艦隊これくしょん(批判的感想)
※この文章では前半、「艦隊これくしょん」の批判をし、後半、表現の自由に関して書いています。どちらも重い内容になります。特に「艦これ」のファンの方は気分を害されると思いますので、嫌な方は読まないでください。
書くのはよそうかと思っていたのですが、やっぱり書いておきます。
「艦隊これくしょん」は
第日本帝国海軍の軍艦を少女に擬人化したキャラクターが、敵=海中から出現する同じく女性軍艦型の怪物と戦う、育成・戦闘シミュレーションゲーム。ブラウザ配信ゲーム。2015年1月よりアニメ放送。
……という説明でいいでしょうか?
率直に言って、なんて馬鹿な物だ、と思う。
実在の軍艦を萌えキャラ化?
こんな物がヒットしている日本人の脳みそは腐っているんじゃないかと思った。
わたしの祖父は父方、母方共戦争で死んでいる。
母方の祖父は陸上の戦闘で戦死したらしい。わたしはもちろん古い写真でしか知らない。形ばかりの遺品があったように思う。
父方の祖父は軍の輸送船の船員だったそうで、どこかの海上で撃沈されたらしく、具体的にどこでどう亡くなったのかまったく分からない。写真もないし遺品もない。
祖父が亡くなっていることでわたしは子供心に戦争は人が死ぬ、恐い、嫌なものだという思いを強く抱いていた。
それが、
萌えキャラだあ?
ふざけやがって、と激しく反発を抱いた。
もっとも、このゲーム及びアニメはわたしみたいなおっさん向けの物なんかではないだろう。こういう古い人間がうるさく言ってくるのを「入ってくんなよ」と迷惑に思うのだろうけれど。
今の若い人たちは実際モデルになっている太平洋戦争をどう思っているのだろう?
軍艦が擬人化した「艦むす=艦隊むすめ」の設定はかなり史実に忠実に作り込まれているらしい。
一度撃沈された艦むすは二度と復活しない……のかな?
ゲームの制作者は軍艦のマニアで、きっとモデルにした軍艦の乗員への敬弔の念もあるだろうと思う。
戦争を娯楽の題材にすること自体は非難するつもりはない。特に男にとって戦いは血湧き肉踊る面白い物でもある。
けれどある程度の節度は持ってほしい。
なんで女の子なんだ?
萌えキャラはないだろう……、と、わたしの固い頭にはどうしてもそれを受け入れる余地はない。
こうした(わたしの感覚から言えば馬鹿な)ゲーム、アニメが作られ、ヒットするというのは、主体となっている若い世代が現実を知らないからなんだろうと思うのだけれど、
特にここ最近の世の中の動きから違う見方も考えられる。
特に若い世代にとって、戦争というのは拒否反応を持つ物ではなくなっているんじゃないか?
むしろ、今の国際情勢から、政治的に有効な手段として、積極的に支持する気持ちがあるんじゃないか?、と。
「そんな重たい面倒なことは考えてないよ」と言われるなら、それはそれでどうなんだろう、とまた渋い顔になってしまうけれど。
ここからは「表現の自由」について。
フランスで、イスラム教の最大の聖人、予言者ムハンマドを風刺したマンガを掲載した新聞社が武装グループに襲撃され、多くの死傷者が出るテロ事件が起きた。
そしてフランスではテロを非難し、表現の自由を訴えるデモが行われ、世界各国……西側の指導者たちも同じくテロを非難し、表現の自由を守っていくことを表明した。
もちろん、無差別に一般市民を標的としたテロは断固許されざる行為であるのは間違いない。
けれど、わたしは表現の自由を訴える一連の運動には必ずしも賛同できない。
以前にも書いたことですが、わたしは
「自由とはそれに伴う責任とセットで語られるべきものだ」
「自由とはでたらめをしてもよいということではない」
と考えています。
そして、
「表現とは解釈の幅があるものであり、受け手がどう解釈するか自由なものである」
と考えています。
解釈の幅があるのが表現の素晴らしいところで、その幅によって受け手が自分に重ね合わせて感動できるところが素晴らしいのだと思います。
それは場合によっては表現者の意図とは違った、誤解した受け止め方をされるかもしれないけれど、誤解も含めて表現なのだと思います。
わたしが「表現の自由」を訴えるフランスを中心とした運動に賛同できないのは、彼らが言っているのは表現する側の一方的な言い分で、表現される側の人権をまったく顧みていない点においてです。
ニュースのインタビューで、同じくフランスの風刺画家が、
「風刺にはいっさいのタブーはないのです」
と言っていましたが、実に勝手な言い分だと思います。
フランスの「表現の自由」には以前日本も福島の放射能漏れを風刺したマンガ=悪質なブラックジョークを描かれた。これに対してもフランスはまったく反省するところがなかった。
特に宗教というものは。ある宗教で、病気になっても自然に任せて、人為的な医療を受けないという教えを忠実に守り、自分ばかりでなく子どもにも治療を受けさせず、問題になった事件があった。
