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金魚鉢

作者: ベルカ

「ほんとに?」

「ほんとに」

 とても無邪気な目をして君は言う。

「だから、教えて」

「どこからどこまで?」

「全部」

 僕は、その目に対してそっとため息をついて、重い口を開いた。



 僕と君はその日、葬式に行った。行きの電車に乗り込むと、僕は君の隣に座った。やがて粉雪が降りはじめた。それから僕と君は5つの駅を過ぎて電車を降り、繁華街からは離れた曲がりくねった小路を歩き、葬儀所へ着いた。

 クラスか部活が同じだった者みんなが来ていた。半数ほどが静かに涙を流し、洟を啜っていた。それらの生徒たちは、死んだその人と格別親しい生徒たちとはいえなかった。死んだその人にたいしてというよりも、人が死んだという出来事にたいして泣いているように見えた。

 もちろん僕らは喪服なんて持ってなかったし、高校に制服はなかったから、みんな中学生のころの学生服を着て来ている。君は短い袖のせいで露出する左手首を右手で包むように持ち、顔を伏せていた。前髪が垂れていてよく見えなかったけれど、泣いてはいなかった。かわりにその顔には罪悪感のようなものが浮かんでいるように見えた。

 終わると、僕と君は来たときとまったく同じ道を帰った。式場に入ったときには、曇ってはいたけれどまだ雲の奥に陽の気配があったはずだ。しかし、今はすっかり闇に呑まれている。式場にいた時間はそんなに長くなかったから、昼が何かの拍子に一気に夜に変わったような感じがした。外は寒いというよりも冷たかった。粉雪は雨に変わっていたが、気にするほどではなかった。白い息が煙のようにたなびいては消えた。

 君がズボンのポケットに手を入れるのを見て、僕もポケットに手を入れた。冷たさはたいして変わらなかったけれど、何か小さな物に手が触れて、取り出してみると、本来、制服の袖に付いているはずの小さなボタンだった。僕がそれをまたポケットに戻し玩んでいると、君は言った。

「お腹空いちゃった」

 ネガティブな秘密を打ち明けるときのような控えめな声だった。

 僕はその言葉に違和感を覚えて、思わず「え?」と聞き返してしまった。しかし君が同じ言葉をもう一度言い直す前に「そっか。よかった」と言葉を継いだ。

「ごめんね」

 と君は言った。

「いいよ。いいことだよ」

 と僕は応えた。

 言葉の接ぎ穂がどこかにあるような気がしたが、どれもなにかひとつが欠けているような気がして何も言うことができなかった。

 僕はポケットからボタンを取り出して手のひらに乗せてみた。夜のせいで黒く霞んで見えるが、そもそも昔のような光沢はないだろう。重さはまったく感じなくて、目を離すとそれがまだ手の中にあるのかどうかがわからなくなる。

 君はそれを横目で一瞥し、そして、何も言わなかった。


 大通りに出るまで、僕と君は誰ともすれ違わなかった。車も、通らなかったどころか、音すら聞こえてこなかった。このままこの小路を歩いていけば、どこか、僕も君も誰も知らないところに辿り着くんじゃないだろうか。そう思いはじめたころ、ネオンの光が道の向こうに見えた。

 大通りに出てしまうと、さっきの静けさが嘘のようだった。刻一刻と強弱や明滅や移動を繰り返す落ち着きのない雑多な光とざわめきが僕と君を覆った。それらが僕の頭の中にまで洪水のように強引に潜りこんできて、感情を浚ってゆこうとした。僕は君の真似をして、これまで通ってきた小路を振り返った。何も見えなかった。不思議なことに外灯が一つもなかった。そしてそのことに僕は小路を歩いている間、気づかなかった。道を照らして示してくれるものが何もなかったのだ。僕と君は、ほんとうにとても微妙な按配で、偶然に、ちゃんとしたこの道に辿り着けたんじゃないだろうか。そう思うと、足がすくんだ。

