゃあ、幹部を全員を倒すのにどれほど掛かることかしら」
重い息を漏らす。短剣の煤を拭って鞘に戻すと、繭に囚われた仲間たちを見回す。早く助けてやらなければ窒息死の恐れもある。
このナイフは使えないわね、と考えてから、氷御津は背中に圧迫を感じた。
「……………っ!」
何も考えず前に飛び込んだ。
伏せようとする背中を重く固い何かが掠りつける。焼けたような痛みが来る。
前に飛んでいった敵は着地音を立てず、巨大物が動く際の風だけを生む。
伏せたまま横に転がる。頭はまだ上げられない。今身体を起こしたら、今度こそ頭を吹き飛ばされるだろう。身体がワゴン型の廃車にぶつかる。車体の下に潜り込み、止めていた呼吸を再開させ、緊張の汗をドッと掻く。
襲撃者の動き回る音は続いている。依然と無駄な雑音を立てずに。
伝わってくる気配の中には、殺気も含まれている。だが人の気配ではない。人のする息遣いではない。人の発する温かな視線ではない。ジイッと。感情のない機械のような、感性のない虫のような。そういうものに見られてるようだ。
重く、速い物体が生む風の音は鳴り止まない。
腰の刃物を確かめる。この短剣ならば敵に食らいつき、焼き払ってくれる。その柄を握り締め、氷御津は心の中で三秒数えると、勢いよく転がり出て、
「『炎蛇…………ッ!」
と同時に、黒い巨大な生物がワゴン車を跳ね飛ばしていった。
ガラスの破片を撒き散らしながら車は遠くに飛んでいく。それを首で追う。その先には車を軽々と蹴飛ばした、黒い襲撃者の正体が見えた。
車が空でキャッチされる。受け止めたのは白い糸の編み合わさった、網。
白い網は天空を覆い尽くし、ソレはそこにぶら下がっていた。
『…………………………』
無感情な八つの眼。暗殺者の目のように思えたのは、今思えば勘違いだったのだ。
あれは、捕食者のそれ。
「…………蜘、蛛………!」
十五メートル近い蜘蛛が自らの巣に張り付いて、こっちを見ていた。
蜘蛛の頭に不自然に絡まっている麻布が、ソレが『渦色』だと教えてくれる。八つある脚の太さは人の胴体を超えたサイズ。炯々と光る複眼は四方八方を常時見渡し、人の頭など容易に噛み砕けそうな顎からは粘り気のある濁った液が垂れ落ちる。
立ち上がり、手の短剣を構えるが、炎蛇は息吹を発しない。その理由はそのままを意味する。つまり、目の前の敵には熱がない。この氷点下の世界と同等の体温しか持っていないため、蛇が反応できないのだ。
「……さっき焼いたのも、抜け殻だったわけね。全くもって忌々しい……!」
蛇が食らい付いたのは人だった時の残熱。脱皮後の『渦色』は完全に変温動物となって潜んでいたのだろう。そうして天上に巣を張り巡らせ、巣の上を飛び回っていた。
巨大蜘蛛が逆さのまま、グッと全身を屈ませると、跳躍した。
「っ…………!」
巨大さゆえに迫ってくる速さは分かり難い。が、それがとんでもない速度と質量を持っていることは本能的に伝わってくる。鼓膜が詰まる。空気が重い。
必死に跳んで避けるが、足に空中からの大質量が掠り、氷御津の身体は錐揉みに回転して飛ばされる。その身体を、四方に張られていた蜘蛛の巣が柔らかく受け止め、構築していた糸がほどけ、そのまま繭に封じ込めていく。
朦朧とする意識で、氷御津は抵抗するように手を伸ばし、
「…………〈フ……ォ…っ、………」
それを、やはり柔らかい糸が優しく留めて、包み込んでいって、
氷の女王は大蜘蛛の手によって、一つの繭となった。
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