表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/100

暴力とポルノ

 脳内出血を起こしそうな封印ネタ第2弾。この際だから鬱々と溜まっている物を吐き出してしまおうかと。前回同様まったく楽しい内容ではありませんので嫌な気分になりたくない方はどうぞお読みにならないでください。


 まずは暴力について。


 以前別のところで書いたキューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」のレビュー。


「この映画の評価は難しい。最初観たときは物凄い嫌悪感を覚えた。その反応が正しいと思う。キューブリックは例のごとく暴力の魅力を魅力的なまま撮している。キューブリックはまるで悪党仲間の一員になって、今で言えば動画サイトに投稿するようなつもりで、喜々としてカメラを回している。正常な人なら当然嫌悪感を持ってしかるべきだが、アレックスたちと同じ種類の人間には大喝采をあげて歓迎されるだろう。そして困ったことには、今となってはわたし自身その映像に心地よい魅力を感じてしまうのだ。まるで麻薬のような映画だ。この映画は毒であり、取り扱いには厳重な注意が必要だ。キューブリックの才能が恨めしい。この映画の存在の是非を、今も観る度に測りかねる。」


 ついでにスピルバーグの「プライベート・ライアン」のレビューも。


「冒頭の戦闘シーン、顔面蒼白、頭が真っ白になった。ここまでのリアリティーが必要なのか?と言う批判は当然あっただろう。過去の戦争を正確に記録しようという作業には当然今の戦争に対する思いも込めているだろう。その作業において、戦争の是非はともかく、とにかく実際どういうものなのか?まずは知ってくれ、という強い思いがあるのではないか。戦争を決定する者が一兵卒と同じ戦場に同じ条件で身を置くことは稀だろう。物語で子どもたちを亡くした母親のため、兄弟の最後の一人を無事に帰還させるよう命令が出される。命令した者は可哀相な母親に対する善意からだろうが、実際に戦場で命令を受けた兵士たちは「はあ?何寝惚けたこと言ってやがるんだ?」というのが本音ではないだろうか? しかしアメリカは軍規に厳しい国である。命令や戦争の是非など一兵士の意見することではない。しかし戦争の意志はこうして決定されるのだ。だからこそスピルバーグはこれほど執拗に戦場のリアルにこだわったのではないか? まずは、見ろ、と。そして知った上で、考えるがいい。だから我々も目を背けずに、見て、知るべきである。」




 暴力=バイオレンスと似た要素にアクションがある。

 バイオレンスは、殴って、殴って、ぶん殴って、ショットガンでぶち抜いて、「ざまあみやがれ!」と高揚する物で、

 アクションは、眼前に迫った危機を寸でで回避して、「ひゅ〜、あっぶねえー」とスリルを楽しむ物……ととりあえず考えておこう。

 上の二つの分け方で、バイオレンスは社会的に顔をしかめられることが多く、アクションの方が女性にも楽しめる上等な物と評価されるんじゃないだろうか?


 映画やマンガのような娯楽において、バイオレンスは悪か?

 良識的な人は「よくない物だ」と否定的だろう。

 しかし残念なことに、バイオレンス=暴力は、人間の動物としての本質だと思う。すべての人にバイオレンスは本能として備わっていると思う。

 本能として備わっている物を否定することは出来るのか?

 個人的な感想として本能を解放するのは気持ちいい。多分多くの、少なくとも男性にとっては、同じなんじゃないかと思う。女性だって例えばゲームセンターのゾンビがうようよ出てくるようなシューティングゲームで、「くそ、くそ、死ねっ!」と辺りもはばからず熱中して興奮するのは楽しいだろうと思う。

 それがゲームや絵空事のマンガや映画で発散されるなら、それは健康的だと思う。


 しかし何事も限度がある。

 例えば「プライベート・ライアン」の冒頭、ノルマンディー上陸作戦の描写。書いたとおり最初は顔面蒼白で頭が真っ白になってしまったけれど……DVDで2度3度見たら、慣れました。顔面蒼白どころか、「行け行け!ぶっ殺せー!」という乗りで見るようになってしまいました。我ながら最低だと思いますが、極度の刺激はそれ自体快感になってしまうのです。人間とは常により強い刺激を求め、より新しい刺激を求める生き物で、その本質を非難しても仕方ありません。

 ですから何事もほどほどに。そればっかりに没頭してしまっては危険です。色々な方向へ興味を振り分けることが必要です。

 それが出来ない人間が、例えば「時計仕掛けのオレンジ」など見てしまうと危険です。


 ネットでこの映画の批評など探して読んでみると、

「この映画が実際の暴力事件を誘発しているなどまったくの言いがかりで、この映画の高いテーマ性を理解していない知性の乏しい批判である」

 といったような(かなり意訳)意見が見られる。キューブリック自身も

「過去の歴史を検証してみても芸術が現実の世界で暴力事件を引き起こすなど例がなく、まったくナンセンスである」

 とインタビューに答えているようです。

 映画の公開は1971年。公開後マスコミが「映画のせいで若者の暴力事件が増えた」と報道したせいでキューブリックの元に脅迫状が殺到、自身と家族の身の危険を考えたキューブリックは73年本国イギリスでの上映を全面禁止、英国においては死後ビデオ化された1999年まで封印されることとなった。

