大好きなあなたに、お別れを
未成年で飲酒をするとかしないとかの描写がありますが、皆さんは法律を守りましょう。
私には、許嫁がいます。
幼馴染でもあるその人は、十歳も年上のお兄さん。聡さんと、昔から呼んでいます。親同士の仲が良く、私が生まれたときに交わされた、「この子を聡の嫁にするか」という気軽な約束がもとになった関係です。
小さい頃、それこそ産まれた時から両親に「聡君と結婚するのよ」と冗談交じりに言われ続けて、幼いころはなんとなく“そうなる”ものだと漠然と思っていました。
聡さんも、同じように思ってくれていたのでしょうか。小さな頃から今まで私にとても優しく接してくれました。
そんな彼に、私が恋心を抱くのは自然な流れだったように思えます。
でも、私は聡さんから見れば十歳も歳の離れた子供。いくら許嫁の約束があろうとも、所詮口約束です。彼が私を相手にするとは到底思えませんでした。
だって、どう考えても彼は私のことをよくて妹くらいにしか思っていないことは、その態度から丸わかりでしたから。
だから、私は私にタイムリミットを設定しました。私が許嫁という微妙な関係性に縋っていいタイムリミットです。
私が考えたのは、二十歳という年齢でした。私が二十歳になるその日に、聡さんとの婚約はなかったことにしよう。
私にあの人を縛るのは、その日までにしようと、そう決めたのです。その日から、私は彼の妹になると、思春期のただなかにそう決心したのでした。
大学二年生の春のある日、私は大学近くのあるカフェを訪れました。待ち人を探してキョロキョロと店内を見渡すと、奥の席に彼はいました。
嶋 聡さんです。久しぶりに見る彼は茶色かった髪の毛を重い黒に染めていて、少し印象が違っていましたがすぐにわかりました。
彼の姿を見つけたことが嬉しくて、つい駆け寄ります。
「聡さん、お久しぶりです」
彼は本を読んでいたようでしたが、私が話しかけると顔を上げました。
「ああ、ハナちゃん。お久しぶり」
彼は少し遅れてしまった私を笑顔で迎えてくれます。
私の聡さんの印象は、いつだって笑顔です。昔から、柔和な笑顔を絶やさずに私と過ごしてくれています。
私は席に着くと、通りかかった店員さんに声を掛けました。
「すみません、ブレンドひとつ」
「はい、かしこまりました」
店員さんを見送って、ふうと息を吐きます。
本当は苦い味が苦手で、コーヒーならカフェオレの方が好きです。でも、聡さんの前ではついつい背伸びをしてしまいます。
今日だって、聡さんに会うということでいつもより少し大人を意識した格好をしてきました。どこまで大人びて見えているかは、私の主観の域を出ないのでよくわかりませんが。
目の前の聡さんをチラリと盗み見ます。今日はずいぶんとラフな格好をされていました。ネルシャツにジーンズです。彼はあまり格好に気を配る方ではないのですが、すっきりとしたそのファッションに私は胸ときめかせました。
恋する乙女は盲目なのです。
「はい、ハナちゃん。これお母さんから預かったものね」
聡さんが取り出したのは、ジュエリーケースといえば名前負けし、でも箱と貶めるのは少しためらうようなものです。
それは、私が高校生の時にアクセサリーを入れていた箱でした。大学に入学するとき、寮に入るのであまり荷物を増やしたくなくて、いらないからと置いていった物です。
二年生になり寮を出てアパートで一人暮らしを始めるので、できればそれを送ってほしいと母に頼んだところ、「聡君に持たせることにした」と折り返し電話をもらった時はそれはもう驚きました。
聡さんをまるでパシリのように使う母が信じられません。
「すみません、おつかいみたいなことをさせてしまって」
「いいよ、こっちにくる用事のついでだし」
聡さんは笑ってそういってくれますが、申し訳なくて私は体が縮こまる思いです。
でも、聡さんに久しぶりに会えたこと自体はとても嬉しかったりします。その点では、彼を顎で使う母に感謝せねばなりません。
大学入学以来実家から出てしまった私は、今まで家が近所だからこそ交流があった聡さんとのかかわりが本当にゼロに近くなってしまいました。こうして会うのも、実は入学前以来なのです。
これは、大学生活一年目をどうにかやりこなしているうちに、聡さんに会う暇もなくあっという間にタイムリミットが迫っているということです。こんなときは、自分が春生まれであることが少し悔やまれます。
「本当にわざわざありがとうございます」
「いやいや」
改めてお礼を言って、その箱をカバンの中にしまいます。装飾品も着けないような枯れた大学生活を送っていましたが、これからは身に着けていくのもいいかもしれません。
やがてコーヒーが来ました。ミルクと砂糖を入れて飲みましたが、やはり苦くてあまりおいしくないです。
苦いのは苦手なのです。だって、私の気持ちもまだ苦いままなのですから。
