「ラ・フォル・ジュルネ」と「敬愛なるベートーヴェン」
今回はほとんど個人的な日記です。
ただいまBGMは「第9」。昨日から頭の中でこればっかり鳴り響いてます。
5月1日から8日まで去年に引き続きこちらでは2回目の「ラ・フォル・ジュルネ」が開催されました。
「ラ・フォル・ジュルネ」=フランス語で「熱狂の日」という意味の、1995年フランスはナント市発祥のクラシック音楽のフェスティバルです。毎年テーマを決めて、普段あまりクラシック音楽など聴かない人にも気軽に楽しんでもらえるよう短いプログラムがたくさんの、有料コンサート以外にもエントランスホールや町中の会場で無料のライブやテーマにまつわるイベントや屋台が出たりして、お祭として楽しめる趣向が凝らされています。コンサートも「0歳から楽しめるクラシックコンサート」など幅広い年齢に楽しめるものになっています。
わたしの地元は今年のテーマは「ウィーンのベートーヴェン」。各開催地ごとに関連しながら違ったテーマが設定されているようです。
本番が6〜8日で、1〜5日までプレ公演が行われたのですが、わたしはその1番最初のコンサートを見てきました。
1000円でベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」を中心とした1時間半のお得な公演。(本公演は45分のプログラムで1500円から2500円まで)
ヴァイオリン協奏曲。ソリストは地元出身のアイドルヴァイオリニスト……というと怒られるでしょうけれど、大変ルックスのよろしい奥村愛さん。わたしは開演1時間前に会場に着きまして、もうかなり列が出来ているだろうなと思っていたのですが、そこそこのもので、前から3列目のヴァイオリンソロの真っ正面というたいへん良い席で見ることが出来ました。音を楽しむのはもうちょっと後ろの席が良かったのかも知れませんが、演奏中はうっとりと奥村さんしか見ておらず、たっぷり堪能させていただきました。写真を見れば美人だというのは分かりますが、(赤いドレスを着ているのでなおさら)本当にお人形のように細い、綺麗で可愛らしい方でした。(年齢の話題になると当人は苦笑されますが。これは去年のイベントでの話)
ところでこの演奏、ちょっと面白かったんです。
演奏途中で、何故か奥村さんも指揮者もバンマス(こちらも女性の方)も、ニヤニヤしているんですね。なんだろうな?と思っていたのですが。今回はフェスティバルの中のプレ公演ということで、その協奏曲後にちょっとしたトークコーナーがありました。そこで途中の「ニヤニヤ」の真相が明かされたわけですが。この曲、第2楽章で同じようなフレーズを何度も繰り返すのですが、そこで奥村さんが間違えて別の場所を弾いてしまったのですね。きっと本人は『しまったあ!……』と内心真っ青になったことでしょうが、そこを指揮者と地元出身ということで顔見知りの多い市民オーケストラのメンバーが上手に合わせてくれて、ぐるーーっとループして元の場所に戻って先へつなげてくれた、と、そのフォローの場所で指揮者がニヤニヤ笑って、奥村さんも『申し訳ありません』と優しい指揮者とメンバーに苦笑してしまったと、いうわけだったのですね。司会者さんによると5分ほど長いバージョンということでしたが、本当かどうかは分かりません。わたしも、あれ?この曲ってこんなに長かったかな?とは思ったんですよ(本当です)。何度も予習して聴きに行きましたのでね。とっても楽しい演奏会でした。
わたしが見た有料公演はこの一つだけ。実はもう一つ是非見たい公演があったのですが、
「ピアノソナタ第29番『ハンマークラヴィア』」。
残念ながら震災の影響でアーティストが来日できなく(?)なり、代替公演では別のプログラムになってしまい、今回はパス。
「ハンマークラヴィア」。なんだかヴァイオリン協奏曲だのピアノソナタだの、いかにもインテリ気取っているみたいですが、この曲は、知っている人はすぐ分かるでしょうが、聴けば最初から「凄い!」というのがはっきり分かる、まあ簡単に言ってしまえばピアノソナタ版の「運命」というか「第9」のような「物凄い」曲です。あまりに物凄すぎて弾けない……実際当時は技術的に?楽器の仕様的に?弾けなかったようです。今現在も難しすぎてなかなかまともに弾ける人がいないようです。生の演奏を是非聴いてみたいでしょう? う〜ん、残念でしたねえ。