 実際に起こった事件がどうであったのか、わたしには分かりませんが、社会の空気に与えた映画の影響は確実にあり、それは大きいと思います。

 社会的な批判にさらされたキューブリックの感想は、

「え? たかが映画だぞ?」

 と、予想外の戸惑いだったと思います。その後慌てて上映禁止処分にして、ようやく自分の映画を客観的に評価して、「失敗だった」と相当腐っていたのではないかと想像します。

 実際見るとこの映画はかなりおふざけの過ぎた漫画的な描き方をされている。

 これはキューブリックなりのマンガなんだと思う。

 キューブリックのインテリジェンスでは「分かっていて」「楽しむ」、ブラックジョーク的な、あくまで娯楽のつもりだったのだと思う。

 この映画を誉める人も、きっと相当なインテリジェンスの持ち主だと想像する。

 だが、世の中というのはわたしレベルの馬鹿が大半を占めているのだ。この映画の正当なテーマ性を読みとれる高尚なインテリジェンスなど、全体のほんの一握りしか存在しないだろう。

 この映画でキューブリックは暴力を愉快に、気持ちよく、描いている。

 暴力=本能を解放するのは気持ちいいと、ありのままに描いているのだ。

 それは分かってやっているブラックジョークだろうが、問題なのは、それが分からない馬鹿たちなのだ。

 ゲームやマンガの暴力が人の暴力性を助長して実際の暴力事件を引き起こす。という論調に対して、そんなのは全体の中のほんの一握りの犯罪者だけだ。ゲームを、マンガを楽しむ全体を一緒くたに考えるな。と反論する。

 問題なのは、その一握りの犯罪者であり、その多くの予備軍なのだ。

 暴力は犯罪である。犯罪を犯すのは社会的に多大なリスクがあり、実際にそれを犯すのは一握りの制御の利かない人間たちだろう。しかし、その大きなリスクを前にギリギリ踏みとどまる、犯罪予備軍は、実際の犯罪者の数倍、数十倍、数百倍に膨れ上がるのではないか? そしてそうした人物たちは、警察が出動する刑事事件にならないまでも、周囲に暴力的な問題行動をとってはいないか?

 すべて頭の中の推論に過ぎないが、どうだろう? 実際自分自身の肌感覚として、今の社会にそうした暴力的な空気というのを感じないだろうか?




 東京都の「青少年の健全な育成に関する条例」の改正に対して反発が強い。

 多くの出版社、クリエーター、識者からの反対意見が多く表明されている。

 今回の改正では特にマンガやアニメにおけるポルノ的内容が規制の対象になっている印象が強いが、わたし自身、改正には賛成であります。

 これは主にホラーなんて物を書いている自分自身の首を絞めることになりますし、この裏切り者!と非難されるでしょうが、わたしだって積極的な賛成などしたくありませんが、現状を見ると、法の規制もやむなしとうんざりした気分になります。


 今回の規制とは微妙にずれるかも知れませんが、日本のポルノは本当にひどいと思う。

 アダルトコミックにしろアダルトアニメにしろアダルトゲームにしろアダルト小説にしろアダルトビデオにしろ、堂々とレイプだの痴漢だの監禁だの輪姦だのとタイトルで歌っているようなポルノは、他の国では考えられないのではないか?

 日本人の性犯罪に対する意識は異常に低いと思わざるをえない。

 そうした物を楽しむ者は、いや、俺たちは実際の犯罪者ではないしと言うだろうし、それを作る者、出版する者も、これはあくまでフィクションの娯楽であり、悪い性衝動を抑制して実際の犯罪に駆り立てるのを防いでいると言うだろう。

 性犯罪は現実の事件であり、フィクションではない。

 事件が起こればそこに確実に被害者がいる。

 その被害者の恐怖や苦しみを娯楽として楽しむとは、何ごとか!