 駅はその大通りから一直線だった。そのまま大通りのどこかで夕食を採ろうと思ったけれど、大通りの喧騒は僕らにはあまりにも似つかわしくなかった。排他的なのが、今の僕の心の中なのか、この賑やかさなのかはわからなかった。それに、もう一度同級生に会うことは絶対に嫌だった。

「ご飯、電車乗った後でもいい?」

「いつでもいいよ」

 駅員はすでに帰ってしまったらしく、この駅よりも寂れた僕の最寄り駅にも駅員はもういないことはわかっていたが、それでも僕と君はどちらからともなく切符を券売機で買った。誰かが僕らの後ろを通ってプラットフォームへ入っていったとき、僕はなぜだか切符を買っているところを見られたのを恥ずかしく思った。

 電車はそれほど待たずにやってきた。乗車口の脇の二人掛けの椅子の、僕は扉側に、君はボックス席側に、並んで座った。

「何か食べたいものある?」

「ない」

「じゃあファミレスでいい?」

「いいよ」

 乗り込むときには温度の変化は感じなかったのに、電車が各駅に停まりドアが開くたびに、強引に肌を触るような寒さを感じた。窓には、街頭や車のライトに消され、電車の振動に歪められる幽霊のような僕と君が貼り付いていた。時折、僕は窓の君を盗み見たけれど、最寄駅に着くまで一度も目は合わなかった。

 駅を出ると、僕と君は畦道を歩いた。時々、車が小波のような音を立てながら通り過ぎる以外には、僕と君の足音しか聞こえない。僕はまたポケットに手を突っ込んだ。

 僕と君は、ここらでは比較的人通りのある通りに面したチェーンのファミリーレストランに入った。繁華街にも同じ店があったが、あちらの方が、窓の隅に陣取るクモ一匹においても、どこか清潔だった。家族連れや部活帰りの学生が多いが、なかには、独りで本を読みながらウインナーを食べる中年の男性や、東南アジア系の顔立ちの一際賑やかなグループもあり、かなり混雑していた。僕と君は、片方がソファになっている隅の席に通された。

「実は、朝からなんにも食べてなかったの」

 君はソファ側の席に着き、目が合うなり言った。まるで今まで息を吸ったまま止めていたかのような速さだった。そして僕は、そのことに気が付いていなかったということを責められているように感じたけれど、その言葉の意味を負うだけのものが僕にはない気がして、責められていると感じたのは錯覚だと思うことにした。

「そうなんだ。僕はおやつまで食べてきちゃったから。それじゃお腹減ったでしょ?」

「うん」

 君はドリアを、僕はオムライスを、そしてドリンクバーを2つ注文した。君はメニューを見もしなかった。僕と君はドリンクバーを取りに行った。

「外寒かったね」

「うん」

 僕と君はまた席に戻った。僕はカルピスで、君はコーラだった。

「ほんと寒かった」

 僕も君も手が熟れた桃みたいに赤くなっていた。僕と君はお互いが自分自身の手と手を擦ったり撫でたりして、寒さの名残りを味わっていた。その間にも、コーラの中では魚の卵のような泡が時折思い出したように浮力に耐えかねてはじけた。

「ほんとはお酒も飲みたいんだけど」

「だめだよ。たぶん年齢確認されるよ」

 君は僕をじっと見て、なにかに思い至ったみたいに微笑した。僕も笑い、自分と君の制服の袖が足りないのを見た。だけど、君はすぐに、まるで強調するためにそれまで笑っていたかのように、真顔になった。

「わたしたちもう中学生じゃないんだね」

 君も僕もまだ制服が似合っていた。そしてまた、君が今しがた言った言葉もまだ似合っていた。僕はポケットからボタンを取り出してテーブルの上に置いた。ボタンは安っぽい音を立てて少し滑った後、円を描いて止まった。