さてそんなわけで後はお金は使わずのんびりフェス気分を楽しんできましたが、あまりお客さんはいませんでしたがナント市の川と鳥の写真展が思いがけず良かったです。横3メートルのスクリーンサイズのパノラマ写真が3枚ほどありまして、これが前に立って眺めるとのんびりした良い気持ちになれました。大画面はいいですねえ。
わたしの今年の締めは無料映画上映会でした。
「敬愛なるベートーヴェン」
エド・ハリス、ダイアン・クルーガー主演、2006年アメリカ・ハンガリー合作映画。
「第9交響曲」初演の舞台裏を中心にベートーヴェンの晩年を、若き女性写譜師との交流を絡めて描いた伝記映画。
映画の内容をごく簡単に言ってしまうと、モーツァルトが下品で軽薄な人物であったというのは映画「アマデウス」ですっかりお馴染みになりましたが、実は、
「ベートーヴェンも実に下品でだらしなく、傲慢な、嫌な奴だった」
といったところです。
ベートーヴェンといえば学校の音楽室に飾られている肖像画に見られるように、いかにもいかめしく、哲学的で思慮深いイメージですが、映画はそんな「音楽の聖人」のイメージを見事にぶち壊してくれます。「ああ、わたしのベートーヴェン様」と乙女チックに憧れるインテリハイソな淑女の方は見ない方が身のためです。ガアアアーーーンンンンンンン………、とショックが大きすぎます。
モーツァルトの下品軽薄は、子どもっぽい無邪気さが感じられ、若死に(35歳)でもあり、ちょっと癖が強いけれどイケメンなので、まあ、許せるとして、
第9作曲時のベートーヴェンは54歳のおっさんです。エド・ハリスが実に下品に演じています。「お尻」だの「屁」だの、おまえは野原しんのすけか?という感じですが、「わたしはベートーヴェンである!」と威張り散らす尊大さはまるで洒落になりません。迷惑という我慢できるレベルを越えています。この下品、傲慢さが、実際の人物にどこまで真実なのか分かりませんが、もう一人の主人公、美しいドイツ人女優ダイアン・クルーガー演じる若き音楽生の写譜師は創作上の人物です。(そういえば全編英語。べらべら英語をしゃべるベートーヴェンって、考えてみれば変な感じで、吹き替えで見ているような感じでした)
楽聖ベートーヴェンのイメージをぶち壊しにするインパクトのある映画ですが、もちろんそれだけではありません。
映画は女主人公アンナ・ホルツが馬車に乗ってどこかへ急ぐ場面から始まります。
このシーンのカメラは不安定で、BGMのヴァイオリンも嵐の風の音のように甲高く鳴り響き、この女性が情緒不安定のような、非常に危なっかしい印象を与えます。
実は彼女は「マエストロ」=ベートーヴェンの臨終の床に駆けつけたところだったのです。
ベートーヴェンは「アンナ・ホルツ。よく来てくれた」と彼女の来訪を喜び、彼女は「マエストロ。大フーガを聴きました。素晴らしかったです」と報告し、ベートーヴェンは「そうか。君なら解ると思っていたぞ」と喜び、じきに命尽き、アンナは非常に深く悲しむ、
という場面をプロローグに、話は過去に戻ります。この映画を見たいと思う人はあまりいないと思うのでストーリーに踏み込んで書いてしまいますが。
第9交響曲初演を数日後に控える慌ただしい中、音楽学校主席のアンナが写譜師として派遣されてくる。写譜師というのは作曲家のきったない原稿をちゃんと読めるようにきれいに清書する仕事。
病気で写譜の仕事が出来なくなった写譜師も、ベートーヴェンも、アンナが女であることをバカにして相手にしようとしないが、ともかくスケジュールが押していて、アンナもかなり率直な性格で、仕事は進行していく。
音楽を志す者にとっては神のごとき偉大な大ベートーヴェンであるが、気むずかしく、強情で、癇癪持ちで、難聴の老人で、生活はだらしなく、アパートの部屋はネズミが我が物顔の不潔な有様。おまけに下品。ひどい気分屋で心変わりが激しく、すぐに大声で怒鳴る。最低に扱いづらい老人。しかし困ったことに彼こそがあの偉大な音楽の神ベートーヴェンなのである。