私の想いは昔から変わっていません。でも、物理的な距離が離れた分、どんどん聡さんとの関係が遠くなっていっているようで、少し寂しくもありました。
タイムリミットが差し迫っている中、幼い私が夢想した幸せな二人はここにはいません。私たちの関係を見た人の多くが兄弟のようだと思うでしょう。
なんだか急に切なくなってしまって、胸の痛みをごまかすようにもう一口苦いコーヒーを飲みました。誤魔化したのは自分の気持ちだったような気もします。
ふと聡さんをみると、彼はアイスコーヒーをストローで飲んでいました。どちらかと言えば童顔の聡さんなので、なんだかその様子は可愛らしいです。
こんな童顔で可愛らしい彼ですが、実は有名ホテルのコックをされています。何度か彼の料理を食べたことがありますが、どれも信じられないくらい美味しいのです。そんな聡さんですが、花嫁修業と銘打って私の料理を食べたいと言ってきたことがありました。丁重にお断りしましたが。
だって、プロの舌を唸らせることなんて私には到底無理です。母親にも追いついていない私の料理は、なんとなーくおいしい程度なのです。そんなものを、聡さんの前に出せません。
はぁ、とそれを思い出して思わず肩を落としました。こんなところでも私は彼との差を感じずにはおれません。プロと比べるなよと言う話ではありますが、私の中でうまく割り切れていないのです。
やっぱり、もうそろそろこの関係も終わりにしなきゃいけません。彼はおくびにも出しませんが、きっと私の所為で不自由な思いをしてきたはずです。
親の冗談半分とはいえ私たちは許嫁ですから、彼が他の女性と付き合おうというとき少なからず私の存在がネックなっていたはずでした。聡さんはとても真面目な方ですから。
彼が私の知らない誰かと恋人になったと考えるだけで胸が痛みますが、それがきっと現実なのです。
そうとわかっていても、今までこの関係をなかったことにしなかったのは私のわがままです。元々が口約束なので、私か聡さんが「なかったことにしよう」と一言でもいえば、なくなってしまう関係なのですから。ここまでこの関係が続いていたのが、むしろ奇跡と言えましょう。
今まで聡さんが婚約解消を言ってこなかったのは、きっと優しさからです。彼がどれほど他人の機微に敏感な方かはよくわかりませんが、私の気持ちはきっとダダ漏れです。私を傷つけないようにしてくれていたのだと思います。
私の誕生日まで、実は二週間を切っていました。少し早いですが、聡さんにとっても見切りをつけるのにはいい時期です。
今日は、いい機会だと思うんです。
急に思い立って決意した私は、ぐっと膝の上の拳を握りこみました。
「あの……」
「うん?」
でも、いざ口にしようとするとなかなか踏み込めません。私が口ごもるので聡さんが「なに?」と聞いてきます。
最後までご迷惑はかけられません。ここはすっぱり、きっちりと婚約解消の意を伝えなくては。
私は深く息を吸って吐いてから、改めて口を開きました。
「こ、こっこ、婚約!の、ことなんですが……」
私どもりすぎです。しかも意識しすぎて婚約という言葉を強調してしまいました。
聡さんは一瞬驚いたような顔をした後、すぐに表情を緩めました。
「急にどうしたの?」
いまさらなんでその話題を出すのか、聡さんの笑顔はそんな風に言っているように見えました。
私がこれから言うことに対して、聡さんはどんな反応を返すでしょうか。いつも通り笑うのでしょうか。それはそれで胸にくるものがありますが、それも仕方ないことだと受け入れましょう。
私はあらためて意を決しました。
「その、婚約なんですが、その、何と言いますか……」
私のシミュレーションに反し、まったくスマートじゃない言葉がぽろぽろ口から零れます。もっと気を張れ、私!
もごもごしている私を、聡さんは待っていてくれています。
そしてついに私は、その言葉を言いました。
「なかったことに、できないでしょうか……」
瞬間、スッと空気が冷えたのが鈍い私にもわかりました。気が付けば下げていた視線を聡さんに戻すと、彼は笑っています。
でも、目が笑ってないです。
「……ふぅん?」
それだけ言って、彼は黙ってしまいました。どういう意味なのか、若輩者の私には見当もつきません。
「好きな男でもできた?」
「え?」
聞かれて、そう考えるのが普通なのだと気が付きました。そうですよね、ここまで続いた許嫁の関係を解消する理由はそんなところですよね。
私は迷いました。好きな人はいます。目の前の聡さんです。だからここでいない、と言うのは嘘を吐いているような気がしてためらわれました。
それに、もしいないと言ったら婚約解消の理由をきっと聞かれます。言い訳にするような理由を考えてこなかった私は、聡さんの問いに頷くことにしました。
「はい……」
「そっ、かぁ」
吐き出すように聡さんはそういって、ひとつ大きく頷きました。
「わかった、いいよ」
「……はい、ありがとうございます」