 ドリアとオムライスが同時に運ばれてきた。なにかの演出のように湯気が立っているが、なぜかそれは料理から出ているものには見えなかった。

「そのボタンってなんのためにあるんだろうね」

 君は僕からスプーンを受け取りながら言った。

「なんの役にも立ったことないな。むしろ邪魔だった。」

「だろうね」

「うん。持ってみる?」

「いや、いい。持ったってなんにもわからないよ」

「そうかな」

「そうだよ。でも、無いと変かもね」

「うん。そうかも」

 僕はスプーン一杯のオムライスを頬張った。感想を述べるほどの味ではなかったし、それは作り手の方も承知しているだろう。

「じゃあそのためだ」

 僕は君がそれを口に運ぶところを見ていないような気がしたが、いつの間にか、すでにドリアは残り半分になっていた。

 僕と君は、近しい人が一人死んだことでたぶんそれなりの傷を負ったし、これから負うかもしれない。だけど、僕だって君だって明日以降をそれまでとほとんど変わりなく生きていくと思う。だとしたら、それは、ボタンの存在の有無とどれだけの違いがあるだろう。

「ちょっと、ジュースお代わりしてくるね」

「うん」

 僕は少し逡巡した後、そのボタンをまたポケットに仕舞った。東南アジア系のグループが会計をして店を出ていった。すると、今まで聞こえなかった会話が聞こえてくるようになった。

「死ぬならせめて他人に迷惑かけないでほしいよね。おかげでバイト遅刻しそうになったし。それってどこの駅だったの?」

「何駅か向こうみたいだけど。しかも、それを助けようとして線路に降りた人までいっしょに死んだんだって」

「それはひどい。たまらんな」

「ほんと、たまらんよな」

 君が戻ってきて席に着いた。グラスの中は川の底のような濁った深い緑色をしていた。

「それなに?」

「メロンソーダとコーラとファンタオレンジ混ぜたの」

「っていうか、レールに残った肉片とか片付けるのって駅員さんらしいよ」

「なにそれ。どこ情報?」

「どこだっけ。忘れちゃったけど。」

「あたしぜったい駅員さんになれないわ」

 僕は、駅員の制服を着て嫌そうな顔をしてそれを片付ける誰かを想像した。

「じゃあもうその跡は残ってないんだ」

「そもそも、もう時間経っちゃってるしね。なに、見たいの?」

「わたしもオムライス食べてみようかな」

 そう言って君はオムライスを注文した。君がどこかの席のその話を聞いていたかは僕にはわからなかった。

「怖いもの見たさみたいな。まだニュースでやってたりしないかな?」

「悪趣味だなあ。続報があるわけでもないし、この手のニュースはその日限りでしょ」

 君はその得体の知れないミックスジュースをグラスの半分くらいまで一気に飲んだ。

「おいしい?」

「もともとどれも甘いだけだから大して変わらないよ。すごく甘いだけ」

 君は水で口直しをして短い袖の右手の方で口を吹き、ちょうど運ばれてきたオムライスを食べはじめた。

「ほんとにお腹減ってたんだね」

「うん。それにしても、このオムライス美味しいね」

「だよね」

 僕は言った。

 それから、君はオムライスを食べ終えると、次にスパゲティを注文した。そして、まるで人間ではない別のなにかみたいに、およそ信じがたい量の料理を食べた。早いわけではなく、むしろゆっくりと食べていた。ただ、胃袋がどこかに繋がっているみたいだった。僕ははじめ、ほんとに朝から何も食べてなかったのかと思っていて、その異様さに気付いたのはずいぶん経ってからだった。料理が来るたびに皿は下げられていったから周りの人たちは気付かなかったけれど、僕は君の中にたしかに積み重なっていくものが心配になって何度も声をかけた。君は同じ回数、生返事をした。

 時間が歪んでいるような奇妙な感覚がした。葬式の後で、中学生の頃の制服を着て、まるで自分ではない何かのために食べ続けているような君の姿を見ていて、僕は、なんて遠いところまで来てしまったのだろう、と思った。僕は短い袖をなんとか伸ばして身の丈に合うようにしたいと思った。

