スーパーマン リターンズ
「マン・オブ・スティール」の、一部、酷評にムッとして、じゃあ批評家の評価は高かったらしい、スーパーマン=クリストファー・リーヴ、リチャード・ドナー監督版の正統な続編である2006年「スーパーマン リターンズ」の私評を。
「マン・オブ・スティール」をあくまで「スーパーマン」として邦題を考えるなら、「スーパーマン ユニバース」なんてどうかと思いますが、「スーパーマン リターンズ」に副題を付けるなら「〜ボクのスーパーマン」なんてどうかと…………あ、ごめんなさい。
この映画の最大の特徴は、
監督 = ブライアン・シンガー
につきると思います。
「XーMEN」シリーズを裏切って「スーパーマン」を選んだブライアン・シンガー監督、思い入れは並々ならぬ物があったと推測されます。
物語は前作(1981年「スーパーマンⅡ 冒険篇」)から5年後、地球を去ったスーパーマンが帰還するところから始まる。
帰還したスーパーマンの最初の活躍はジャンボジェット機を暴走、墜落から救うことで、試合中の野球スタジアムにジャンボ機と共に降り立ったスーパーマンに満場の観客は大歓声。スーパーマンは熱狂と共に帰還を歓迎される。しかし。
スーパーマンが宇宙に旅立ったのは生まれ故郷の星クリプトン星の爆発が観測されたためで、その様子を確かめに行ったのだった。しかしそこには何もなく、スーパーマンは失意の内に育った故郷地球に帰還したのだった。
スーパーマン不在の5年間に彼を取り巻く環境は劇的に変化している。なんと、彼の思い人である新聞記者ロイス・レーンは他の男性と結婚して一人の男の子をもうけている。しかも彼女は「我々は何故スーパーマンを必要としないか?」という記事でピューリッツァー賞を受賞していた。
もはやスーパーマンは必要ではないのか? しかし彼が耳を澄ませば、地上には助けを求める声が満ちている。彼女は何故、自分は必要ないと言うのだろう?
そんな折、宿敵である悪の科学者レックス・ルーサーが世界規模の大災害を引き起こすある計画を実行する。その阻止に向かったスーパーマンは無敵のスーパーマンに唯一有害である鉱物クリプトナイトによって力を奪われ、窮地に陥ってしまうのだった・・・・
最初のジャンボジェット機のシーンは素晴らしいです。迫力と臨場感があって、昔の映画に比べるとSFXが格段に進化していて、映画館のお客さんもスタジアムの観客同様、オーッと盛り上がってスーパーマンの帰還を大歓迎した思います。
しかし映画のテーマは、
何故我々はスーパーマンを必要としないか?
であり、裏を返せば、
今、スーパーマンを映画にする意味があるのか?
ということでしょう。最愛の恋人に「あんたなんかもういらない」と言われてしまったスーパーマンもショックでしょうが、監督以下主要スタッフも「今スーパーマンって、意味あるのかなあ?」と悩んだことでしょう。その悩みと答え探しがそのままストーリーになっています。
スーパーマンというのは、特にアメリカ人にとって、アメリカの良心だと思うのです。強いアメリカが、世界の困っている人たちに救いの手を差し伸べてやろう!と。
しかし現在の混沌とした世界情勢の中で、昔のような単純な「アメリカ・イズ・ナンバー1!」「アメリカ・イズ・ワールドスタンダード!」という価値観は、外からは嫌われて、自分たち自身も悩みモードに入ってしまって、まさにスーパーマンなんて、「今更」「場違いな」という風に見なされているのではないか?と。
スーパーマンというのは今やアメリカ人にとっても「古き良きアメリカ」の象徴のような物で、とても現代性を持ち合わせたキャラクターではなくなっているのではと思われます。
でもやっぱり、アメリカ人はスーパーマンが大好きなんでしょう。スタジアムで大歓迎するのはその心の現れでしょう。
クリプトナイトによって無力になったスーパーマンが、ただのチンピラみたいな奴らにこれでもかこれでもかとボコボコにやられるシーンがあります。
このシーンは悲しい。自分が子どものような気分になってしまう。スーパーマン=クラーク・ケントは本当に純粋な正義の心を持った青年で、その彼がチンピラ風情の悪い大人たちにボコボコにやられる姿というのは、思わず涙がにじんできて、「この馬鹿あ〜〜っ!!」と無力ながらに悪い大人に殴りかかっていきたくなってしまう。純粋な善意が、悪に踏みにじられる悔しさと悲しさが、このシーンから痛いほど伝わってくる。
スーパーマンは正義の味方なんだ!