了承が得られました。望んでいたことのはずなのに、笑顔で頷く聡さんの顔を直視できません。胸にずしんと石を投げ込まれたみたいな気分です。
これでいいんですよね、これで。
「じゃあ、俺行くね。会計は済ませとくから」
「そんな、悪いですよ」
「年上には甘えておいで」
聡さんは立ち上がって、さっさと会計を済ませて店を出ていきました。カフェの窓越しから傘を差した彼を目で追うと、煙草の火の光が目につきます。
彼は煙草を吸う人だったのだと、そこで初めて知りました。
一人になったカフェの二人席で、私はふうと肩を落とします。
自分が望んだ結果なのに、こうならなければいいとどこかで思っていたみたいです。一人になると、途端に涙が溢れてきました。
人前で泣くのは恥ずかしくて、それをハンカチで拭います。
もう少し落ち着いたら、家に帰りましょう。そこで思う存分泣くのです。それで、すべて終わったことにすることにしました。
その夜は一晩中泣きました。飽き飽きするほど泣いて、気分は爽快です。あら小鳥さんおはようウフフと微笑むことができるくらいには回復しました。―――そのテンション自体がおかしいことに私は気づいてません。
今日は大学の講義があります。午後からなので午前中はのんびりと目の腫れを冷やしていましたが、その時間いっぱいを使ってもあまり劇的な効果は得られませんでした。
仕方なく化粧と帽子で誤魔化して出かけることにしました。
講義を受けてさぁ帰ろうかと思った時、友人が声を掛けてきました。何やら必死な様子です。
「え?コンパ?」
「そう!明後日なんだけど、急に一人これなくなっちゃったの!おごるからさ、来れないかな?」
コンパですか。合コンっていうやつですよね。今まで聡さんに操を立てて極力ほかの男性との接触を断っていましたが、今となってはそれも無意味な行為です。おかげですっかり男性に対する免疫がない私が出来あがりました。
リハビリがてら参加するのもいいかもしれません。それにおごってくれるというのなら、こんないい話はないでしょう。
「行ってもいいかな」
「ホント!?ありがとう~助かる!」
友人は合コンの詳細が書かれたメールを転送してくれました。このあたりではお洒落だと評判の飲み屋でやるみたいです。お洒落ですが、学生なので安い店ですけどね。
女の子はみんな私も知っているメンバーでしたが、男の子はよく知らない方たちです。
本当は私は未成年なのでお酒を飲んではいけないのですが、大学に入るとそういったルールを破ってもいいというぼんやりとした雰囲気があります。でも、私はまだお酒を飲んだことはありませんでした。
そのあたりが少し不安ですが、居酒屋の料理はどれもおいしいので楽しみでもあります。―――私は結構食い意地が張っているのです。
「じゃあよろしくね!」
「うん、ありがとう」
元気よく去っていく友人を見送って、私は明後日のことを考えました。あわよくば恋人ができないかな、なんて高望みはしません。男の人と話すのが少し苦手なので、それが克服できればいいなと、私は軽く考えることにしました。
そして二日たち、私は飲み屋にいます。待ち合わせで集まったのは全部で六人です。男三人女三人。規模が小さくて助かりました。あんまり多いと緊張してしまうので。
飲み屋は半個室の形をしていました。個室よりは窮屈な感じがしませんし、でも普通の飲み屋と比べるとプライベートが守られているようで安心感があります。いい雰囲気の店ですし、これからも機会があれば使いたいですね。
それぞれ自己紹介を済ませて、食事をしながら自由に話すことになりました。お酒を飲むのに抵抗があった私は、最初に頼んだウーロン茶で口を潤します。
「ハナちゃん、飲まないの?」
先ほど川崎と名乗った男の人がそう聞いてきます。いきなり下の名前にちゃん付けされて少し驚きましたが、ここはそういう場なのでそれが普通なのかもしれません。
「私まだ未成年なので」
「大丈夫だよ、言ってももうすぐ二十歳でしょ?」
それはそうなのですが、あまり気は進みません。頭が固いと言われれば何も言えませんが……
「でも」
「大丈夫だって。ほら、俺の飲む?」
川崎さんが差し出したのは生ビールでした。思わず受け取ったそれは、私にとって未知の飲み物です。勧められるままに一口飲みますが、あんまりに苦くて思わず顔をゆがめました。
私は苦いのが苦手なんですよ。
「にがいですね」
「そういうものだからね」
川崎さんは眼鏡の奥の目を細めておかしそうに笑います。よく見ればいい人そうな好青年です。一つ年上の方だと聞きましたが、確かに少し余裕を感じる雰囲気があります。
でも、彼よりずっと年上の方に恋してきた私としては、少し物足りなくも感じます。比べてはいけないのでしょうけど。
「やっぱりウーロン茶にします」
「そう?」
川崎さんはそれ以上勧めるようなことはしませんでした。それだけでいい人だなぁと思う私は、もしかして単純でしょうか?