 そう言えば「じゃあミステリーなんてどうだ? あれだってほとんど殺人事件を題材にしているじゃないか?」と反論するだろう。

 その通りだ。ミステリーというのも考えてみれば俗悪な物かも知れないし、低レベルのくだらないミステリーはそうだろう。

 しかし、ミステリーは殺人そのものを楽しむ物ではない。多くのミステリーは「犯人は誰か? どうやって犯行を行ったのか?」を解く知的クイズであり、殺人事件はその題材であって、殺人そのものを楽しむ物ではない。

 もし殺人そのものを楽しむような物があれば、それは社会的にバッシングされ、俗悪な物と軽蔑されるだろう。だから血塗れホラーなんかはそういう扱いを受けている。

 ミステリーにもホラーにも問題は多い。それは曲がりなりにもそれに関わる者として考えていかなければならない。


 今問題にしたいのはポルノだ。

 何故ポルノは犯罪者側の立場に立って犯罪を楽しむという内容の物が、これほど大量に溢れかえり、社会的になんのおとがめもないのか?

 わたしはこれを異常だと思う。


 日本は世界的に見て犯罪が少なく、性犯罪も少ないと考えられている。

 本当にそうか?

 犯罪が少ないのは日本がおおむね豊かに安定した社会であり、多くの人間にとって犯罪を犯すリスクが自分の生活に照らし合わせて大きいからだろう。

 性犯罪も同じだろう。それはポルノが抑制しているからではない。

 わたしはむしろ性犯罪の悪質化を助長しているのではないかと危惧する。

 人が犯罪を犯すのは、その人物が犯罪を犯す人間であるからだ。同じ条件を与えられても多くのまともな人間は実際の犯罪を犯すことはしない。たとえその欲求が強くあっても、実際に行うのと、行わないのとでは、0と1の差がある。距離は近くとも存在するとしないとではまったく違う。

 要するにポルノと実際の性犯罪の発生件数はあまり関係がない。

 しかし、その取り巻く空気が大いに違ってくる。


 青少年健全育成条例に反対する者は

「表現の自由」

 を主張する。

 自由。

 はたしてでたらめというのは自由と呼ぶだろうか?

 自由は、でたらめといっしょにされて、それでいいのか?

 自由を自由として確保するためにはでたらめもまた自由と飲み込まなければならないと考えるかも知れない。

 わたしは全く逆の考えだ。

 自由が自由を獲得するためには、それに伴う責任を全うする義務があると思う。


 日本はアメリカ国務省の人身売買報告書で「Tier2: 人身売買撲滅のための最低基準を十分に満たしていないが、満たすべく著しく努力している国」に2012年まで7年連続で分類されている。この中で外国人女性の強制的な性的搾取が含まれる。ちなみに韓国は最良の「Tier1(1等級)」に分類されている。たいへん恥ずかしいことである。

 いつだったかニュースでこれが報じられ、ちょうど従軍慰安婦の問題が取りざたされていたタイミングで、言いがかりだの陰謀だのと反発があったが、実際に事件があり、多くの外国人女性が保護されているのは紛れもない事実であり、日本人はそれを認め、問題解決に努めなければならない。

 性的搾取は、日本人の客があって成立するものだ。

 日本国内ばかりでなく、海外への買春ツアーなど、日本人の性的モラルの欠如を指摘されるケースが目に付く。


 自由なポルノがそれを助長していないか?


 世界でポルノ大国といえばアメリカである。それは事実だろう。しかし実はアメリカはポルノの内容に関しては非常に厳しく、日本のように暴力や犯罪で女性を隷属させるようなものは100パーセント絶対に考えられない。そんなものを作って発売すれば、即刑務所行きだろう。

 ポルノの内容的な厳しい規制に反発する者は、「そうは言ってもアメリカでは日本よりはるかに多くのレイプ事件が起きているじゃないか?」と指摘するかも知れない。

 日本とアメリカでは犯罪の発生率が全然違う。性犯罪もその一部だ。

 しかし、もしかしたらその指摘は当たっているのかも知れない。

 アメリカの開放的なポルノは馬鹿な男たちに「女はみんなセックスに餓えている」と勘違いさせるかも知れない。アメリカのショービジネス自体、露出の派手なセックスアピールを売りにするところがあり、自らそうした風潮を呼び込んでしまっているかも知れない。

 表現というのは難しい。受け手は送り手の望むようには受け取ってくれないものだ。それこそ、どう受け取るかなんて受け手の勝手だ。しかし、そこから先は受け手の責任と言えるだけの誤解のない表現を送り手は心がけるべきだろう。



 規制は、こうした犯罪行為は許さない、という社会からのメッセージである。



 それは犯罪者への厳しい睨みになるし、性犯罪被害者への私たち社会はあなたの味方ですよと言う励ましにもなる。

 翻って日本はどうか?

 繰り返し言うが日本のポルノの現状は異常だ。その中にいる日本人はそれを普通に考えているかも知れないが、それを普通だと思うのが、外からは異常なのだ。

 無自覚にもほどがあると思う。

 日本の性犯罪の発生件数は比較的少ないと書いたが、その数字をそのまま信じてよいものか?

 実際、性犯罪被害者が泣き寝入りをして警察に被害を訴えない件数がかなりあるという。

 何故そういうことが起きてしまうのか?

