カールじいさんの空飛ぶ家
テレビで鑑賞。
最初の10分でエンドマークが出たらこれでアカデミー短編賞決定ですね。
このプロローグ部分は本当にいいですね。
この素晴らしくいいプロローグで、主人公カールじいさんの人生というのはもう終わっちゃったわけです。ここから先人生のピークがあるなんてあり得ない。それを分かち合う最愛の奥さんはもういないんだから。
ひとりぼっちになって、仏頂面で表のポーチ(階段だったかな)に座るじいさんの周りでは大規模開発の工事が行われて家はただ一つ取り残されている。世間から見たじいさんはいつまでも意地悪をして居座っている偏屈な頑固ジジイです。じいさんの方も世間から冷たい仕打ちを受けていると思っているかも知れないけれど、世間の方から見ればいつまでも新しい環境を受け入れてくれない迷惑な存在なわけです。
どうしようもない羽目に陥って、困り果てたじいさんは、家を大量のヘリウム風船で飛び上がらせるというびっくり仰天の方法で、幼い頃から奥さんと冒険を夢見ていた南アフリカの天空の台地を目指して旅立つのでありました。
このシチュエーションでおじさん的に思い出すのが、「風船おじさん」です。
若い方は知らないでしょうね。
かつてヘリウム風船のゴンドラでアメリカ目指す冒険の旅に出て、そのまま行方不明になってしまったおじさんがいたのですよ。
今調べてみたら1992年のことで、改めて情報を見てみれば相当むちゃくちゃなおじさんだったようですね。
このアメリカへの太平洋横断旅行も、周囲から「無謀だ」とさんざん止められていたにもかかわらず、高度実験の最中に「では行って来ます」と勝手に旅立ってしまって、結局その後海の上空で姿が確認されたものの、雲の中に入って、それっきり、現在に至るも行方不明のままです。
カール「風船の家」じいさんに戻って。
この映画は歴代ピクサー映画の中で最も荒唐無稽な映画じゃないでしょうか?
人間が主人公の映画で、「逆だろう?」と思われるでしょうが、
例えば、夜中おもちゃたちが勝手に動き回ったり、子どもたちの悲鳴を回収してエネルギーにしているモンスターの会社があったり、生きた車たちの世界があったり。
そうしたファンタジー以外の何物でもない映画の方が「荒唐無稽」と思われるでしょうが、でも、ひょっとしたらそれは人間が知らないだけで、そういう世界が存在しているのかも知れないと言う、いわば「サンタクロースを信じますか?」といった種類の話で、少なくとも映画の中の登場人物たちにとってはリアルな世界なわけです。
しかし「カールじいさん」が物語の舞台としているのは、我々が暮らしているこの現実の世界で、「大量の風船で家が空を飛ぶ」というのは大嘘なわけです。
実際に風船で家が浮くのかどうかは分かりませんが、「風船おじさん」の例に見るように、南アフリカの雲を突き抜けるような高地にまでたどり着けるとは、ちょっと考えられません。
この映画、賛否両論、というより、好き嫌いがかなり割れる映画なんじゃないか?と思ったのですが、例によって映画情報サイトの一般のレビューを見ると、おおむね好評なようで、相変わらず外れてるなあと思いつつ、やっぱり「こんなことあるわけないだろう」という当たり前の感想もうんと少数ですがありました。
この映画は、ファンタジーファンである人たちが、どういうファンタジーを求めているか?のリトマス試験紙になっているんじゃないでしょうか?
現実の世界に「こんな事が起こったらいいなあー」と夢想してそれを楽しむか、
現実なんかどうせつまらないから、「ファンタジーの世界」を夢想して楽しむか。
どちらがよりリアリストで前向きなのか分かりませんが、後者の方がリアリストといえばリアリストなのかな?と思います。
ちなみにわたしはどちらかと言えば前者ですね。嘘と分かっていても「楽しいからいいじゃん」という。
「カールじいさん」は初めから大嘘の大法螺映画で、
楽しみどころはどれだけその大法螺を楽しめるか?になるかと思いますが、この点この映画はすごい! いやあ、CGの進歩はすごいですね。この質感、まるっきり本物ですよ。途中で気づいたんですが、これ、3D映画でしたね。映画館で3Dで観たらさぞかし迫力があって面白かっただろうと思います。
しかし法螺というのは最初から「法螺だよ」と言ったのでは面白くなく、どれだけ「本物っぽく」語るか?が演出の上でも勝負になります。
大量の風船がパアーッと広がって、家が浮き上がったときに、「わあ、すごい!」と、呆気にとられて見送る街の人たちと同じ顔で見ることが出来たら、成功なんじゃないでしょうか?