 僕が伝票を見て止めるまで君は食べ続けた。僕と君の所持金を足してなんとか払うことができた。


 外はさっきよりもさらに寒くなっていた。僕と君は通りを歩いた。月はやけに大きくて、赤みを帯びて光っていた。どこかで、でたらめに吹いた笛のような鳥の声がして、鳥がその月の前を横切った。僕は思わず「あっ」と言った。君はその声に勘違いした反応をした。

「お金どうしよう」

「え?」

 君は、僕が気付くか気付かないかのとても短い間、止まった。

「帰れない」

「ああ」

 僕は言った。

「家まで行けば金あるから貸すよ」

「うん」

 僕と君は、横断歩道の白線も無い交差点で止まった。車道の青信号が、誰かが去る後ろ姿に向けていつまでも笑顔で手を振るように、光の無い道に合図を送っている。その、もの哀しさと期待が裏切られていることに気付いていない様子に、僕は一時だけやりきれない気持ちになる。歩道の信号が青になるとまた歩きだした。

「わたしね」

 通りの角を曲がり、路地に入った。君は大きく息を吸い、話しはじめた。

「わたしね、昔からね、金魚飼ってるの、家で。言ったことなかったっけ。なかったか。金魚鉢がわたしの部屋にあるんだけどね、バスケットボールくらいのやつ。いつからだろう、たぶん物心ついたときからだと思うけど。今でも飼ってるんだよ、もう今が何代目の子なのかわからないくらい。というか、知らないんだけど。たしか最初は夏祭りでやった金魚すくいの子だったの。そこの祭は小さかったしその金魚すくいの屋台のところはあんまり繁盛してなかったの。だから、一回目すぐに網が破れちゃって、お父さんにもう一回やらせてってねだってたら、お店のおじさんが特別だよって言ってもう一回やらせてくれたの。それでもうまくすくえなくて、わたし半泣きだった。それ見ておじさん笑いながらビニールの袋に金魚を手掴みで入れてくれたの。真っ赤ですこしふっくらしてて、左の鰭がちょっと欠けてるやつ。それが一番最初の子。わたしペット初めてで、それから夏休み終わるまで一日中、ほんとに一日中見てたの。お父さんに言われてたから餌はあげすぎないように気をつけて。その年の夏はまったく暑く感じなかった。もちろん夏休みが終わってからも、わたしはよく金魚を見てた。だけど、夏が終わってトンボが飛びはじめたくらいの時から少しずつ金魚への興味がなくなってっちゃったの。でも、ちゃんと餌はやってたし、金魚鉢の手入れとかはしてたの。ただ、金魚鉢を眺める時間が前よりずっと減ったの。そうしたらね、その鰭の欠けた金魚が一ヶ月くらいで死んじゃったの。すっごい綺麗に健康にしてたのにだよ。普通は五年も十年も生きられるはずなんだよ金魚って。なんでなのかはわからないけど、その頃にはもう金魚が生きてるかどうかだってよくわからないまま餌入れてたから、二、三日気付かなかった。だし、気づいてもわたしはそのままどうしようとも思わなかったの。でもね。それからすぐに、次の日とか、その次の日くらいだったけど、金魚が生き返ってたの。わたしびっくりして、よく見たら鰭の傷まで真似てたけど、違うやつだってわかった。お母さんが入れ替えたんだろうけど、未だに聞いたことない。入れ替える度にわざと金魚に傷を付けてるなんて、わたし怖かったの。それからずっと、わたしは中の金魚が生きていようと死んでいようと餌入れ続けてて、お母さんは金魚が死ぬたびに生きてるものに入れ替えてて、金魚はカブトムシくらいの速さで、ううん、前よりどんどん速く、死んでく。」

 君は一息に喋った後、それをもう一度回収するかのように深呼吸した。僕は言葉を失った。何かを言わなければいけないのはわかっているのだけど言葉はうまく形にならなくて、その言葉未満のものが僕の中に次々と積もっていった。

