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チョ〜素人向けフランク・ザッパ入門 SIDE:3

 知っていると威張れる?ザッパのうんちくを披露するのに


「フランク・ザッパ・ミーツ・ザ・マザーズ・オブ・プリベンション」(85)


 を紹介しましょう。ザッパの初期バンド「ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション(発明の母)」のパロディーみたいなタイトルですが、これがどういうアルバムかというと、ジャケットに「警告シール」が印刷されています。

 今現在、時折洋楽のアルバムに見られる「パレンタル・アドバイザリー」の警告シール。つまり、歌詞に子どもに聴かせるには不適切な表現があるので(保護者は)ご注意ください、という意味ですね。

 この警告シールが導入されるきっかけとなったのが、出ました、プリンスの大ヒットした「パープル・レイン」、この中に非常にわいせつな歌詞があるのに、子どもたちが聴いているのを聴いていて気づいて慌てまくったのが、「不都合な真実」のゴア元副大統領の奥様、ミセス・ゴア。これはいけない!と猛然と行動を起こして、この警告シールの導入の準備のための公聴会を開き、ここにはゴア副大統領も出席したわけですが、導入に反対する側の証人の一人として出席したのがザッパ。

 この公聴会の各人の発言を部分的にピックアップし、特に女性(ミセス・ゴア)の発言の中から卑わいな単語だけ切り取って、コラージュした「ポルノ・ウォーズ」という曲をハイライトに、反対キャンペーンのために緊急発売したアルバムです。タイトルを見るとスケベな男子諸君は聴きたがると思いますが、この曲自体は現代音楽作品で、楽しいものじゃありません。

 このアルバムまで、ザッパは鋭い知性によって社会の構造的なトリックというものを(ちゃかしながら)えぐり出す作品を多く発表していましたが、直接政治的な運動をしようということはしなかった。例の大人子どもの感覚で、ミュージシャンがんなことやってもしょうがねえだろ?みたいなところがあったのかも知れませんが、元々はシリアスな観察眼を持っている人で、これ以降猛烈に直接的な政治行動を起こします。それが、なんと最終的には大統領選挙に立候補することをかなり具体的に進めていたようですが、これはガンの発見もあって断念することになりましたが、コンサート会場で選挙人登録するコーナーを設けて登録を訴え(アメリカでは選挙人登録しないと投票できない)、ライブビデオにも「登録しましょう」と訴えるCMが挿入されています。(ちなみにザッパは民主党支持者)

 そんな立派なザッパ先生ですが、「ポルノ・ウォーズ」のやり口は感心しませんね。アルバムの存在自体は広くロックファンにこの実質的に検閲に通ずる警告シールのことを知らしめる役割……は果たしたのかな? ザッパのアルバムがそんなに売れるとは思えないんですが、少しは話題になったんでしょうか?

 しかしこの問題をシリアスに考えている女性に曲の中で卑わいな単語を連発させてちゃかすようなやり方は、やはり褒められたものじゃないですね。ザッパ信者は何でもかんでも褒めようとするからろくなものじゃないです。(もっとも導入推進派のセレブ奥様軍団は「セクシャルなことはいっさい駄目!」と何でもかんでも禁止するような態度だったようですから、音楽ファンからは大ひんしゅくだったんでしょう)

 表現者というのはとかく馬鹿の一つ覚えで「自由」を口にしますが、いざというとき、本当に自由を守らなければならないときに権力者に足下すくわれないためにも、日頃から自分たちが持っている自由という権利の意味を、もっと真剣に考えてほしいですね。


 ※ ※ ※ ※ ※


 いけない、長くなりすぎてもう読んでくれてる人はいないかな?

「チョ〜素人向けフランク・ザッパ入門」

 と宣言したからには、聴いてみようかな?というありがたい方のために初心者お勧めアルバムを紹介したいんですが。

 これがですね、ザッパファンの悪しきところで、

 わたしが持っているCDは「FZ1993年承認マスター使用」という黄色い帯の国内版が中心なんですが、この帯の宣伝文句にやたら

「初心者にもお勧め」

 という言葉が出て来るんですね。

 なんかムカつきませんか?