 性犯罪の被害者たちに、そうさせてしまう社会の空気というのがありはしないか?

 日本にはいまだに性的問題をタブー視する空気が濃厚で、それは主に女性に対する慎ましさを求める、男側からの要請が強いと思う。性的問題をはしたないと拒否する慎ましやかな婦人も多くいるだろうが、それが元々は男側から押しつけられた価値観ではないか?

 そして女性にそれを求める男が、何をしている?

 日本の社会はこんなにも性犯罪に対して寛容だ。平気で娯楽として、堂々と、楽しんでいる。


 被害者の立場に立ってみろ、

 自分がひどい恐怖にさらされ、言いようのない苦痛と屈辱を与えられ、

 その悪夢の体験を、

 男たちの性的娯楽として堂々と楽しまれているのだ。

 社会がそれを許している。社会は自分たちのことを何とも思っていない。

 いったいどんな思いがする?

 考えてみろ!


 性犯罪被害者の団体は、精神的苦痛を理由にポルノ産業を訴えてやればいいのだ。

 それは社会の無理解、無自覚に苦しめられている者たちの、当然の権利だ。

 何億円と慰謝料を支払わせてやればいい、

 そして社会に自分たちがいかに異常だったか目を覚まさせてやればいい。


 わたしはポルノそのものを否定するつもりはない。正直に告白すればわたしはけっこう好き者だ。本来偉そうなことを言える立派な人間ではない。

 セックスへの欲求は暴力衝動同様、人間が動物である以上、本質的に持って生まれた根元的な物だ。それを「無い」と否定するのはナンセンスだ。

 しかし人間は動物である以上に人間だ。

 人間とは、知性と想像力だ。

 想像力とは相手の立場に立って物事を考えることの出来る高度な精神性だ。

 日本の男社会はそれを忘れてないか?

 女性を性的奴隷として搾取する姿を国際社会にさらして、それで従軍慰安婦問題など日本の立場を主張して、まともに受け入れられると思うか?

 考えろ、馬鹿野郎!



 アメリカでは一般市民が銃を持つ権利がある。

 それを我々日本人は奇異に感じるし、実際そのために多くの悲惨な悲劇が起きている。

 それでもアメリカ社会は頑固に銃を持つ権利と自由を否定しようとはしない。

 それはアメリカ社会の旧態依然のマッチョイズムもあるだろうが、もっと根元的に自由という概念への強固な信念があるのだろうと思う。

 自由は初めから在る物ではない、自ら手に入れ、守らなければならない物である。

 それは個人個人が自らの責任において自らなさねばならない。


 本来自由とは甘ったれた物ではないのだ。


 常に御上に隷属している日本の一般国民は、そのことをまったく分かっていない。

 自由とは、それに伴う義務とセットで語られるべき物だ。

 自由、自由、と、甘ったれたでたらめをわめくいわゆる表現者どもに、義務という思想があるか?

 自分たちが垂れ流すでたらめな自由の責任を、取る覚悟があるか? いや、自分は自由な表現をしただけだから、というのは他人にそれを発表する以上、言い訳だ。

 レイプを娯楽として楽しんで描く、それが楽しまれるのが当たり前の空気を作り、その空気が実際にそうした犯罪の被害にあった女性の心を更に深く傷つけ、社会に背を向けさせる。

 自由はその結果をきちんと受け止める義務がある。

 おまえたちはその義務を自覚しているか?

 自分が本質的に何をやっているのか、自覚しろ!


 自由を主張するのならばそれに伴う義務をきちんと果たせ。

 自分たちでそれが出来ないのなら法律で強制されなければならない。

 何故青少年健全育成条例が改正されなければならないか、その理由を考えろ。

 現状があまりにひどすぎるからだ。

 我々の自由は国と社会に保障された物だ。国と社会に自由を許されない国の人民の悲劇は、分かるだろう? 自由とはすべての人間に与えられた物ではないのだ。

 我々は、自由を保障してくれる社会と国を守る義務がある。義務が果たせないのなら、我々は自由を手放さなければならないだろう。それでいいのか?


 自由とはなんなのか、曲がりなりにも表現者を自任する者は考えなくてはならない。




 暴力とセックスは、人間の本能であり、それを娯楽にすること自体は悪いことではないと思う。

 しかし人間が動物に堕してはいけない。

 暴力とセックスを描く者は、それを描いている自分を客観的に見つめなくてはならない。その本質的な意味と結果を考慮しなくてはならない。我々は社会に属する者である。社会にそれを発表する以上、そのことを念頭に置かなければならない。


 自由である今の状態を、我々はもっと意識的に大切にしなければならない。

 そのために何をしなければならず、何をしてはいけないのか、自らに厳しくしなければならない。

 自由は、一度失われてしまったら、取り戻すのは容易なことではないだろう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