自分はともかく子どもまでというのは問題だけれど、人によっては宗教というのは命懸けのものであるということだ。
自分が命よりも大切と思っているものを、繰り返し抗議をしたにも関わらず、自分たちの自由を主張するばかりでまったく聞く耳を持たなければ、殺し合いの喧嘩になるのも当然だろう。
これも繰り返し書いてきたことですが、わたしは宗教、特に一神教の宗教は嫌いです。
理由は、一度、「神はこうおっしゃった」と言われてしまったら、以降、いっさいの批判を許されないという点です。
神の存在の真偽はともかく(わたしは神の存在そのものは信じてます)、権力を求める者にとって、これほど便利な道具はないだろうと思います。
こう書くと、「だから批判する為の自由は必要なのだ」と「表現の自由」信奉者は言うだろう。わたしも「批判の自由」は絶対に必要だと思います。けれど、「批判」と「表現」はまた別の物だ。
宗教だろうと放射能だろうと、相手に批判すべき点があるのならすればいい。
ただし、相手にきちんと向き合い、「表現」という誤解を生むあやふやな方法ではなく、きちんとした言葉で、真摯な態度で批判すべきだ。
人を馬鹿にして笑うような、くだらない態度で行うべきではない。
今回の風刺画掲載で非常に愚かだと思うのが、
現在、イスラム国の台頭は世界的な非常事態です。
緊急に、全力で対処しなければならない問題です。
そうしなければならないのは、特にヨーロッパは第二次世界大戦で経験したはずだ。
そうした非常事態にも関わらず、
イスラム国に対処するにあたって、ムスリム=イスラム教信者を味方にするのは絶対に必要なことだろう。
少なくとも、イスラム国の問題で、イスラム教徒を敵に回すのは最悪の愚かな行為だろう。
我々がイスラム国を悪と見なすのは、彼らが住民を虐殺し、近隣地域を襲って、子ども、少女を誘拐するという、残虐で極悪な行為によってだ。
そんな行為をどんな神であろうと信者に許すわけはない、と、普通の感覚なら思うだろう。多くの、ほとんどの、イスラム教徒もそうであるはずだ、と信じたい。
しかしその一方で、イスラム教の過激なテロリストを支持する、テロリストではない、イスラム教徒がいるのもまた事実だろう。非常に残念なことだ。
イスラム国との戦いを、イスラム教徒との戦いにしてはならない。
イスラム教徒全体を戦いに引き込むことを、彼らは望んでいることだろう。
イスラム国における一番いい結末は、内部で自分たちのやっている行いに疑問を持ち、自らイスラム国を解散し、テロを行った「犯罪者」を法の下で裁くことだろう。
そうする為には是非とも同じ神、予言者を信奉するイスラム教徒全体の強力な協力が必要なのだ。他宗教の者にはそれは出来ないから。やれば、イスラムを敵にしてしまう。
イスラム教徒全体には、是非とも積極的に犯罪者であるイスラム国を、イスラムの教えに則って批判してほしい。彼らを正しいムスリムのあり方に回帰させてほしい。
西側陣営は、テロリストではないイスラム教徒が何故テロを支持するのか、その理由を問い、問題解決に真摯に取り組むべきだ。
それなのに、
相手の人権を顧みないでたらめな「自由」でイスラム教徒の怒りに油を注ぎ、自分たちの自由を標榜しながらモスクを襲撃する蛮行を行い、
今回一連のフランス人の行いは非常に愚かだ。
翻って日本の現状を考えると、
日本では逆に表現の自由が著しく減退しているようだ。
特に政治面で、マスコミは明らかに現行政府に遠慮して報道が萎縮し、
一般市民レベルでも政府批判、国家批判といった意見にはどこの誰とも知れない多数からよってたかって高圧的な態度で批判返しされ、自由な意見表明もままならない状態になっていないか?
あっちこっちにころころ態度を変えて、おまえはいったいなんなんだ?と批判されるだろうけれど、
本当に守らなければならない、本当に大切なものは何か?、ということで、
わたしは以前、東京都の青少年健全育成条例についても、表現者が自ら自分を律することが出来ないのなら表現の自由が制限されるのもやむを得ないだろうというように書いた。
上のフランス批判と併せて、そういう譲歩が表現の自由を減退させていくのだ、と批判されるかもしれない。確かにその恐れはある。だからこそ、自由、権利、を当然のように主張するばかりでなく、「本当に大切な自由と権利を守る為に果たさなければならない責任」も併せて考えていく必要があるのだ、と考えています。
テロリストや為政者に付け入る隙を与えないこと。
自分たちは正義だと胸を張って主張できる中立さ、清廉さを保っていること。
それが今の時代、本当に必要なんだと感じる。
「自由」「権利」というものの本当の意味を、
それが剥奪され、許されなかった時代がどうであったのか?
自分たち自身の問題として本気で考え、そして、
それに対抗する為に自分たちは、今、どうあらねばならないのか?
賢く、厳しく、考える必要があると思うのです。