人物的にはまったく評価出来ないながらもアンナは下品さに目をつぶって写譜の仕事を続ける。なんと言ってもあのベートーヴェンの写譜であるのだから! そう、彼の下品さも尊大さもその偉大な才能だからこそ誰もが許さざるを得ないのだ。
しかしその尊大さが滑稽に空回りしてしまう場面もある。ろくに耳が聞こえないくせに指揮を執る!と言い張るベートーヴェンの第9のリハーサルはさんざんだ。
どたばたの内に訪れた第9の初演。大ベートーヴェンの10年ぶりの、しかも2時間の大作交響曲(実際は1時間ちょっと)ということで観客も期待と不安(呆れ)が交錯し、開演を待つ。アンナも恋人の奮発した特等席で開演を待つが、そのアンナを写譜師が慌てて呼びに来る。溺愛している甥(駄目な不良青年)が聴きに来ないことでベートーヴェンがすっかりナーヴァスになり、(今さら)聞こえないから指揮が出来ないと駄々をこねている。アンナがなだめて、自分がオーケストラの中からベートーヴェンに見えるように拍子の合図を送ってあげるからと励まし、満場の舞台へ送り出し、かくして第9の初演が始まる。
指揮台に立ったベートーヴェンは『これでいいか?』とおっかなびっくりアンナに頼りきりで指揮を取る。オーケストラの中に座ったアンナは『大丈夫大丈夫』と励ましながら拍子を取り、段々調子に乗ってきたベートーヴェンと自分も指揮に夢中になってきたアンナの手の振りがすっかりシンクロし、曲はどんどん盛り上がっていき、そしてついに!、有名な、アンナが写譜した合唱パートを含む第4楽章へ。男性ソロ、女声ソロ、合唱と、荘厳に、美しく、そして爆発し、最高に盛り上がっていく。ベートーヴェンの頭の中にも(きっと)音楽が鳴り響き、指揮に熱狂し、その熱狂にシンクロしたカメラも激しく揺れまくる。アンナも喜びに笑みが止まらず、オーケストラ、合唱、すべてが一体化し、巨大な熱の渦となり、天上へ舞い上がっていく。観客たちも感動の涙を流し、悪びれながら会場に顔を出した甥もあまりの感動に涙が止まらない。
「アマデウス」は豪華な衣装、セットの華麗な映画でしたが、この映画はどちらかというとヨーロッパのアート系の映画で、地味な印象の映画です。照明は自然光で、ハリウッド流のくっきりした陰影とは違って至ってナチュラル。しかし撮影はかなり凝っています。自然なのだけれどすごく監督の意図を感じるカメラワークで、ちょっとしたお遊びも挿入されている。こういう作家性の強い画面は見ていてとても楽しい。映画を見るのってやっぱり楽しいなあと思わせられる。演じている俳優たちも、こういうドラマこそ演じ甲斐があって楽しいのではないだろうか。
演奏が終わり、全身全霊を傾けて指揮したベートーヴェンは精根尽き果てた様子で呆然と立ち尽くし、彼の耳には遠く小さな拍手しか聞こえない。見かねたアンナが立ち上がり、ベートーヴェンを客席の方に向かせると、彼は初めて万雷の拍手に気づく、という有名なエピソード。
演奏は大成功。ここに偉大なる交響曲のマスターピースが誕生し、フィナーレ、ジ・エンド。……となると大団円、よかったよかった、で終わるのですが、映画はまだ続きがあります。
音楽学校の学生のアンナは作曲家になりたいと思い、自分には才能があると信じている。ベートーヴェンの音楽への理解も深く、確かで、だからベートーヴェンも「女なんかに」とバカにしていたアンナを使う気になる。しかし男尊女卑が露骨な時代に、女性であるアンナに作曲家の夢は障害が大きい。周囲はアンナに夢は夢で諦めるように諭す。アンナは神に「才能を与えておいて、何故それを生かす機会を与えてくれない!」と嘆く。
第9の成功ですっかりうち解けたアンナはベートーヴェンに自作のピアノ曲の楽譜を見せるが、ベートーヴェンは例の調子で下品に面白可笑しくおちょくり、すっかり傷ついたアンナはベートーヴェンの元を去る。自分の失敗に気づいたベートーヴェンは彼女の楽譜に直しを入れて彼女の寄宿する修道院に押し入り(←男子禁制)アンナに「君は見込みがある。二人でいっしょにこの曲を完成させよう」と誘う。