 家々の灯りがちらほらと個性なく光っている。僕はそれらを見て、今、どれだけの灯りが点いていないのだろうと思った。


 ほどなくして僕の家に着いた。居間で母がテレビを点けたままテーブルに突っ伏して寝ていた。テーブルの上には母と向かい合うようにして僕の分の夕飯が静かに僕を待っている。父は帰りが遅く、徹夜で勉強でもしていない限り、顔を合わせることはない。

「母さん」

 僕は言った。

「ああ、お帰り」

 母は、それまでテレビをちゃんと観ていてやっと今僕に気付いた、という風な顔をしたが、声は言葉になりきらずに犬が唸っているみたいだった。

「ただいま。電車の時刻表ある? あ、あと夕飯は外で食べてきた」

 テレビでは、母が観ていたとしたらすぐさまチャンネルを変えるであろう下品なバラエティをやっていた。

「外で食べるなら連絡ちょうだいよ」

 母は立ち上がり、タンスの一番上の引き出しから時刻表を取り出して僕に渡した。僕はそれを見ながら玄関に向かった。君は下駄箱の上にある猫の置物をいじっていた。それは炬燵の中で丸まっているときのような格好をしていて、すでに頭や尻尾のカーブしているところの塗装が剥げている。

「ねぇ、これって修学旅行のときに買った猫だよね?」

「そうそう」

 僕は言った。

「それでさ、もう終電の時間過ぎちゃったみたいなんだけど。車出そうか?」 その車が自分のものであるかのように僕は言った。君が手を差しだしたので、僕は時刻表を渡した。君はそれに目を落してしばらく、僕が見ていたページと次のページを行ったり来たりしていた。君は黙ったままだったから、何度も左へ右へ捲られるそのページの紙が鳴らす音だけが聞こえていた。

「それか、家泊まる?」

 君の時刻表のページが左へ捲られたときに、僕は言った。君はすこし考える素振りを見せた後、小さく頷いた。


 母は君が家に泊まることを快諾した。

「懐かしいねえ。家の電話使っていいから、お母さんに心配かけないように電話しなさいね」

「はい」

 僕と君は居間に顔を出した後、僕の部屋に行った。まだ開いたままになっていたカーテンを閉めた。窓ガラスに映った僕の部屋は、左右逆に見えるだけでまるで他人の部屋のように見えた。

「風呂、先に入る?」

 日付がもう間もなく明日に替わろうとしていた。

 君は頷いた。


 君が風呂から上がると、入れ替わりに僕が入った。

 風呂から上がり、台所で牛乳を飲んだ。天井の隅に埃をかぶった蜘蛛の巣が見える。冷たすぎて味がしなかった。飲み終わり、冷蔵庫に牛乳を戻していると、居間で家計簿をつけていた母が声をかけてきた。

「電話かけた?」

「どこに」

「あんたじゃないわよ」

「ああ。かけたと思うよ」

 母はそこではじめて顔を上げた。

「思うってなによ。かけたかどうか聞いといで」

「わざわざ確認しなくても、もうそれくらい自分で考えてできるよ」

「あのねえ。年頃の娘が一晩、他所で泊まるのよ。もし連絡がなかったら心配するじゃないの」

 母は物分かりのよくない幼児を諭すように僕に言った。

 僕は暫し黙って母を見たけれど、そこから何も読み取れないとわかると、少し語気を荒らげて言った。

「母さんは、おれとかあいつとかあいつの親を信用してないの?」

 母は笑った。

「なに言ってるのよ、あんたは。そういう問題じゃないわよ。とにかく聞いといてね」

 そう言うとすぐに、また家計簿を書きはじめた。

 部屋に戻ると僕らは寝る準備をした。君は僕のベッドに、僕はフローリングの床に居間から座布団を持ち出して敷き、そこに横になった。君は着替えがなかったから相変わらず手首がのぞく制服を着ていた。だから僕もそれに付き合うつもりでサイズの小さくなった制服を着た。