ここで「でたらめだ」と白けてしまう人はこの映画には向きませんね。
この映画を見ていてわたしが感じたのは
「やっぱりストーリーだな」
ということ。
こうした文章を書きたがる人間は「この作品のテーマはどうのこうの」と語りたがるわけですが(自嘲)
テーマのために作られた話というのはたいていつまんないです。
テーマなんてのは見た人一人一人が勝手に自分のテーマを感じ取ればいいのです。少なくとも、
作者が「この作品のテーマは」と語っちゃ駄目ですね。
テーマなんてのは作品を見た人の数だけ存在して、「こうでなくてはならない」なんていう正解はない。たとえ作者が「そういうつもり」で作ったにしても、見た人の感想が違っていれば、それは正解ではない。
どうもレビューというものを書きたがる素人評論家にはそれが分かっていない(自嘲)人間が多く、一方この映画のスタッフは、それを分かっていると思う。
話は、面白ければそれでいいんです。
「大量の風船で空を飛ぶ家」という荒唐無稽な冒険は、あっという間に舞台を憧れの南アフリカの天空の台地へ移し、大嘘の荒唐無稽な冒険が続く。
ピクサーといえばジブリと連想しますが、
やたらおしゃべりで迷惑なボーイスカウトの男の子が家に乗って付いて来ちゃって、まあこれがうるさくてイライラさせられるわけですが、「これって、リアルしんのすけじゃないの?」と、ジブリというより「クレヨンしんちゃん」を連想しました。クライマックスは「未来少年コナン」を彷彿とさせますが、ハラハラドキドキのアクションの中に織り込まれるギャグも「クレヨンしんちゃん」っぽいなと。このはた迷惑な苛つくガキがだんだんかわいく感じて来ちゃうから自分に腹が立ちますね。あーあ、まんまとやられてますよ。
これだけ高級なリアルな絵でも面白いんだなあ。日本映画もパクられてばかりじゃなく頑張ってほしいですね。ネタはいっぱいあるんだから。積み重ねが大事ですね。一作失敗してさっさと店たたんじゃ駄目ですね。(←まあ、色々と)
テーマを語りたがる人間にチクリと嫌みを書きましたが、カールじいさんにとってこの冒険は完全に余生だと思うのです。心から愛していた奥さんが亡くなって、周りから追い立てられてどうにもならなくなって、はっきり言えば、死に場所を求めて旅立ったようなものだと思うのです。そんなじいさんに、
「そんなこと言わないで」
と、優しく尻を叩いてやったのが、奥さんとの思い出がいっぱいつまった「家」ではなかったかと。
この冒険はじいさんにとっては年寄りの冷や水だったと思うのですが、思いがけず冒険に同行してしまったおしゃべり少年からすれば、
「あのねあのね、おじいさんに親切にしてあげたらね、空飛ぶ家に乗ってね、南アメリカの空まであるみたいな高ーーいビルみたいな崖の上に着いてね、それでねそれでね、そこでね」
と、人生初期の大興奮の大冒険だったことだろう。
ここでまたチラッと最初の10分を思い出す。具体的には言わないけれど。
カールじいさんにとっての人生のクライマックスは決してこの冒険ではなかったと思う。人生のクライマックスはとっくに過ぎてしまって、それでも人生は続く。じゃあ後の人生がただのおまけのような物かと言えば…………それは人がそれをどう思うか、自分で決めることだろう。
人生は自分一人で回っている物ではないし、自分も他の人の人生の一部だ。
自分の人生の主役はもちろん自分だけれど、それは決して他人を受け付けないと言うことではない。
失う物があって、また得る物があって、要するに、
その時その時、生きている楽しみを味わえばいいんだろう。
過去は過去、現在は現在、そして未来。その時々で、過去、現在、未来、その意味も変わっていくだろう。
同じ事柄でも一つの意味に執着していると、あまりいい結果を呼ばないんじゃないかな?
あくまで特別な冒険にこだわって旅立った風船おじさん。
この人も本音ではどうにもならなくて、旅立たざるを得なかったのではないかと思う。
その無謀で、大法螺吹きの結末に、
ほら見ろ、迷惑な大馬鹿者め、と顔をしかめる人もいれば、
その冒険のロマンを讃える人もいる。
そこにどういう意味を求めるかは、他人の勝手で、おじさんの気持ちとは別だろう。
現実はやっぱり物理の法則に則ってしか動かなくて、ファンタジーのようなでたらめな奇跡は起きない。
それでも
「そうだったらいいよね」
と、映画の中でくらい、信じたいと思います。