【九章】甘くなった理由
ユリウスの部屋から飛び出したアイラは台所ではなく食糧庫に向かった。前の時とは違う行動をとろうと意図したわけではなかったのだが、結果として変わった。
だから第二王子の取り巻きの襲撃を受けることはなくなったのだが、今度は別の問題が勃発するのである。それがなにかは、もちろんこの時のアイラは知らなかった。
夕食とついでに明日の朝食用の食材をかごに入れ、台所へと向かった。
「あれ、師匠?」
台所には渋面を浮かべたユリウスがいて、紙をにらみつけていた。アイラが来たことは分かっているはずだが、身動きしない。
「アイラ」
ユリウスは紙をにらみつけたまま口を開いた。
「王から招集がかかった」
「…………はい」
「前日に手紙をよこすなんて珍しいな」
ユリウスはそんなことを呟きながら手紙を懐にしまい込んだ。
「倉庫に行ってくる」
「はい」
城に着ていく服を選んでくるのだろう。
今日は珍しく白い上衣に黒い下衣という簡素な服を着ているが、明日は派手な服を着るのではないだろうか。
「……ん? 呼ばれたってことはわたしも?」
となると明日の準備もしなくてはならないのか。
なるほど、それで前日に知らせてくれたのかもしれない。
忙しいなと思いつつもアイラは久しぶりの外出に少しだけ心がおどった。
夕食の後、片づけを済ませて明日の朝食の準備をすませ、念入りに風呂に入った。
部屋にこもって明日着ていく服を考える。
先日、王と会った後にユリウスはアイラに招集されたときのためにと服を買ってくれた。どうやらこの間の服がお気に召さなかったようだ。
普段のアイラの服装はとても質素だ。基本は白の上衣に黒の下衣。これに前掛けをする。掃除や家事をするのに邪魔にならないものが大前提だ。
金色の髪の毛も結い上げてお団子にして髪が落ちてこないようにしている。さらに三角巾をして汚れないようにしていた。
ユリウスはそれが気に入らないと三角巾をはずしたり、お団子を壊したりして邪魔をしてアイラによく怒られていた。
その行動は母親に相手をしてもらえない子どものようでため息しかでない。
だけど、悲しい結末を知っているアイラにはそんな些細なやりとりさえ思い出して胸が締め付けられてしまう。
ユリウスのいなくなった世界。
なにをすればいいのか途方に暮れてしまうほど広くて、空虚だった。
ユリウスの跡を継いで宮廷魔術師になって王を守るという仕事がなかったら、アイラはそのまま朽ち果てていただろう。
そしてまた、ユリウスとの別れを体験して──。
心が壊れてしまいそうだった。
だけどアイラをこの世に留めたのはユリウスの言葉だった。
──俺の分まで生きろ。
それがどれだけ残酷な言葉かユリウスは知っていたのだろうか。
ユリウスが死んだ日から遠ざかれば遠ざかるほど、アイラの心は張り裂けそうになった。
アイラが狙われたのはどうしてなのか。
どうしてアイラの代わりにユリウスが死ななければならなかったのか。
そして──。
ユリウスはあの時にアイラを庇って死んだけれど、斬りつけてきた人にユリウスは攻撃はしなかった。いや、致命傷で反撃できなかったのだ。
なので相手は無傷だった。
ユリウスを殺せれば目的は達成したと思ったのか。
ユリウスが血塗れで倒れ、アイラが介抱している間。
斬った人はその場から逃げた?
アイラではなくユリウスの命が目的だった?
悲しみのあまり、アイラにははっきりとした記憶がない。
それに。
斬られたのはどこでだった?