「電話した?」

 僕は言った。

「したよ」

 君は僕の本棚を感心したようにじっと見ていた。

「寒くない?」

「大丈夫」

 君は言った。

「本棚大きいね」

 僕は電気を消そうと紐にかけていた手を止めた。

「うん。昔より大きい本棚にしたんだよ。入りきらなくなって」

「今でも本読むんだ?」

「うん。前より読むようになった」

「読み過ぎるのもよくないと思うよ」

 僕は電気を消した。

「おやすみ」


 それからは、僕も君も一度体勢を変えたとき以外、時々居間からかすかな物音がするくらいで、部屋の中はしんとしていた。だけど僕は目を見開いて、目の前にある本棚の一番下の段の背表紙をおぼろげにしか見れないけれど、見ていた。音は聞こえないし君を見ることはできなかったけれど、確かに君がまだ起きている気がした。入りはじめたばかりだから布団はまだ霜が降りているみたいに冷たかった。おまけに制服の感触が、居心地が悪くてまるで手違いで棺桶に入れられてしまったようでしばらくは眠れそうになかった。僕も君も物音を立てずにじっとフクロウのように動き出すそのときを待っいるみたいだった。目の前の本棚は僕が本を読み始めた頃からある一番古い本棚だった。遠くで鳥のような鳴き声が聞こえた。居間から短く二度無機質な音が聞こえ、それからはぱったりと物音が止んだ。耳を圧迫するような沈黙の音がする。ようやく布団が温もってきて、身体が心地よい虚脱感に包まれはじめた。僕は本を読んだ順番に下から並べている。僕は一番古い読書の記憶を漁った。君は本を読む僕を見て軽蔑するような目をして「おもしろい?」と聞いてきた。僕は、わからないけどおもしろいよ、と答えた。いつの間にか目を閉じていた。意識が遠ざかる。「ねえ」

 その声は驚くほどはっきりとくっきりとしていた。だからその声がどこから出てきたものかわからなかった。そうして徐々に声の余韻も暗闇に呑まれていって、ほんとうは夢うつつだった自分の空耳かそれとももう夢の中ではないかと思いはじめてさっきの声の輪郭を思い起こそうとしてもうまくいかなかった。その時、もう一度「ねえ」と聞こえた。

「もう寝てるの?」

 僕は何も言わなかった。言ってることはわかるし、一時々々の君が思っていることはわかる。でも、いくつもの人格がない交ぜになっているみたいだった。君が今日ずっと一貫して何を考えているか、なにをしたいのかが全然わからなかった。そしてそれがわからないことには、僕はこの声に応えられないと思った。

「ねえ」

 君は言った。言葉は言ったそばから現実の縁から奈落へ落ちていく。ふと僕は、言葉は耳だけで聞くものではないのだなと思ってしまう。

 しばらくして、また静かになったとき、君が小鳥が囀るような音のくしゃみをした。僕は思わず口を開いて、声を掛けそうになった。鼻を啜る音が聞こえる。続いて、寝返りをうったのか、物が擦れる音とベッドが軋む音がした。

 直後、君の手が僕の小指を掴んだ。

 赤ん坊が握るように優しく、しかしその手は氷のように冷たかった。僕は身を強張らせ、力を抜こうと努めた。君はそうしなければ死んでしまうかのような苦しそうな声でぼそぼそと言った。

「わたし、今日の帰り道の交差点で信号待ちしてたとき、あの人に死んでほしい、って思ったことがあったこと、いきなり思い出したの。いままで完全に忘れてたのに。こういう真っ暗で静かな夜に布団に入って、あの人が死んだ後のことを考えたことがあるの。わたしはお葬式で泣いて、たくさんの人に慰められて、でもそれに返事する余裕もなくて、学校を一週間休むの。それで自殺を考えるようになるの」

 涙が声に混ざりはじめている。

「でも全然違った。全然、全然、全然、全然」

 君はそれを床に嘔吐するように言ってから、呼吸を整えた。言葉を探しているような不自然な沈黙が降りた。僕の体温が君の手を伝って君の中に流れて行くような錯覚がした。だんだんと寒くなってきて、それと同時に眠気まで濃くなっていく。僕の意識も体温と同じように吸い取ってゆくみたいだった。