そのあとも川崎さんと他愛ない話で盛り上がりました。お酒は飲んでいませんが、場の雰囲気に酔ったのかいつもよりも口が多く回っている気がします。
合コンってどんなものかと思いましたが、想像していたよりも楽しいです。
そろそろお開きにしようという時間になって、私たちは店先に出てきました。夜気が火照った頬にあたって気持ちいいです。
会計を済ませている人たちを待ってしばらくそこにいたら、川崎さんが携帯電話を取り出しました。
「ねぇ、連絡先教えてもらってもいい?」
その提案に一瞬きょとんとしてしまいましたが、慌てて私も携帯電話を取り出しました。合コンなのですから、こういう展開があって当たり前ですね。
「はい、良いで―――」
「あ!」
そのとき、私の了承の科白に割り込むような大きな声がして、ついそちらを振り向くと知らない男の人がそこに立っていました。なぜか私を見て驚いた顔をしています。
「ハナちゃん!」
知らない男の人は、私の名前を呼びながらこちらに駆け寄ってきます。知らないと思っていたのですが、なぜでしょう。
それは彼が近づいてきてわかりました。よく見れば見覚えがあります。確か聡さんの大学の後輩の人です。名前は、小早川さんでしたっけ?長身のイケメンですが、残念ながら私は聡さん一直線だったのであまり覚えていませんでした。
「何してるの、こんなトコで」
彼は妙に焦っているようすで聞いてきますが、私はそれに首を傾げました。
こんなトコ、ですか。ここはいわゆる飲み屋街ですが、私が居ては何か問題があるのでしょうか。
「送るから、行こう」
「え?」
「連れの子たちごめんね」
小早川さんに腕を掴まれて、引っ張られるままに私は足を進めます。他の子たちに「ごめんなさい」と振り返りながら謝って、小早川さんについていきます。
いったいどういうつもりなんでしょうか。飲み屋街を抜けてタクシーが並ぶ駅前のロータリーに出た辺りで、小早川さんはようやく手を放してくれました。
「あんなところで男といて……。聡先輩にはなんて言ってるの?」
「え?」
「報告とか意地悪いことはしないけど、気をつけてね」
言っている意味が分からなくて首を傾げていましたが、やっと合点がいきます。
どうやら、聡さんは私との関係を小早川さんに話していたようです。それで心配してくれたのでしょう。
それがありがたく感じる半面、申し訳なくもありました。だって、もうそのことを心配する必要はないのですから。
「ご心配ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。聡さんとは、その、もう関係ないので」
「え?」
「最近許嫁ではなくなったので……」
それを言うと、小早川さんはこれでもかと目を大きく見開きました。元々大きな目が倍くらいに見えます。
「は!?マジで!!?」
「は、はぁ」
大きな声にびっくりしたら「ゴメン」と謝られました。それはいいのですが、小早川さんは何でそんなに驚いているんでしょうか。
「それ、どういう経緯で?差支えなければ教えてほしいんだけど」
差支えですか。あるようなないような……。
でも、聞いてくる小早川さんがあんまりに真剣な顔つきをしているので、つい私は口を滑らせました。
「ええと、先日私から許嫁の話はなかったことにしようと」
「それ、聡先輩は良いって言ったの?」
「はい」
「本当に!?」
また大きな声です。いい加減やめてほしいです。
「な、なんでなかったことにしようと思ったの?」
気づけば質問攻めされています。これは答えるべきなのでしょうか。
「……言いたくないです」
知り合いといえどほぼ初対面の彼に、これ以上深いことは言いたくありません。私が視線を落とすと、小早川さんの革靴が目に入りました。きれいに磨かれ手入れされた革靴から、良い仕事についていることが想像できます。
「あー、そうだよね、そりゃそうだよね……」
小早川さんはきれいに整えられた髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜて苦悩しています。その髪の毛のままこちらを見下ろして、深くため息を吐かれました。
「わかった。じゃあハナちゃん、連絡先教えて」
「え?」
「下心とかそういうのじゃなくて、念のためにね」
何が念のためなのでしょう。でも携帯電話取り出されたので、つい私も携帯を出しました。あっという間の早業で連絡先を交換して、小早川さんは私に五千円札を渡してタクシーに無理やり乗せます。
私は手に握らされたお札を突き返すように小早川さんに差し出しました。
「いや、お金は良いです!」
「いいから、ね。俺ちょっと行かなきゃいけないとこできたから、一人で気をつけて」
「でも……」
「ハナちゃん」
名前を言われてつい押し黙りました。
「聡先輩のこと、嫌い?」
聞かれたことにびっくりして、慌てて首を振ります。
「そんなことないです!」
「そっか、ありがとう」
私の答えのどこに満足したのか、小早川さんはきれいな笑顔を見せてドアを閉めました。スッとタクシーが発車したので小早川さんを目で追うと、彼はこちらに背中を向けて街の中に消えていきました。
彼はどういうつもりだったのでしょうか。首を傾げますが、私の中にその答えはありません。
いつかお金は返しましょう。そう考えて、私は車のソファに身を沈めました。
私の誕生日まで、一週間と日が迫っていました。友人が祝ってくれると言ってくれましたが、今年はそれを断りました。