 なんかいかにも「自分は分かっている」玄人ファンが、素人に「まあ教えてあげようか」みたいな偉そうな態度で。

 解説文にやたらと音楽の方法論がどうのと、小難しい音楽専門用語が出てきたりですね、

 知らねえよ、んなもん。ですよ。

 こういうインテリファンの「より深くフランク・ザッパの音楽を理解させてあげよう」みたいな余計なお世話がですね、またまた普通のポップス、ロックファンを遠ざけてしまっているんですね。

 まあ、そうなんでしょうね、ザッパの音楽というのはそうした高い音楽的知識に裏打ちされた、実はとても立派なものなんでしょうね。

 でもさあ〜〜〜、ですよ。



 もう開き直りでまた脱線しますけれど、「のだめカンタービレ」のヨーロッパ編って、どうでした? なんかラストに向かってどんどんつまんなくなっていっちゃったなあ……って気がするんですが。

 本場ヨーロッパで勉強するのだめに、

「楽譜の読み方」

 が厳しく要求されますね。楽譜の背景となる、当時の社会や、作曲家についての知識ですね。それを知らなければその音楽を正確に知ることは出来ないと。

 わたしこれ見てて、「つまんねーなー」と思ったんですよね。いいじゃねえか、そんなもん、好きに読めば、と。

 今はもうすっかり一つの表現法として定着しましたが、古楽器=今はピリオド(時代)楽器と呼んでますが、作品が作られた当時の楽器で演奏するということ。楽器も日々進化していまして、主により大きな響きのある音になっていると思うんですが、当時の楽器とは音色が違っている。これはこの作品の音ではないのではないか?ということで、演奏のめんどくさい当時の楽器をわざわざ使って演奏するという運動が始まった当初(1970年代?)は、そういうことに意味があるのか?と、賛否両論……どちらかというと否定派が優勢だったように思うんですが、ありました。……という古いFM雑誌の記憶があります。

 今はもう一つの表現方法として、ピリオド楽器も、モダン楽器も、両方それぞれCDや演奏会で楽しまれるようになっていますね。

 わたしもですね、「意味ないんじゃねえの?」という意見でして、当時の人間と、今の自分たちと、社会のテンポも、音の環境も、全然違っているんだから、今の環境に合った音を楽しめばいいじゃないか?と基本的に思っています。たまに聴く分には変わっていて面白いかと思いますが。

 そもそもですね、クラシックって、曲は決まっているわけじゃないですか? ファンじゃない人はどうして同じ曲のCDが何枚も何枚もあるんだ?と、それこそ「意味ないじゃん?」と思うと思うんですよね。これが当たり前の意見だとわたしも思いますし、だからクラシックファンというのはろくなもんじゃなくてですね、細かいどうでもいいようなことを得意になってあーだこーだと言いたがるんですよ。一人で言ってろ。

 60年代から80年代、ヘルベルト・フォン・カラヤンというスーパースターの指揮者がいまして、わたしも聴くならカラヤン!というカラヤン信者でした。カラヤンの演奏はとにかく正確で、メリハリがはっきりして、カラフルで、分かりやすい、映画で言えばハリウッド映画みたいな感じです。

 カラヤンを悪く言う人は、「まるで機械(今で言えばコンピューター)が演奏しているようだ」と正確すぎる演奏が面白くないといちゃもんを付けていましたが、確かに今聴き直してみると飽きちゃったなというところはあります。

 今聴いて「面白〜〜い!!」と喜んじゃうのは、シャルル・ミュンシュですね。とうに亡くなっていますが。何インテリぶってんだと思われるでしょうが、ミュンシュ/パリ管のベルリオーズ「幻想交響曲」を聴くと、「面白〜〜い!!」という感覚は分かってもらえると思います。ものすっっっごい、演奏です。熱狂するか、笑うかしかない演奏です。指揮者によってこんなに曲が違うかという顕著な例です。