 僕はなめらかに意識を失っていきながら、すでにこれは夢なんじゃないかと思った。もう一度、目覚めることができるかが気がかりだった。


 目覚めたら、ベッドの上に君がちょこんと座っていた。制服にしわが入ってしまっている。目覚めたばかりという感じではなかった。

「制服だいぶ小さそうだね」

 君は無邪気に笑った。僕もつられて笑ったけど、途中から欠伸に変わり、手を口に添えた。

「本棚大きいね」

「うん。昔より大きい本棚にしたんだよ。入りきらなくなって」

 僕は、僕の中に昨日の夢のような感じがまた少し入りこんでくるのを感じて、ぼーっとしてしまう。今、自分が言った言葉を聞いたことがあった。

「この話、昨日しなかったっけ?」

 今度は君が惚けたようにぼーっとした目で僕を見た。

「どうしたの?」

「昨日のことが思い出せない」

 君は床に視線を落とし、何かを恥じるように口ごもった。

 とっさには意味がわからず僕も戸惑ってしまい、奇妙な間が空いてしまう。長い髪が君の顔を隠してしまっていて、その姿は昨日の葬式を思い出させた。返事が無いからか、君が顔を上げた。僕は初めて君の目をしっかり見た気がした。なんの濁りもなく真っ黒だった。でも君だった。

「ほんとに?」

「ほんとに」

 とても無邪気な目をして君は言う。

「教えて」

「どこから?」

「全部」

 僕は、その目に対してそっとため息をついて、僕は重い口を開いた。

「とりあえず散歩しに行こう。せっかく早く起きたんだし」

 僕は何事もいたずらに喋ることはできない。僕の中から吐かれた後のそれらに僕は責任を持ち切ることができない。


 君を誘ってはみたものの、僕は散歩など一度もしたことがなかった。ましてや真冬の早朝に外に出るなんて普段だったら思いつきもしない。僕も君も、制服の上から僕のジャンパーを羽織って家を出た。母は、気をつけてね、と言って僕と君を見送った。君は昨夜泊めさせてもらった礼を、憶えていないのに、憶えていないからこそ、言って何度も頭を下げていた。僕と君はとりあえず近くの公園に向かった。夜の間にもう一度雪が降ったのかそれとも雨が降ったのか、舗装された道路が朝日をうけて濡れ光っていた。青空がすこし白みを帯びていて寒々しい。

「冬は晴れてる方が寒く感じるのは不思議」

「青が寒色だからじゃない?」

「でも夏だと暑く感じるよ」

「じゃあほんとに寒いから寒く感じてるだけだよ。曇ってるときはほんとに寒くなくて」

「じゃあなんで晴れてる方が寒いの?」

「放射冷却現象」

「放射冷却現象。どこかで聞いたことある」

「名前しか知らないけどね」

「雲の色って暖色なのかな寒色なのかな」

「どっちかっていうと、」

「あ、月」

 君は流れ星でも見つけたように素早く指さした。西に高く聳えた山々のそのさらに上の空に月はあった。脱色されたような透明さをうっすら浮かべた白を纏っていて、夜見るときよりも僕たちにとってちょうどいい距離にあるように見えた。