スーパーマンは強くなくちゃ駄目なんだ!
僕たちは、強い、正義の味方のスーパーマンが、大好きなんだ!!
・・というのが、この映画に込めたブライアン・シンガー監督の思いなんじゃないかなあ?と思います。
その溢れんほどの「スーパーマン愛」はよおく分かります。
ただ問題は、
「今、我々はスーパーマンを必要としているのか?」
という設問に対して、納得のいく答えが得られたのだろうか?ということで。
基本的なところで、「スーパーマン」の映画を作ろうとしたとき、やはり真っ先に考えるのは「スーパーヒーローのスーパーマンにどんな大活躍をさせてやろうか?」という、主にビジュアル面での具体的な面白さだと思うのですが。
ここでの悪役は毎度お馴染みの悪の科学者レックス・ルーサーで、まあ悪いことを考えるんですが、今回はケヴィン・スペーシーが演じていてなかなかいいんですけれど、やっぱり、スーパーマンの敵役としては物足りない。
スーパーマンのアクションが基本的に全部「落下をくい止める」パターンで、結局のところ一番最初のジャンボジェット機のシーンが一番良くて、だんだんと、「もう飽きちゃった」とトーンダウンして行っちゃいました。
スーパーヒーロー映画は、危機に陥ったスーパーヒーローを、観客が「頑張れ!」と応援する気分になれるかどうかだと思うんですが、アクションの面白さが「大規模な崩壊」に偏っているというか、その一点張りで、それをくい止めちゃうスーパーマンに「なんだよ、邪魔すんなよ」という悪の気分になってしまう。優等生過ぎる人間に「おまえ、面白くなーい!」とケチを付けるような気分になっちゃうんですね。悪い奴だなあ。
アクション面から見た場合、「今、何故スーパーマンなのか?」という期待には答えられていないかなと感じました。
全体的に話が地味で、言っちゃあなんだけど、つまんないんですよ。ファンの人には申し訳ないけれど。
監督ブライアン・シンガーが、「どうスーパーマンを大活躍させるか?」以前にテーマ的なことで生真面目にあれこれ考え過ぎちゃってるんじゃないかなあ?という気がします。
この作文の冒頭で「〜ボクのスーパーマン」なんて嫌みな事を書きましたが、もっと嫌みな事を書くと、この映画全体が、熱狂的なファンの描いた同人誌マンガのような印象です。作品やキャラクターに対する思い入れは十分に分かった。でも、君がどんなに好きか、どんなに思っているかは、外の我々にはけっこうどうでもいいんだよね、と、ちょっと白けた、意地悪な気分になってしまいます。
まじめにスーパーマンというキャラクターの本質を考えた、良い映画だったとは思います。しかし、娯楽としてのサービスが期待はずれ。
リチャード・ドナー版の「スーパーマン」は、その後も「4」までシリーズは作られたわけですが、はっきり言って最初の2作で「スーパーマンという素材で面白いこと」は全部やり尽くしちゃった感じがあります。そこから先の展開は、やっぱり難しかったですね。
映画の終わりは、「(故郷を無くし独りぼっちの)スーパーマンに対する優しさ」で締められます。
設問に対する答えは、
「我々が必要とするかどうかの問題ではなく、我々は君を愛していて、君にいてもらいたいんだよ」
ということでしょうか。
ともかくも、スーパーマンに対する監督の愛が過剰とも言えるほどに詰まりまくった映画に思えます。
アメリカも、愛に飢えているのかなあ?