自分の下に戻ったアンナにベートーヴェンは「体を洗ってくれ」とセクシャルな要求をする。滑稽なほど尊大で威張りん坊で、実は女性に対しては相当シャイなベートーヴェンの、精一杯の恋心のアピールなのだろう。
彼はその後その尊大さでアンナの恋人をひどく侮辱し、二人の関係をめちゃくちゃにする。
さすがに腹に据えかねたアンナは今度こそベートーヴェンの元を去ろうとするが、「ここを去っても君は『ベートーヴェン』から逃れることは出来ないぞ」と言う。また、「君はベートーヴェンになりたいのだ」と模倣を戒めるような事も言う。彼はアンナに心密かに恋心を抱きながら、一人の音楽家としての才能も認めるようになっているのだ。結局アンナもベートーヴェンの元に残り、音楽家としての修行を続ける。
出番は少ないが映画の中で重要なキーになっているのがベートーヴェンの甥カールだ。ベートーヴェンはカールを溺愛し、優秀な教師をつけてピアニストにしようとしているが、カールは悪い仲間と遊び歩く不良青年で、全然ピアニストになんかなりたいと思っていない。彼はアンナに「才能もないのに期待を押し付けられる辛さが分かるか?」と訴える。才能があるのにチャンスを閉ざされているアンナと、才能もないのに偉大な伯父に一流の音楽家になることを押し付けられるカール。
ではベートーヴェン自身はどうかというと。
ベートーヴェンは「わたしはベートーヴェンだ」と威張り散らし、平気で人を傷つけ、「わたしが神だ」「わたしと神は表裏一体だ」と、自分で言うか?ということを大威張りで公言する。
偉大なるベートーヴェンは、偉大すぎる才能故に、音楽以外はまったく駄目な自分を十分意識しているのではないかと思われる。滑稽なほどの尊大ぶりは、実は音楽を抜きにした一人の人間としてのまったくの自信のなさの裏返しに思われる。下品な悪ふざけや親しい者に対するはしゃぎぶりは元来の子どもっぽさを伺わせるが、実はモーツァルトなどよりよほど精神的に弱い人間のように思われる。
「音楽は神との対話」「頭の中に音楽が降ってくる」と語り、溢れ返る巨大すぎる才能を生身の体で持て余している様子が窺える。
巨大で革新的な第9より更に音楽的な進化を模索する、というより止められないベートーヴェンは、弦楽四重奏曲「大フーガ」を作曲する。アンナにも「もっと自由になれ」と形式へのこだわりを捨てさせ、ベートーヴェンの才能は時代の遙か先へ飛翔を続ける。
しかし「大フーガ」はまったく理解されることなく、最大のパトロンにまでそっぽを向かれる。「予想通りだ」と強がるベートーヴェンも、アンナ以外誰もいなくなってしまった演奏会場で倒れ、そのまま病の床につく。
病床にあってもベートーヴェンの才能の飛翔は続き、アンナに記譜してもらってミサ曲を作り上げていく。さすがのアンナもあまりに自由で革新的な考えに戸惑いを隠せない。
ベートーヴェンは静かな郊外で療養しているが、眠ったベートーヴェンを残し、アンナは美しいミサ曲の余韻を楽しむようにドアの外の黄金の草原へ散歩に出かける。
ここでベートーヴェンが57歳で亡くなったことが字幕で紹介されて映画は終わる。同時に生前は理解されなかった「大フーガ」が死後評価が高まり、後の作曲家たちに多大な影響を与えたことが紹介される。
映画の終わりで、冒頭の、どこかから馬車で駆けつけるアンナのエピソードへつながることはない。
アンナが、「実は彼女こそ後の○○○○その人である」といった事実があるわけでもなく、その後の彼女の人生は不明だ。架空の人物であるので「後の」新進気鋭の女流作曲家として活躍していることを夢想したいと思う。つながらないラストとプロローグの間にある程度長い時間があることが連想されるのでその意味を考えたい。「大フーガ」初演時には「わたしの考えはマエストロとは違います」と付いていけないことを正直に口にしたアンナも、この空白の間に、どこかで「大フーガ」を聴いて、その時にはさらに修行を積み、ベートーヴェンの真の音楽性を理解するに至っていたのだろう。その過程が描かれなかったのはその当時の世間一般の理解のなさを示しているのではないか。ベートーヴェンの「聴衆の趣味などどうでもよい!」という偉大な才能を理解されることのない苛立ちと孤独、「君なら解ると思っていた!」という、決して妥協することなく、偉大な高みで解り合える理解者がついに現れてくれたことの喜び。才能に振り回されたはちゃめちゃな生活を送ってきた天才の、幸せな人生の閉じ方だったのではないだろうか。