「昔は、今浮かんでる月と、それが欠けてまた満ちたときの月はまったく違う月だと思ってた」

「月がいくつもあって、新月のときに交代するの?」

「そう」

「太陽も?」

「え?」

「さっき言ってた月みたいに太陽も、東から昇って西に沈んで、次の日には昨日とは違う太陽がまた東から昇る、って考えてたのかなって」

「ああ、そういうことか。それは考えもしなかった。なぜだかわからないけど」

「でも月がいくつもあるなら太陽だっていくつもあっていいってことだよね」

「もしかしたらほんとにたくさんあるかもよ」

「月も太陽も一つだよ」

「見たことある?」

「あるよ」

「教科書で?」

「テレビで」

「それ、見たっていわないよ」

「でも、肉眼で見ることと教科書で見ることってどう違うんだろう。どうして肉眼で見ることの方が確かだと思うの?」

「うーん、それは、自分を信用するか他人を信用するかってことじゃない? まあ結局、みんな自分が見たことを正しいと思うんだよ」

「自分が見たことを間違ってると思いながらしゃべる人はいないだろうね」

「まあね」

 公園に着く頃には、寝ぼけていた頭は覚醒していた。原色を基調とした色合いのすべり台やぶらんこなどの遊具がある。僕たちが遊んでいた頃の遊具は一昨年、取り壊された。それに代わって今の遊具がある。新しい遊具は角がなくて軟らかい。僕と君はその乗り場がゴムのようなもので出来ているぶらんこにそれぞれ乗った。座ったまま軽く漕ぎ出してみると、金属が擦れる音がした。その音は昔と変わらなかった。ふと視線を感じて見てみると君はこちらを向いていた。しかし僕を通り越した先に焦点はあった。僕もその視線の先を見てみると、作りかけの雪だるまが忘れ去られたようにぽつんと座っていた。

「雪だるま」

「うん」

 雪だるまは、それが雪だるまであることがぎりぎりわかるような状態だった。赤いバケツの帽子は下半分が顔の中に埋められていて持ち手の部分が側頭部から覗いていた。枯れ枝の手は細々としていて左手は途中で人為的に折られていて不自然に曲がっていた。ただでさえ上の雪玉の方が若干大きいのに、日の光に当てられて南側が齧られたように溶けているせいでなおさらバランスが悪かった。

「どこまで溶けたら雪だるまじゃなくなるんだろう」

 そのとき、上の雪玉が滑るようにして落ちた。巻き込まれた折れた方の枝も落ちて、雪玉に押し潰された。

 とっさに僕は君の左手首をつかんだ。君は反射的に手を引いたけど、それでも離さなかった。僕の手もにわかに冷たかったから、僕は君の手首が冷たいとは感じなかった。

「あのさ」

「なに?」

「家で金魚飼ってる?」

「飼ってるよ。すんごい長生きしてるやつ」

 君は即答した。そして、金魚の思い出について話しはじめた。

 君の目の奥には透明で底の無い穴がひっそりと開いている。僕にもある。どこにもある。昨日君が食べたオムライスだって、レールにこびりつく血の跡だって、水面に力なく浮かぶ金魚だって、その中にすごい速さで沈んでいく。そしてその穴は何者かによってすぐに蓋をされてしまう。しかし、それらはすぐに元の形がわからなくなるほどにどろどろになって、他のどろどろと混ざり合う。それが君で僕だ。目に見えるものはすぐに見えなくなってしまうけれど、ちゃんと積み重なっていく。

 それを思うと、今の僕は君から理不尽に記憶を奪っている気がしてきた。君の昨日を握っているのは完全に僕だった。それが遠い将来の欠落につながってしまうのか、今の僕にはわからない。だけど。

「それで、左の鰭がすこし欠けてるところが、」

「だけど、なんで忘れちゃったんだろうね。昨日のこと」

 君は突然話の腰を折られて驚いた顔をした。

「わからない」

「忘れたかった何かがあったのかな」

「忘れてるから考えようがないよ。でも、そんなことはない、と思う。だけど、わたしがそう思っても、わたしがそうならないことだってあるからね」

「うん。ある」

 僕はポケットに手を入れた。するとボタンが手に触れて、すこし驚いた。てっきりとっくになくなってしまっていると思っていた。

「人間、半分は他人でできてるよ、きっと」

「何かの頭痛薬みたいだね」

 君は笑った。僕は、笑った君の顔をまじまじと見た。間違えて冬に咲いてしまったひまわりのようだった。僕は冬眠し損ねたハチのようにそこに吸い寄せられていった。

「昨日のこと、知りたい?」

「うん。教えてくれるの?」

「いいよ」

「ほんとに?」

「ほんとに」

 とても無邪気な目をして君は言う。

「教えて」

「どこから?」

「全部」

「うまく話せないかもしれないけど」

「いいよ。話したことがそのまま私のほんとのことになるから」

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