これが去年ならば大騒ぎしてもいい気分なのですが、今年は一人でしんみりと歳を重ねたい気分なのです。
家に帰りアパートの郵便受けを開くと、広告のチラシに交じって小奇麗な封筒が入っていました。
これはなんでしょう?以前実家に親戚の結婚式の招待状が届いていましたが、これはそれに少し似ている気がします。
部屋に持ち帰ってそれを開くと、一枚の紙が入っていました。そこには、私の誕生日の日付に『レストランMoon』というところに、七時にくるようにと書かれています。どうやらこれも招待状のようです。でも差出人の名前がありません。
「れすとらんむーん?」
聞いたことがありません。少なくともこの辺りや実家の方ではそんな名前の店は見かけたことがありませんでした。
首を傾げていたら、もう一枚紙が入っていることに気付きました。何かしらと捲ると、達筆な字で“宝石箱を開けてみて”と書いてあります。一枚目はプリントでしたが、こちらは手書きです。
宝石箱?何のことでしょう。
私の持ち物でそれに当たるのは、この間手元にやって来たばかりの例の箱です。宝石箱と呼ぶには少し大層な気がしますが、その紙に従うように私はその箱のふたを開けました。
その箱は二段になっているのですが、私が主に使っているのは一段目です。もともと装飾品にあまり興味がなくて、数を持っていないので一段目だけで何とかなっていたからでした。
なので、一段目を開いても私が見知った内容が入っているだけです。特に驚くところはありません。
念のため二層目を見るために一段目を引き抜くと、そこにはまた小さな箱が入っていました。まるでマトリョーシカです。
何でしょうか。この箱に見覚えはありません。
恐る恐る手にとって開いて見ると、中には真珠をあしらった髪飾りが入っています。バレッタですね。
私には少し大人っぽいデザインな気もしますが、白いリボンと真珠の組み合わせのそれはとてもかわいい物でした。
何でこんなものが入っているのでしょう。
よく見たら、バレッタが入っていた箱にも紙が入っています。そこにはまたメッセージが。
“これを着けてきてほしいな”
名前も書いていませんでしたが、先ほどの達筆な字と筆跡が似ています。同じ人が書いたのでしょう。
誰がこれをこの箱に入れて、このメッセージを書いたのか。私は予想した人を思い浮かべて首を振りました。
だって、聡さんはこんな凝ったことをする人ではなかったはずです。むしろこういったことは苦手な人に思えます。
でも、そうは言ってもこんなことが出来るのは彼しか考えられません。まさか母や父が娘にこんなことをするとは思えませんし。
半信半疑のまま、私は悩みました。
これは、行くべきなのでしょうか。ものすごくポジティブに捉えるなら、聡さんが二十歳の誕生日を凝った演出で祝ってくれるのかもしれません。毎年何かしらの形で祝ってもらっていましたから。
でも、記念すべき二十歳の誕生日と言っても、ここまで凝った演出が必要でしょうか。謎です。
でもでも、もしこの日にこの場所に聡さんがいるとしたら、そして私が行かなかったとしたら聡さんを待ち惚けさせてしまいます。それは可哀そうです。
悩みに悩んで、私は行くことに決めました。もし聡さんが来なくても、それはそれでいいでしょう。ちょっとお金を出したら美味しい物が食べられる予感もしますし―――やっぱり私は食い意地が張っています。
誕生日当日の前に一応『レストランMoon』に下見に行ったところ、カジュアルレストランと言う感じでした。ですが、少し綺麗目な格好で行った方がいい感じの雰囲気を感じたので、一応綺麗目のワンピースで行くことにしました。
念のためちゃんとバレッタを髪の毛に着けました。どうでもいいですけど、頭の後ろに着けるのって難しいですよね。
ヒールが高い靴は苦手なのでローヒールの白い靴を選びました。もともと背が低い方ではないのでこれで十分なのです。
鏡に映した自分は、背伸びのおしゃれしているって印象です。普段はシンプルな格好が多いので、珍しい感じがします。
バスに乗ってレストランに向かいました。いざレストランを前にすると、ちょっと尻込みしてしまいますね。
こういった場に一人で入るのはちょっと緊張します。と言うか一人で入った経験がないのでなかなか一歩が踏み出せません。
店先で突っ立っていたら、レストランの扉がドアベルを鳴らしながら開きました。あちらから開くなんて予想外でびっくりしてしまいます。
「いらっしゃいませ、お嬢さん」
どこかキザな台詞で微笑んだのは、シェフの格好をした男の人でした。少し長めの黒髪を後ろで括っています。
この人も見たことあります。小早川さんと同じく、聡さんが大学時代に家に連れて来ていた人の一人です。
「井原さん?」
「お。覚えてくれてた?久しぶり~」
彼はにっこり笑って見せに迎え入れてくれました。店の中は決して広くありませんが、落ち着いていていい雰囲気です。
でも、スタッフらしき人が井原さん以外に見当たりません。この広さでもお一人で回すのは難しいものがあると思うのですけれど。
「ここ、井原さんのお店ですか?」
「まぁね。お嬢さんがお客様第一号だよ」
「そうなんですか?」
そう言えば、以前下見に来た時は開店していませんでした。定休日かと思っていましたが、オープンしていなかったんですね。
今日がオープン一日目だとしたら、彼以外のスタッフがいないのも仕方ないのでしょうか。客足の予測が出来ない以上、スタッフは雇いづらいものがあるのかもしれません。
「さぁ、こちらへどうぞ」