「むー」
分からないことだらけでうなっていると、扉が叩かれた。
「……はい?」
思考の海からなかなか出てこられず、アイラの返事は遅れた。
「もしかして、寝ていた?」
遠慮がちなユリウスの声にアイラは引き戸から離れて扉を開けた。
「いえ、服を考えてました」
「それなら」
去っていこうとするユリウスの服の裾をアイラはとっさに握っていた。
「ん、どうした? 淋しいのか?」
「え、いえっ」
少し淋しそうな表情のアイラを見て、気がついたらユリウスは誘っていた。
「まだ寝ないのなら、台所で話そう」
「えと、はい」
アイラは少し意外な気がしたけれど、ユリウスの誘いに素直に応じて二人で台所へと向かい、アイラはお湯を沸かした。
「師匠はどうしますか?」
「んー?」
「お茶でいいですか?」
「任せた」
「はぁい」
棚から茶葉を出し、茶器に二人分を入れて沸いた湯を注いでふたをして蒸らす。
「師匠、聞いていいですか」
「なんだ」
「……どうしてわたしはこんなに数え切れないほど死なないといけないのでしょうか」
「それ、さっき俺が言ったような気がするが」
「はい、言いました」
「魔力を多く持っているからというのは答えにならないか」
「……かもしれません。ですけど、魔力が多いのと世界の時間が戻る、この二つの間に相関関係を見いだせません」
「そうだな」
アイラは茶器からカップにお茶をうつし、ユリウスが待っている長椅子に行き、止まった。
「師匠?」
「どうした? ここに座れ」
「えと、二人掛けですよね」
滅多に来ないが客用にと用意されているのは二人掛けの長椅子。そこにユリウスは座面の上に足を乗せて横に座っていた。
「アイラは俺の上に座ればいい」
「意味が分かりませんって」
机にそれぞれのカップを置き、アイラはユリウスの真向かいの床の上に座った。
「アイラちゃんったら、冷たいのね」
「落ち着いて飲めません」
「ちっ」
「舌打ちしないでください、怖い」
「ああ、悪かった」
ユリウスは上にアイラが乗ってくれないのならと床に足を降ろし、普通に腰掛けた。そして空いた隣をぽんっと叩いてアイラに笑いかけた。
「じゃあ、横に」
「遠慮します」
「……まあいい」
ユリウスは立ち上がるとアイラの後ろから抱えるように座り込み、がっしりと身体を抱きしめた。
「師匠っ!」
「なんだ?」
「いつからべたべたするようになったのですかっ!」
「気にするな。アイラが生きているのを感じたいんだ」
「止めてください! 残されるわたしのことを考えてください!」
「温もりがなくなると淋しいと?」
「う……」
「まあ、気持ちは分かるが、アイラ、なにかあるごとに俺を殺さないでくれないか」
「別にわたしは師匠を殺してませんけど」
「まだ死んでないのに死んだことになってるだろ!」
「だって! 師匠は半年後にわたしを庇って!」
「死なないよ」
「だって……」
「アイラも殺さないし、俺も死なない」
「無理です」
「無理じゃない。やるんだよ」
「…………」
「アイラ、考えるんだ。おまえはこうして未来で起こってしまったらしい記憶を残して戻ってきた。それってどういう意味だと思う?」
「え……と」
「結果を知ってるって強いよな。正解の道はそのまま進めばいいし、間違いはそちらに進まなければいい」
「そうですけど、その違う道を選んだことによってさらに悪化したら?」
「そうしたらアイラ、おまえはまた死ぬだけだ」
「間違いを選ぶとわたしは死ぬと?」
「今までの話を聞いているとそうなのではないかと」
「それでは、師匠がわたしを庇ったとき、師匠が死んでわたしが生き残ったのは」
「正解だったってことだ」
「そんな!」
「理由は分からないけれど、世界はアイラに死なれると困るんだよ」
「わたしは」
「そうだろう? アイラが痛い思いをしても、世界は容赦なく時間を戻し、アイラにやり直せと強要している」
「…………」
「それで、質問だ。アイラが死ななくても教会が壊れることは?」
