とある夏の日のこと
「なあ、肝試ししようぜ」
下校途中、ふと、よく一緒にいる友人たちの一人が口にした。茹だるような暑さでぐったりしていた彼らの顔がたちまち輝く。楽しそう、一人が賛同すれば次々に賛成の声が上がった。
それはきっと彼らにとっては暇潰しの戯れなのだろう。
けれど、白戸謙也は恐怖に戦いていた。口にも態度にも出さないが、怯えていた。もし身体が動くなら100Mの自己最高記録を更新できるぐらいの速さでこの場から逃走する自信がある。
(頼むからこのまま帰らせてくれ……!)
幸か不幸か、今日は午前授業だった。つまり午後は自由時間。彼の通う学校から最寄りの駅までには距離がある。そしてその通学路の途中、少し路地の奥に入った場所には、幽霊屋敷――まさに肝試しにぴったりな心霊スポットが存在しているのだ。
が、謙也の心の叫びなど聞こえるはずもないし、好奇心に負けた少年たちが絶好のスポットを逃すはずもなく。友人たちは揃って幽霊屋敷へと向かっていく。
時間が無いから。
これからバイトが有るから。
勉強しないといけないから。
必死で言い訳を考えている間にも、幽霊屋敷は近づいてくる。
「……なあ、白戸。具合悪いのか?」
恐怖のあまり青を通り越して白くなった顔色に気づいたのだろう、グループの中でも親しい一人が声を掛けてきた。
「ああ、いや。問題ない、大丈夫だ」
至って普通の声音で答えてしまってから、謙也は全力で数秒前の自分を呪った。
具合の悪さを理由に帰宅してしまえば良かったものを!
まさか今になって「やっぱり俺具合悪いんだ」などと言えるはずもない。童心に返ったように顔を輝かせている友人たちの最後尾について、謙也はひっそりと嘆いた。
「おおお! すっげ雰囲気出てる」
幽霊屋敷の入り口に着いて見れば、そこは如何にもといった空気を醸し出していた。誰かが感動したような声を上げた。
元は立派だったのだろう和風家屋。謙也たちは門の前にいるのだが、その門の周囲の石垣にびっしりと生えた苔と走る亀裂が年月を感じさせる。
外からは中の様子を伺えないが、かなり荒れ果てているだろうことは容易に想像できた。真実かどうかは分からないが、噂によれば家屋は築100年を過ぎているらしい。
恐怖とは別に一種の感動も覚える。辺りを見回していた謙也は、ふと首筋を撫でた寒気に身を震わせた。何気なく二の腕をさすってから、喉に引っかかった小骨のような違和感に動きを止める。
(――……寒気、だと?)
今は夏だ。立秋を過ぎたので正確に言えば残暑の頃だが、寒気を感じるような気候ではないことは確か。その証拠にまとわりつく湿気で肌がべとついている。
では、今の寒気は何だ。形容し難い感覚が襲ってくる。恐怖ではない、どちらかというと畏怖に近い。頭の中で警鐘が鳴り響く。
「おーい、白戸ー!」
早くと手招く友人の姿にハッとして目を向ければ、彼の姿が、――ぶれた。
電波状況の悪いテレビのように、ざわりと。
ゆらめく少年たちの姿を呑み込むように、どす黒い闇が足元から立ち上がる。生き物のようにうねり、のたうち、それは鎌首をもたげる。
ぞわりと背筋が総毛立った。
「――――ッ!!!」
反射、だった。感覚器官が脳に指令を出す前に、第六感が脊髄反射を起こしていた。
「 《来 る な ぁ あ あ あ あ っ !!》」
喉から迸る絶叫。言霊を込めた言の葉。言霊は力に、刃に変わる。
とっさの言挙げが功を奏したのか、影だったものは切り裂かれたように霧散した。
白戸謙也は生来の言霊師であった。古来より言葉には霊力が宿り、それを操るのに長けた人間を言霊師と呼ぶ。謙也は特にその能力が優れており、他の人間よりも霊的なものへの感応性が高い。
微弱な言霊も噂となって人々の間を駆け巡れば、虚偽や疑心という追い風で加速し、やがては実体を持って己を放った者の元へと返る。都市伝説や心霊スポットの噂が良い例だ。
能力の高かった謙也は、幼少の頃から実体化した言霊に対峙してきた。それは例えば口避け女や人面犬、幽霊、果ては誰かの嫉妬のカタマリ。幼心に感じてしまった恐怖は、トラウマとなって残っている。
必然的に彼は口数が少なくなった。己が最も言葉の危険性を理解していたが故に、言葉を発しなくなった。謙也は言葉が怖いのだ。言霊師としてはあるまじき、言葉への恐怖心を持ってしまっている。そんな謙也が言霊師としてやっていけるはずもなく、こうして普通の学生生活を送っていた。
けれど、今、謙也の力が必要となる事態に遭遇している。謙也は逃げ出したいほど恐怖を感じていた。けれど地面に倒れている友人を放っておけるはずがない。影が消えたとはいえ、いつまたあのようなものが襲ってくるかわからないのだ。
「どうする…!」
悔しさに歯噛みした瞬間、ぱちり、と世界が暗転した。
――――気がつけば、そこはいつもの通学路だった。友人たちは他愛もない話で盛り上がり、笑う。
「なに、が、起きた」
自分ではない。何もしなかった。何も出来なかったのだから。
青を通り越して白くなっていく顔色を自覚した途端、膝が震えだした。
「……なあ、白戸。具合悪いのか?」
謙也の異変に気づいたのだろう、グループの中でも親しい一人が声を掛けてきた。
「ああ、いや。問題ない、大丈夫だ」
平静を装って答えながら、謙也の心臓はうるさいほどに鼓動を繰り返していた。
(先刻のは幻……? いや、確かに俺は言霊を使用した。だが、あの後いったい何が起きた……?)
思考に沈む謙也の手を、不意に誰かが引っ張った。
ぎょっとして顔を上げた謙也の目に映ったのは、明るい笑顔だった。
「早く帰ろうぜ! んでもって遊びに行く!」
「おいおい、高校生にもなってはしゃぐなよー」
「それもそうだ」
言葉少なだが会話に加わり、謙也は小さく笑みをこぼした。
何はともあれ、友人が無事だったのだから良いじゃないか。