こういう特別な機会がなければなかなか見ようとは思わない映画ですが、ラッキーに、いい映画を見たなあと楽しかったです。
さて。
ここで「ハンマークラヴィア」に話を戻して。
この曲はとにかく聴けばちょっと他のクラシックの曲と違うというのが率直な感想として出てくると思うのですが、響きがものすごくモダンです。モダンといってもそれこそ後の「現代曲」と違って、もっともっと現代のわたしたちの音楽環境にフィットするモダンさで、こういう事を書くとクラシックファンやベートーヴェンファンから嫌がられるかも知れませんが、わたしはラジオでこの曲を聴いたとき、「おお! ロックだ!」と思いました。音の響きが、ハードなテクノロック、いわゆるインダストリアル・ロックといったような音色とマッチしたのですね。
映画を紹介する文中、「もっと自由に」とベートーヴェンの言葉を書きましたが、正確には「もっと自由な形式で」とすべきように思います。おそらくベートーヴェンの音楽に「自由奔放」というイメージはないと思います。最初から最後まで一音も適当な音などなく、ビシッと厳格に型にはまったイメージではないでしょうか? ベートーヴェンの言う「自由に」とは過去の模倣ではなく、新しい形式の模索であり、それは自由奔放というでたらめではなく、厳格で、美しい、より高い次元の新しい形式の模索であったと思います。対して現代音楽というのは既存の形式の破壊という、やった者勝ちの単に目新しさだけを求めた、結局過去に縛られた物で、芸術のための芸術という非常に狭い価値観の嗜好品でしかなく、だから一般には全然アピールしないのだろうと思います。ベートーヴェンの「モダンさ」とはまったく相容れないものと思います。ジャズもその場のノリで、「絶対にこうでなくてはならない」というベートーヴェン流の美意識とは別物ですね。
やっぱりロックだなあー…、と、嫌われるのを承知で思ってしまいます。
巨大すぎる才能に人生を破壊されてしまうようなところなんてジミ・ヘンドリクスを連想させますし。
とかなんとか言いながら、実はわたしベートーヴェンはそれほど好きな作曲家じゃなかったんですよね。ロック的な知識で見るならば「ビートルズだな」と。ビートルズは、誰でも知ってるし、聴けば誰でもすぐに分かっちゃいますよね。そのポピュラーさが、ひねくれたファンにはありがちの、「分かり易すぎてつまらん」という不当に低い評価をしてしまうのですね。でもビートルズだって当時はすごくショッキングでセンセーショナルな音だったはずで、親しみやすいポップスからハードなロックまで実に幅広い楽曲があるんですよね。ますますベートーヴェンぽい。
今回「第9」を改めて、きちんと、聴いてみて、やはりそのモダンさに感心しました。叩きつけるような激しい短いフレーズの繰り返しで曲全体が構成されているような、構造主義とでもいうようなゴツゴツした手触りで、全体が雪だるま式に巨大に膨れ上がって転がっていくような様は、「これってまるでレッドツェッペリンだなあ」なんて思ってしまいました。ま、どうでもいい話でしたね。ともかく、これまでいかに自分がいい加減な浅い聴き方しかしていなかったか思い知ったわけでございます。恥ずかしい。偉大なる大ベートーヴェン様、大変失礼いたしました。
「ラ・フォル・ジュルネ」はとても楽しかったです。音楽のフェスティバルというと夏場のロック・フェスが盛り上がっているようですが、ロックじゃ年齢的、趣味的にやっぱりある程度客層が絞られますし、ジャズも趣味の世界ですからねえー……。クラシックは子どもからお年寄りまで、ライトユーザーからコアなマニアまで、同じ場でそれぞれの楽しみ方が出来ますからね、お祭として広く楽しめるんじゃないでしょうか?
来年も是非地元で第3回目を、日本全国より多くの会場で開催されて楽しまれるといいなあと思います。