「何度かありました。教会はわたしが死ななくても気がついたら勝手に直ってました」
「みたいだな。そのときは時間は」
「戻ってないと思います。周りの人たちも覚えていましたから」
「ふむ。なんかそれ、不思議だな」
「はい、そうなんですよ。教会だけなぜかわたしが死ななくても直ってました」
「……教会以外で壊れたものがアイラが死ななくても直ったものは?」
「たぶんですけど、ないです」
「……そうだな、俺が死んでも生き返らなかった」
「ううっ」
「悪かった。泣くな」
「師匠は意地悪です」
「好きな子に意地悪したくなるんだよ」
「師匠は前はこんなに甘くなかったです」
「そうなのか?」
「こんなにべたべたしてきませんでした」
「なんだろうな。たぶんだな、俺、経路によってはまた死ぬかもしれないんだろう?」
「……それは分かりません」
「だから、泣きそうになるなって」
「嫌なんです。たとえ嫌いな師匠でもわたしのせいで死ぬなんて」
「嫌いなは余計だが」
「いえ、最重要です」
「俺はアイラのことがこんなに好きなのに!」
「そこが分からないのですよ」
「分からないとは?」
「前はまったくそんな素振りを見せなかったのに、なんで時間が戻った途端に急にこんなにも甘々になっちゃったんですか、師匠? 頭打ちました?」
「んー、前からアイラのことは好きだったよ?」
「嘘だあ」
「アイラを引き取った時は同情だったと言ったよな」
「はい」
「同情が愛情になったのはいつだったかな」
ユリウスはそういって少しだけ遠い目をしたが、すぐにアイラの顔を見た。
「はっきりは分からないけれど、一緒に過ごすうちに大切な人になってた」
「なんでそんな恥ずかしいことをっ」
「恥ずかしくないって。俺、知ってると思うけどすっげーわがままなの」
「ええ、嫌ってほど知ってます」
「人の好き嫌いも激しい」
「女性の顔と名前を覚えようとしませんよね。やっぱり男性が」
「俺に媚びを売ってくるのは男でも女でも嫌いだ」
「女性は特に媚びを売ってくるから嫌だと?」
「そうだ」
「なるほど。わたしが師匠から嫌われるためには媚びを売ればよいと。……うわぁ、考えただけで鳥肌立ちました」
「あのな」
「媚びってどこに売ってますか? 仕入れてきて師匠に売りつけようかと思うのですが」
「おいっ」
「だって、嫌いですよ。すぐにわたしを泣かせますし、こうやって抱きしめてくるし、なんか最近は甘ったるくて歯が浮くような言葉ばっかり言うし」
「仕方がないだろ。アイラのことが好きなんだから」
「それですよ、それ! 前と同じでいいんですよ。わたしのことが好きでも嫌いでもなんでもいいですけど、想いは胸に秘めておいてください。甘ったるくて鳥肌立ちます」
「そういうわけにもいかない。だって俺、半年後には死んでしまうんだろう?」
「……そうですよ。なんなら今、殺してあげましょうか」
「いや、遠慮しておく。まだアイラから好きって言ってもらってないから」
「言いません」
「ふぅん? 俺が死ぬかもと思ったら泣くのに?」
「……そんなだから嫌いなんですよ」
「アイラが俺のこと嫌いでも、俺が好きだから問題ない」
「もうそれはいいですから!」
「よくない。で、アイラは本当は俺のこと、好きなんだろう?」
「嫌いですって」
「まあ、いいや。嫌いでも興味は持ってくれている、と」
「……前向きすぎて泣けます」
「必ず振り向かせるからな」
「嫌です」
「そうやって強がるアイラ、好きだぜ」
「……わたし、寝ます」
「話が途中だが」
「ここで考えたって答えは出ないんですよ。わたしが死んでみたらなにか分かるかもしれませんよ」
「……アイラ、頼むからそんなこと言うな」
「おやすみなさい、師匠」
「……アイラ、一緒に寝ようか」
「寝言は寝て言えっ!」
「ぐほっ!」
アイラの放った肘鉄は見事にユリウスの鳩尾に決まり、ユリウスは床に倒れ込んだ。
「それでは、また明日」
「……俺を置き去りにするとは、そこがしびれるあこがれる……うぅ、切ない」