井原さんが案内してくれたのは、店の奥の窓際の席でした。私の主観ですが、店の中でもいい席だと思います。
彼は椅子を引いて私を座らせました。丁寧ですね。こんな扱いは気恥ずかしいです。
「お連れさんが来るまでちょっと待っててね」
「はい」
店のキッチンの方へ去る井原さんを見送って、私は窓の外に視線をやりました。今日はいい天気だったのですが、もう夜なので街灯に照らされた道路が見えます。
本当に聡さんはやってくるのでしょうか。そもそも、私をここに呼んだのは本当に聡さんなのでしょうか。もしぜんぜん知らない人だったらどうしようと、今更不安になります。
腕時計に目を落とすと、七時までにはあと十五分ほどあります。ちょっと早く来すぎた気もしますが、逸る気持ちを抑えられなかったのです。
「お水どうぞ?」
井原さんが不意にやってきて、グラスに水を注いでくれました。「ありがとうございます」とお礼を言って、一口飲みました。冷たくておいしい水です。
「お連れさん遅いね」
「でも、まだ時間になってませんし」
「女性より遅く来るって時点で、遅いのよ」
井原さんは大真面目にそう言います。その理論は合っているのでしょうか。それとも、個人の考え方でしょうか。
他にお客さんが来る気配がないからか、井原さんは私の話し相手になってくれました。そうして話しているうちに気付けばあっという間に十分ほど過ぎていました。
後五分です。本当に来るのか、いよいよ不安になってきました。
不安を覚えて、すぐに考え直します。来なくてもいいんです。美味しい料理を食べて帰りましょう。
「じゃあそろそろ戻るね」
「はい、ありがとうございます」
井原さんが再度キッチンに戻るのを見送って、私はまた窓を見ました。
そしたら、店の前にタクシーが停まりました。どきりとしてタクシーを見つめていると、男の人が降りてきます。暗がりでシルエットしか分かりませんでしたが。
でも、私は心が急に冷えてくのを感じました。予想以上に私は期待していたみたいですね。
その人は店に入ってくると、一直線に私のところに来ました。たまたまここに来たお客さんだといいなと思ったのですけど、やっぱり私の元に来たようです。
「ハナちゃん、遅れてごめんね」
そう笑ったのは、小早川さんでした。
「あの、これってどういうことでしょう?」
聞くと、小早川さんは気さくな笑顔で言いました。
「気にしなくていいよ、俺は繋ぎだから」
「繋ぎ?」
よくわからない答えに首を傾げますが、小早川さんは明確な答えをくれません。
「ごめんね、お腹すいたでしょ。食べよ食べよ。井原~」
小早川さんが奥の方に声を掛けると、「うーい」と低い声で返事をしながら井原さんが顔を出しました。
「パンはご自由にどうぞ。ワインはどうする?」
「そっか、ハナちゃん二十歳になったんだね。おめでとう!」
「あ、ありがとうございます」
二人に拍手されて、なぜか身を縮めます。ほぼほぼ知らない方々に誕生日を祝われると言うのは、妙な感覚です。
「お酒飲んだことある?」
井原さんの問いに首を振ります。お二人には「真面目だねぇ」と揶揄されましたが、皆さん法律は守りましょうよ。
「じゃあ、ロゼの方が口当たり軽くていいかもね。でもワインはワインだから、飲み過ぎ注意!」
小早川さんが人差し指を立ててそう注意喚起してきます。経験者なのでしょうか。肝に銘じましょう。
「じゃあフランス産のピア・ドールにしようか。桃みたいな香りで飲みやすいよ」
井原さんがメニュー表の真ん中あたりにあるワインを指差します。お値段もお手頃ですね。
「食事に合う?」
「なかなかいい感じ」
「へぇ~」
小早川さんと井原さんの会話を聞いていると、お互い気が置けない関係だと言うのがよくわかります。そう言えば、私が小学校高学年くらいの頃は、大学生の聡さんがよくこの人たちを連れてやってきていましたが、とても楽しそうだったことを覚えています。
たしか小早川さんと井原さんのほかにも何人かいた気がしますが、何と言う名前だったでしょうか。一人は海田さんという方で私に優しかったので覚えているのですが、もう一人はあんまり会話をした記憶がありません。
そうしているあいだに、ロゼワインがやってきました。薄ピンクの綺麗な飲みものです。こんな色が自然につくれるんですね。
グラスに注がれたその色に見惚れていると、小早川さんにクスリと笑われてしまいました。少し恥ずかしいです。
「じゃあ、乾杯しよっか」
「はい」
「うん、乾杯~」
チンと互いのグラスを合わせてお酒を口にします。少し甘めのワインです。井原さんの言う通り、桃の香りが鼻に抜けていきました。
「おいしい……」
「それはよかった」
一度キッチンに引っ込んでいた井原さんが、また隣に立っていました。その手にはお皿があります。
「前菜です。ご意見ご感想大募集中~」
「俺の舌はあんまり参考にならんよ」
「じゃあお嬢さん、お願いしますよ」
「は、はぁ」
にこりと笑われても、私だってあんまり自信ないです。
でも、その前菜も、その後出てきたメインもデザートも全部ものすごくおいしかったです。聡さんの料理に負けないくらい美味しいです。
大満足で食後のコーヒーを飲んでいたら、小早川さんが不意に真面目な顔になりました。
「おっせぇなぁ」
「なにがですか?」
「いやこっちの話だよ」
明らかにごまかしの笑顔です。やっぱり怪しい。
ここに来るのも繋ぎ、とか言っていましたが、それに対して答えをもらっていませんし。
「あの、聞いてもいいですか?」
