「300」&「エンジェル・ウォーズ」追伸
「エンジェル・ウォーズ」について書いたのでついでと言ってはなんですが、同じくザック・スナイダー監督の「300」を。
ペルシャ軍100万を相手に戦う歴史に名高いスパルタの精鋭戦士300人の超人的活躍を描いた古代史バトル劇。
この映画で特筆すべきはやはりスタイリッシュな映像のすばらしさだろう。
「マトリックス」を観たとき、「ああっ! まだこういう描き方があったか!!」と、革新的な映像にまさに目から鱗の驚きがありましたが、「マトリックス三部作」ではまだ不完全であったコンピュータグラフィックス技術が、この映画で完成したと見ていいでしょう。(まあ異論はあると思いますが…、ま、いいでしょう)
「マトリックス」にまだ見られたアナログの手触り(←良い意味)とCGアニメのぎこちなさ(←悪い意味)がこの映画では完全に解消されている。
俳優たちの肉体も演技も、ブルーバックの背景と共に完全にCGの素材として実に滑らかなリアルアニメを完成させている。
「ターミネーター2」「ジュラシック・パーク」を経てCGで描けない物はないというレベルまで映像技術は高まったが、この映画においてストーリーまで完璧にCGで描けるようになったと思う。
しかし一方で、グロテスクさまでスタイリッシュに流麗に描かれ、本当の「肉弾バトル」の興奮は少ない。闘いの高揚感より、黒の強い画面に、血生臭い陰惨さの方がより強く感じられる。
ストーリーも、人間の嫌な部分が非常にグロテスクに描かれ、正直見ているのが辛い部分が多々ある。しかしそれはこの物語において必要な要素だろう。利己的な人間の醜い様がこれ見よがしに描かれる一方、スパルタ人戦士の精神の高潔さが対照的に際だち、彼らの精神の輝きが観る者の心を揺さぶる………って、こういうのが好きだなあ、この監督。
しかし戦士の気高き高潔さを求められるのは……、ひ弱な精神のわたしにはちと辛く、映画全体の印象としてはちょっと苦手だ。
日本のマンガに例えますと……白土三平の忍者劇画……「忍者武芸帳」「サスケ」「カムイ外伝」「カムイ伝」などが似た感触かと……。
白土三平氏の描く社会や人生はひどく過酷です。わたくしも一時熱中して読んでおりましたが……あまりに過酷で殺伐として、特に救いようのない終盤の展開に嫌気が差して、離れてしまいました。過酷な状況下で、けっきょく滅んでいくのだけれど、その高潔な精神の輝きは人生を越えて時代を超えて光り輝く……って、まんまでしょ? さすがにザック・スナイダー監督も白土三平までは読んでないだろうなと思いますが、きっと大いに共感することでしょう。わたしはリタイアです。(あ、「300」はグラフィックノベルの原作物でしたね)
なかなかバトルの興奮は感じられないこの映画ですが、
この手の内容で盛り上がるのはなんと言ってもメル・ギブソンの「ブレイブハート」ですね。内容も「滅びの美」で共通していますが、こっちの方が「行けーっ! ぶっ殺せーーっ!!」という野蛮なカタルシスを大いに満足させてくれて、気持ちいいです。こちらはCGではないまんまの肉弾戦です。やっぱり野蛮なエネルギーの爆発を描くのは生身の肉体に限りますね。最近ですと「ロビンフッド」を観ましたが、ラッセル・クロウ&リドリー・スコットのタッグで「グラディエーター」よもう一度!とわたしも期待しましたが、優等生的にまとまった映画で、面白かったですけれど、正直期待したほどの興奮はありませんでした。
ちなみに現代劇で気持ちいいのは刑事アル・パチーノVS強盗団ロバート・デニーロのダブル主演「ヒート」の白昼のビル街の銃撃戦。大型火気の重い反響音が素晴らしく気持ちいいです。大型スピーカーで大音量で聴くと最高に気持ちいいんでしょうけれど……、わたしはいつもヘッドホンです…………。映画館では観てないんですよね、う〜ん、残念。
……と、
以上、前置きおしまい。
以下、本題の前回記事の追伸。
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前回「エンジェル・ウォーズ」の記事を更新してから他の人がどう見ているのか某総合映画サイトの一般の人の投稿批評を見てみたら、ええ〜〜?なんでえ〜〜???、という、わたしからすると「的外れ」な意見ばかりで、がっかりしてしまいました。
”日本人のくせに”、あの映画をあの程度の見方しかできないのかと情けない。