 この演奏が、果たして作曲家のことを理解して、楽譜通り正確に音楽を「再現」しているのかというと、「きっと違うだろうなあ〜」と思います。思いっきり個人的感情の入りまくった力演ですから。作曲家はきっとこんな額に青筋立てて楽譜を書いてはいないと思います。


 自分が作曲家だったとして、楽譜を読むのに、楽譜以外の情報を読む人間に求めるかと考えると、絶対にそれはないと思います。

 必要なことは全部ここに書いてある。これがわたしの作品だ。それをどう読むかは、君が自分で考えなさい。

 と、思うだろうなと思うのです。作曲家は小説家なんかとは違って(ソロの器楽曲以外)自分で「音楽」という音を完成させることは出来ませんから、もしかしたら楽譜上にはすべて表せていないと考える作曲家もいるかも知れませんが、たいていは演奏家に任せて、音楽を完成してくれるのを楽しみに待つものじゃないでしょうか?

 いわゆるクラシックという音楽が今日も普遍的に聴かれているのは、それが音符という記号で書き表され、その時代その時代のセンスで生きた音に再現されるから、ではないかと思います。これがアーティスト本人による唯一無比の「レコード」という固定された音だったら、それは時代と共に確実に古びて、消えていくと思われます。

 表現には2種類の意味があると思うんですね。

 表すテーマがはっきり固定されていて、そのテーマをより自身に引き寄せてリアルに感じてもらうために行う表現。

 あえてテーマを追求せず、受け手の感性で自由に想像してもらおうと行う表現。

 ドキュメンタリーには前者の、娯楽作品には後者の表現が多いかと思います。

 音楽における表現は後者の方が圧倒的に多いと思います。受け手の側に任される広い幅があるから、特に音楽という表現は、これだけ大衆的に広く親しまれているのだと思います。

 表現というのは、誤解されることも含めて表現なんでしょう。

 何が何でも作曲者の思い描いたとおりの音楽を再現しなければならないと言うのであるならば、レコードなんかみんなカラヤンでよく、演奏会も「どれだけ上手にお手本を再現できるか?」という競技会みたいになってしまう。

(※訂正:ミュンシュと共にスヴェトラーノフ/ロシア国立響のチャイコフスキー交響曲を例に挙げていましたが、ムラヴィンスキー/レニングラード・フィルと勘違いしていました。名前が同じエフゲニだし。もちろんスヴェトラーノフも大指揮者でむしろ文章の内容には合っています。ムラヴィンスキーで「過剰な熱演」と感じたのは別の作曲家の演奏でチャイコフスキーはむしろ作曲家が「我が意を得たり!」と100点満点を付けるだろうたいへん格調高い素晴らしい名演でした。いい加減な思い込みで書いてますね。反省。)


 ザッパの音楽に対してインテリが専門的な解説をひけらかすのは、ザッパの音楽を狭い型に押し込めることなんじゃないかと、ノンインテリのひがみで思ったりします。


 なんでもあり、ごった煮状態の「レザー」でザッパがアルバムコンセプトとして掲げたのは、



「どうだ? 音楽ってのは、こんなに面白いんだぜ?」



 ということではないかと、わたしは勝手に思っています。

 ザッパの音楽をロック側から見ると、「複数ジャンルを融合したロック=ミクスチャーロックの走り」という評価がされると思います。

 最初っからものすごく幅広い音楽キャパシティーを持っていたザッパが、生涯掛けてやってきたこと、それは、


 音楽の型(ジャンル、形式)からの解放


 だったのではないかと思います。どんな音楽でもどん欲に

「楽しんじゃえ!」

 という姿勢で一貫していたように思います。

 その楽しみ方が半端なくて、後期に行くに従い要求されるテクニックがハイレベルすぎてミュージシャンはたいへんだったようです。

 ああ、まだ終わらない。次でほんとに最後です。

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