「ん?何?」
「ここに私を呼んだのって、小早川さんなんですか?」
「違うよ」
すぐさま答えてくれましたが、だったら何で小早川さんがやってきたのでしょう。
また疑問を口にしようとしたら、ガランガランとドアベルが凄い大きな音を出しました。驚いて入口を見ると、男性が三人もみくちゃになって入ってきています。
「やっと着いた。先輩!いい加減覚悟決めてよ!」
「小早川先輩ごめんねぇ、遅くなって」
「ちょ、待って、待って待って!」
顔を見て思い出しました。聡さんを先輩と呼んだのは、確か城戸さんです。顔を見て思い出しました。海田さんもいます。そして、なぜか地面に倒れた姿勢で海田さんの後ろに隠れようとしているのが、聡さんです。
この面白い状況は何なのでしょうか。
「やっとかよ~!遅ぇんだよお前ら!」
小早川さんが立ち上がってもみくちゃ三人組に近寄りました。そして立ち上がろうとしない聡さんを城戸さん海田さんと一緒に立ち上がらせて、ドンッと背中を押します。
押された勢いで聡さんはこちらにやってきました。私と視線が合って、彼は何とも言えない顔をします。それは私に会ったのが気まずいのか、それとも“なんでここにいるんだよ”って言う意味なのか。よくわかりません。
テーブルの近くに立ったまま黙ってどうにも動こうとしない聡さんを、井原さんがやってきて無理やり座らせました。ガタッゴトッと荒々しい音がしたので、きっと聡さんか井原さんのどちらかがどこかにぶつけましたね。
「痛い……」
どうやら聡さんのようでした。
「じゃあ、後はお二人で」
井原さんの一言で、四人は店の奥に消えて行きました。本当に店に二人きりになって、気まずい沈黙が降り注ぎます。
どうしましょう。どうするべきなんでしょう。
チラリと聡さんを盗み見ると、下唇を噛んでテーブルのグラスを見つめていました。彼から喋り出す気配は感じられません。
だからと言って私から話しだすのもためらわれて、重い沈黙がしばらく続きました。
「……あのぅ」
先に耐えきれなくなったのは私でした。下を向いたままの聡さんに話し掛けると、彼は少し顔をあげます。なんだか歳不相応なその所作が、可愛らしくて笑いそうになってしまいました。
でも笑うわけにもいかず、私は口を引き結んで続けます。
「お久しぶり――――でもないですね」
「……そうだね」
「あの時は失礼しました。突然……」
「うん。……ハナ、ちゃん、さ」
「はい」
「好きな人って、誰なの?」
唐突な質問に、私は息を飲みました。そんな迂闊に言えません。だって、目の前のあなただなんて、そんな言えません。
ただの子どもの勘違いなんじゃないのかと言われたりしたら、そんな風に考えられないと断られたりしたら、私はもう立ち直れないような気がするのです。
たぶん、私は聡さんのことを物心ついたときから好きですから、私の人生の半分以上を聡さんが占めています。だから、白黒はっきり付けるよりも自分で見切りをつけて、私は私の心を守ろうとしているんです。
他の人が聞いたら情けないと言われそうですが、私はそう言う人間なんですよ。どうしようもないんです。
だから、聡さんの問いに応えることはできません。
「…………」
「言えない?俺が知ってる奴ってこと?」
「いえ、……いや、そうですね」
知っているって言ったら知っているでしょう。貴方本人なんですから。
「じゃあ、年上?年下?」
「年上の方、です……」
「ふぅん……」
聡さんの視線がさらに下がりました。何を考えておられるのでしょうか。
おもむろに、聡さんがズボンのポケットを探りました。なにかしら、と顔を上げるとポンとテーブルに何かを取り出します。
小さな紙箱でした。ポケットに入れていた所為か角が潰れてくしゃくしゃになっています。
聡さんは箱のリボンを乱暴な所作で解くと、中から出てきた箱を更にパカッと開けました。
「はい、ハッピーバースデー」
投げやりに言われて、私に差し出されたのは指輪でした。トップにダイヤのような宝石が付いています。
というか、ダイヤですよね、これ。
「これ、高価なものなんじゃ……?」
「いいよ、二十歳は節目の年だしね」
私の目を見ようとしない聡さんは、また投げやりにそう言いました。唇を突き出して不機嫌そうです。
でも、いくら二十歳が節目の年と言っても、こんな高価そうなダイヤの指輪は受け取れません。
「駄目ですよ、こんな高価なもの……。私はまだ学生ですし」
「関係ないでしょ」
「でも、聡さん。こういうものはもっと大切な方に渡すべきだと……」
「―――だから、君に渡してるんだよ」
ふと、聡さんが視線を上げました。いつものぼんやりした雰囲気ではなく、力強い視線を受けて身体が竦みます。
「二十歳になったら、プロポーズする」
「え?」
「そう決めて、ずっと手ぇ出さなかった」
―――何の話でしょう。胸がドキドキしているのが分かります。でも、これは、私の都合のいい様に受け取ってもいいのでしょうか。
胸の鼓動がうるさくて、静かなこの場じゃ聡さんまで聞こえてしまいそうです。
「でも、好きな人がいるなら仕方ないよね。だから、これは餞別。捨ててもいいから、とりあえず受け取ってよ」
「……え?」
話が良くない方向に進んでいるのが分かりました。自業自得とはまさにこのこと。私がちゃんと言わないからこうなるのです。
ガタリと、聡さんが立ち上がりました。
「じゃあね、ハナちゃん」
その“じゃあね”は、もう二度と会わないと宣告されているような響きでした。
駄目です。
駄目です!