やはり全国的に吹き替え版での上映が多いらしく、「スフィア」が主役たちの声を演じていることに「アイドル声優”なんか”に」という批判的ニュアンスの意見が目に付いたが、まったく解っていないと思う。あの少女たちのファッションをなんだと思っているのだろう? 単なる流行りのロリファッションとでも思っているのだろうか? 言うならばアニメキャラの「スフィア」が本家であって、演じているアメリカ人女優たちが「スフィア」に代表されるアイドル声優たち演じるアニメキャラを真似しているのだ。ちなみにあんまり関係ないけれど、最近のアニメ映画で特に宮崎作品に代表されるようにタレントオンパレードのキャスティングは嫌いだ。宮崎駿は「スフィア」的なアニメ声が大嫌いなようだが、わたしは最近のジブリアニメのすっかりセレブ御用達ブランド化したタレント臭さは嫌いだ。いかにも「一生懸命やってます」というポーズがまた鼻につく(…と、いったん嫌い!と思ってしまうとどうも偏った見方しかできなくなりますね。ファンの方ごめんなさい)。そもそもアニメが「マンガ的デフォルメ」であるのだから声がマンガ的にデフォルメされたものである方が自然に思う。それは子どもやオタク萌え人間に媚びるのとは別問題だろう。話を戻して、
そもそもあのコンピュータゲームそのまんまのイメージを真面目に捉えて「ストーリーが破綻しているうんぬん」と批判すること自体そうとう変だ。思いっきりふざけた画ではないか? この映画全体において表現自体は全部「マンガ」だ。別にマンガをバカにして言っているんじゃない、そういう表現を「面白い」と思って採用しているのだろう。
面白がってふざけまくって作った映画が作品としてふざけたものというわけではない、作品としては非常に重くシリアスなものだ。赤塚不二夫的に言えば「マジメにふざけるのだ!」といったところか。つまり、表面的な表現と中身の作品的テーマは別だということだ。いや、別でもない、
だから、
「表現」 なのだ。
その「表現」で作品を作りたいと思ったとき、ではどういう内容の物語やテーマがふさわしいだろうかと考えた結果がこの映画だ。きっとテーマが先にあって表現を考えた映画ではないだろう。けれど、その「表現」を強く欲したとき、自ずと描かれるべきテーマは決まってきたのではないかと思う。その両者に日本のマンガをハリウッドで映画化した、「全っ然、解ってねえなあー」というろくでもないズレがあれば、わたしはこんなに自分の意見を力説しようとは思わない。あの映像を見るにつけ監督は相当どっぷりオタク文化に浸り込んでいるのだろう。何故自分がこんなにもオタク的なものに魅力を感じて、シンパシーを抱くのか、”アメリカ人のくせに”日本のオタク人たちにかなり近い感覚を持っていると思われる。
思うに投稿している人たちは「普通の映画ファン」たちであって、「オタク」の人たちではないんだろう。
わたしはこの映画を日本のアニメ「エヴァンゲリオン」や「涼宮ハルヒ」と同種の映画だと思う。「オタク」でない人たち、「オタク」なんて分かりたくもない人たちには「だから、そうなんだろう?」と表面的な部分でだけ思われるかも知れないが、是非両作のディープなオタクファンの人たちが「エンジェル・ウォーズ」をどう見たか、意見を聞いてみたいものだ。(と書いておいてなんですが、わたしも両作はディープなファンではなく、むしろアンチ側です。)
この映画のストーリーが現実に成り立つかどうかなんて、どうでもいいのだ。ストーリーを含め映画自体が「表現」であり、この映画は現代社会の一面を鋭く切り取った「社会風刺映画」とわたしは見た。「ロック的」と書いたのと同じ意味だ。ロックの歌詞が「表現」でなくていったいなんだというのか? そんなに「本当のこと」がいいなら「表現」なんか楽しむのをやめて学術論文でも読んでりゃいいんだ。
原題は「SUCKER PUNCH」=不意打ち、という意味だそうだが、「エンジェル・ウォーズ」の方がずっと内容を具体的に表していていい。どうもアメリカ映画のタイトルは文学的に気取った抽象的な物が多いが、タイトルを見ただけでは中身がさっぱり分からない。わたしはどうもこの原題には「不意打ち」とは別のスラング的意味が込められているような気がして、あまり好きではない。
……と、ついついまた独りよがりの擁護意見を書いてしまいましたが、自分のこの見方も相当偏っているのは十分承知しております。けれど、どうもみんな映画の見方が「狭い」なあと感じるのです。
映画、好きなんでしょう?
いろんな映画があって、面白いんじゃないですか?
批判的な意見の多くはどうも最初から「この映画はこうでなくてはならない」という勝手な思い込みがあるように思えてならないのです。かくいうわたしもこの文章の通り相当思い込みが激しく、自分の脳内世界に簡単にトリップしちゃう人間ですが、映画を観るときは出来るだけニュートラルに、素直に観るようにしています。あれこれ考えるのは全部見終わってからで。
もっと、おおらかに、自由な見方を楽しんだ方がいいんじゃないかなあ……と、思います。