序章 観客慄然パラダイス
逃げることは許されない。それは死ぬまで追い立てる。
背くことは許されない。それは従うことのみ追い求む。
生ある者は闇に染まり、従う意志は抗いに変わり。
追われる者は逃げ続けるか、死ぬべきか。
だが、もう戻れぬ道に迷いはなく。
なぜなのか。いつしか消えてしまうものだというのに。
なぜ抵抗する? なぜ次を望む? なぜ弱くなろうとする?
なぜ人は、そうしてまでも叶えたい夢を負ってしまう?
あるいは野望。もしくは逃避。または幻想。それとも、貪欲?
あらゆる全てを望む者は、いずれ望まぬ道を行く。
最早逃げた理由などには、誰も興味を示さない。
自由は仮初め。幸福は裏返し。安全は穴だらけ。約束は嘘ばかり。
開幕から終わってる舞台で、役者は無残に踊り続ける。
さあ、『運命』に迫い立てられる気分はどうだい?
序章 観客慄然パラダイス
ザワ、と場の空気が粟立った。
「――それは……!」
言われた言葉に誰もが自分の耳を疑った。いや、卑しくも諜報を主任務としている自分らが、あれだけはっきりと告げられた言葉を聞き逃すことはありえない。しかしだとすれば、先の内容が全て真実となってしまう。それは、例えば自分が死んでしまうよりも恐ろしいことに思えた。
「玄鶴様が死ぬとは、真でございますか! 奥井様」
目の前に悄然と座っている専属医の奥井に尋ねる。しかし彼はただ首を左右に振るだけで、襖の奥に戻っていった。追いかけようと動くが、護衛の者と部下がそれを押し留める。一族の長、玄鶴の寝室に入ることはたとえ親類の者であろうとも禁じられている。暗殺を警戒しての処置なのだろうが、今はその警戒心の何と煩わしいことか。
襖の向こうにあるであろう床に臥した父の姿を思い、臍を噛む。
容態が悪化したとは聞いていたが。よもや、ここまでとは。
今朝方、一族の上層部の者に招集が掛かった。よほどの緊急事態だろうと、すぐに集まった幹部たちを待っていたのは、専属医務の奥井だった。
彼は戸惑うこちらに対し、重苦しい声でこう告げた。
玄鶴様はもうすぐ死ぬ。恐らく一週間以内に、と。
前兆はあった。まだ五十代であり、見た目は若々しいがどこか猛禽類のような老獪した雰囲気を持つ父は、この一ヶ月の間で急激にうらぶれた。床の中で日に日に弱々しくなっていく玄鶴が余命幾許もないことは誰の目から見ても明らかであった。
だが七日以内という、残された猶予の短さに皆が衝撃を覚えた。
紅崎玄鶴は一週間も経たずに死んでしまうという。
あまりに性急な話だ。紅崎はまだ闇の業界で生き抜いていくには人脈も組織力も足りない一族だ。この家にはまだ父の存在が必要なのだ。十年前に衰亡の一路に立たされた紅崎を土御門という武器商人として立て直した玄鶴の手腕が。
それ程の統率力やポテンシャルが、残される我らの誰か一人にでもあるだろうか。
実力のある者が上に立てば組織は嫌でも回っていく。土御門はまさにそのような組織であった。だが、そのような組織はトップが消えると一気に瓦解してしまうものだ。
いや、とそこから先の思考を止め、麻痺させる。
余計な思索は止めよう。医師が言うからには父は一週間以内に死に、しかし父自身がそれを是とし、今生きているのならば、まだこの一族の長は父だ。
なら、自分らがすべきは土御門玄鶴の手足となり、主の野望を果たすだけだ。
〈廃都〉。旧首都の支配と奪還。二ヶ月前に失敗したその計画を。
段階としてはまだ未熟であるが、猶予は最早一刻もない。たとえ性急がゆえに失敗し、最悪紅崎が滅ぼうとも、それが先の争乱で宗家を失い、惨めにも死に切れなかった一族の末路だというのなら、悔恨を胸に秘めたまま歴史の闇に消えていくとしよう。
玄鶴の長子。紅崎緋雀。
未来も希望もない一族に生まれ、特筆した才能にも恵まれず、だが幸か不幸か青年の年にまで生き抜き、一族の副長となってしまった彼の唯一ともいえる特性は、そういう成功や結果への頓着の無さだった。
緋雀はその日、誰も引き連れずに〈廃都〉へ潜入した。