「あの!待ってください!」
私に背中を向けて歩き出した聡さんを、慌てて引きとめます。つい勢いよく立ちあがってしまったので椅子が後ろに倒れてしまいましたが、今はそんなこと気にしていられません。
「聡さん、聞いてもらえませんか。私の好きな人のこと」
「……いやだよ」
「聞いてください、お願いします」
私が頼みこむと、聡さんは立ち止まってこちらに身体を向けてくれました。
私は、意を決しなければなりませんでした。こんなに勇気がいるなんて。あのとき、婚約の話をなかったことにしないかと言った時の、数倍は緊張しています。
身体が震えているのを誤魔化すように、私は両手を祈るように握りこみました。
「わ、私の好きな人は、料理がうまいんです」
「……へぇ」
「それ、で、私に優しくて、いつも笑顔でいてくれます」
「…………」
「む、昔から、ずっとそうでした。一緒に旅行に、連れて行ってくれたこともありました」
それは私が中学生の時の話です。聡さん家の家族旅行に、私も連れて行ってくれたのです。私の、一番の思い出なのです。
「十個も歳が離れているのに、ずっと私のそばにいてくれて……」
そこまで言って、涙が出てきてしまいました。極度の緊張の所為でしょうか。
伝えなくちゃいけない言葉が、嗚咽に混じって消えて行きます。私は情けなくて、こんな涙消えろとばかりに目を擦りました。
「それ……っ、でっ」
喉になにかが詰まっているみたいに言葉がうまく出てきません。
言わなきゃ、言わなきゃ。
「ご、ごめんなさ、聡さん、ごめんなさい~」
わっと私はついに泣き出しました。
私は何がなんでも、謝らなくてはならなかったんです。だって、私はきっと彼を傷つけたのですから。謝ってから、自分の気持ちを伝えるのはそれからだって考えたんです。
でも、謝ったら泣けてきてしまって、私は二の句が繋げません。馬鹿ですね、本当に。
だって、聡さんはこれじゃあ傷ついたままなんですよ。
「……それが、俺のプロポーズに対する答えってこと?」
案の定、聡さんは暗い顔です。私は必死に首を振ります。
違うんです。私は聡さんを傷つけたことを謝りたかったんです。
だから、だから―――。
「うっぅぅ~……」
馬鹿な私は泣くのに必死で、聡さんの問いに答えられないでいました。しゃくりあげるので肺がすごく痛いです。
過呼吸っぽいなと思いました。それが聡さんに伝わったのでしょうか。暗い顔から一転気遣わしげな表情になって、私に近づいてきます。
「ハナちゃん、一回落ち着こうか」
「はっい~」
間抜けな返事はしゃっくりのせいです。こういうとき、恋愛小説のヒロインなら感動的に決めるんでしょうけど、私はどうもうまくいきませんね。
聡さんは椅子を立ててから私を座らせて、背中を擦ってくれました。優しさがありがたくて身にしみます。そうするともっと泣けてきてしまって、私はなかなか喋れませんでした。
ようやく何とか息が整って、聡さんを見上げます。彼は困った顔をしていました。
当然ですよね、こんなに大泣きされて困らない人はいません。それももう子供じゃないのですから。
私はどうにも申し訳なくなりながらも、一番伝えたい言葉を伝えました。
「大好きなんです」
「……その人が?」
「その人じゃなくて…っ、いやその人なんですけど……」
「わかってるよ。大丈夫」
「だからっ、違うんです!私は、聡さんが!大好きなんです!!」
ようやく言えました!
予想外に大声を出してしまって、今度は息が切れました。はぁはぁと肩で息をしていたら、キョトンとした表情の聡さんと目が合いました。
「え?でも……、その人のこと好きになったから、俺との婚約なかったことにって……」
「そ、それは嘘でして。嘘でもないんですけど、その好きな人は聡さん、です……」
「―――じゃあ、なんで?」
半信半疑顔の聡さんに、本当の理由を言うのはちょっと嫌でした。だって、とっても情けない理由だから。
「聡さんには、相手にされないと思ってたから……」
「どうして?」
「だって、私は子供だし」
「俺だって、まだまだ子供だよ」
「そんなことないです。聡さんは、大人です」
反論したけど、聡さんは笑いました。私の大好きな笑顔でした。
「俺、普段から親とかねーちゃんとか、いろんな人に怒られてばっかで、子供のときから全然変わってないって言われることが多いけど」
「でも……」
「でもじゃなくて、さ。つまり、ハナちゃんは勝手に自分でそう思って、勝手に俺の思いを踏みにじった訳だ」
「う……」
そう言ういい方をされると、私がものすごくひどい人間に思えてきます。気分がまっさかさまに急降下していったような気がしました。
「なるほどねぇ」
聡さんはニコニコしていました。さっきとは打って変わった表情です。
「じゃあ、ハナちゃん」
「は、はい……」
何を言われるのでしょう。何を言われても文句は言えないので、私は下を向いて身構えました。
「顔をあげて」
「はい!」
言われるがままに顔を上げると、目の前にさっきのダイヤの指輪があります。聡さんが、手に持ってこちらに差し出しているのです。
よく見れば、聡さんは床に跪いていました。
「ハナさん、僕と結婚してくれませんか?」
「…………うっ」
私は最後まで格好がつかなくて、そう言われた瞬間にまた泣き出してしまいました。聡さんは私を宥めるのに必死でしたが、その顔は笑顔です。
ぐずぐずになりながらも泣きやんで、私は大きく頷きました。
「はいぃ!喜んで!」
居酒屋みたいだね、と突っ込んだ聡さんは空気を読んでいないと思います。
それから私が白いドレスを着てヴァージンロードを歩くのは、大学卒業まで待つことになるけれど、それでも私はとても幸せなのでした。
今回のお二人
小向ハナ(19~20) 大学生。健気ちゃん
嶋 聡(30) ハナちゃん大好き三十路。ホテルのシェフ
いろいろ突っ込みどころが多いですが大目に見ていただいて;
聡さんの友人が多いのは私の趣味です。覚える必要はないので雰囲気を感じてやってください。
それでは、最後まで読んでいただきありがとうございました。