反戦映画は苦手です
※かなり感情的な内容になっています。ひどく不快な部分もありますので、気分を害されたくない方は読まないでください。
このエッセイ集はボツ原稿がけっこうあるのですが、多いのは暴力と戦争をテーマにした原稿です。
2012年8月15日。67年目の終戦記念日。
これを書いている現在テレビでは「私は貝になりたい」を放映していますが、真剣に作られた映画に対して申し訳ないですがわたしはとても見る気にはなれません。
わたしは反戦的なテーマを掲げる映画やドラマに批判的な意見を持つことが多いです。
以下、まったく楽しくない原稿であり、書いているわたし自身まったく意味のない物だと認識していますので興味のない方、嫌な気分になりたくない方はどうぞお読みにならないでください。
こう書いてファンには嫌がられると思いますが、わたしは最も効果的な反戦映画は「となりのトトロ」だと思っています。
反戦映画という物に関して、反戦を訴えたいのであれば具体的な戦闘シーンなどいっさい描かない方がいいというのがわたしの考えです。
これでもか、これでもかと悲惨な有様を描くより、なんの個人的なエゴも、社会的なエゴもなく、平和に幸福に生活している日常風景を楽しく幸せに描いてみせる方が、それを壊し、失わせる戦争という暴力の理不尽さを想像させることが出来ると思うのです。
反戦映画の何に批判的な意見を持つかというと、多くの反戦映画は自分たちを主体に、自分たちはこんなに苦しい悲惨な目にあった。だから戦争なんていけないんだよ、という文脈で語られると思う。ここら辺の認識はなにしろ苦手で見ないので多分そうだろうという偏見なのだが、だいたいそうじゃないだろうか?
自分たちはこんなにひどい目にあった。だから戦争はいけないんだよという理屈は、確かにそれは戦争という物の実体を伝えるために必要なことだと思うが、それだけで終わってしまっては駄目だと思うのです。
1991年の湾岸戦争を受けて……そうか、湾岸戦争自体もう若い人にはまったく知らない過去になるのですね。湾岸戦争の後始末でペルシャ湾の機雷除去作業に海上自衛隊の艦船が派遣されたが、その時出港する港で反戦の婦人団体だったと思うが、自衛隊派遣反対の抗議が行われた。その様子をテレビのニュースで見ていて、
「自分たちの子供を戦場に派遣するのか!?」
といったことを呼びかけていたと思う。それを見てわたしは非常に強い違和感を感じた。じゃあ、自分たち日本人の子供でなければ、アメリカ人の子供だったら、戦場に派遣されてもいいのか?と。
日本人の反戦意識というのは非常にレベルが低く、幼稚だと、わたしは思う。
それは日本人に限らず、むしろ戦勝国の方で顕著だと思うけれど。
日本は戦争に負けて、その後のアメリカの占領政策もあって、わたしたちその後の子供たちは皆学校で
「日本は戦争を起こすというとても悪いことをした」
と教えられ、戦争という大罪を犯した罪人の子供という劣等感を植え付けられた。
反戦映画にも根本には「日本国が起こした間違った戦争」という意識があり、その上で、「私たち一般の国民はこんなにひどい目に遭わされて」という恨み節が乗っかる。
日本は戦争に負けた。
では、日本が戦争に勝っていたら、どうだっただろう?
「長い苦しみに耐え、戦争に勝った。私たちの苦しみは報われた。バンザーイ!!」
と、なってはいなかっただろうか?
日本が戦争に勝っていたら、今の戦争への反省というのは、はたしてあるだろうか?
戦勝国を見てみるといい、彼らに「戦争を起こさせてしまった反省」はあるだろうか?
戦争を起こした悪のドイツ、イタリア、日本を、正義の連合国がやっつけた。悪は決して栄えない。正義は常に勝つ。というのが、戦勝国側の多くの人間の第二次世界大戦という物への評価じゃないだろうか?
戦勝国で作られる反戦映画……戦場とはこんなに悲惨な物なのだという描写は、けっきょくのところ、
「じゃあ今度はもっとスマートに敵をやっつけて、自軍の被害は最小限に抑えよう」
という反省にしかならず、現実に、今戦争は搭乗員のいないロボット兵器が行っている。これからこの傾向はどんどん進んでいくだろう。「ターミネーター」の悪夢が現実になっているのだ。「コンピューターが人類に反乱を越して」なんていうマンガみたいな話じゃないけれど、自国の兵士の戦死を気にすることなく攻撃の行えるロボット兵器は、収集した情報の分析によって、司令室から直接、敵を攻撃し、敵国の人間を死傷させる。直接現地の人間の皮膚感覚によらず、衛星を経由したモニターの中の情報で、容易に、一つのデータとして、人を殺しているのだ。それが、正しかったのかどうかの検証など、死人に口無しで、まともに行われるわけもなく、「我々は国を守る正しいことをした」という自己満足を覆すすべもない。人は便利な物を手にするとそれを使わずにはいられなくなり、その便利さは日常的な当たり前の行為になり、それを行うことの意味を考えなくなる。便利なロボット兵器を手に入れた人間は、果たして、自分がスイッチを押して殺している相手側の人間の痛みや苦しみを、少しでも想像しているだろうか? 人を殺すという行為が、機械の操作に置き換わり、人を殺しているという罪悪感を取り払ってしまう。それは「人間の感受性が機械に操られている」ことになりはしないだろうか?
日本は戦争に負け、空襲を受け、原爆を落とされ、悲惨な被害者になった。
日本人は原爆の非人道性、その行為の過ちを世界に訴えるが、原爆を落としたアメリカでは「原爆投下は戦争を早期に終結させた」との認識が大きいのではないだろうか?
ここでも考える。
では、日本が原爆を手にしていたら、日本人はそれを使わなかっただろうか?
そんな悪魔の所行には手を染めなかっただろうか?
それとも、戦争末期の劣勢を一気に逆転する手段として、国民もその完成に歓喜の声を上げ、原爆投下の折りには「敵国に甚大な被害を与えた」のラジオ報道に万歳を叫ばなかっただろうか?
世界的に戦争を起こした日本人は悪者であり、67年経った今でも、我々戦争国日本の子供たちはそのことで責められ続けている。
わたしは右翼系の人間ではない。日本の過去の戦争を美化するつもりは全然ない。今の日本と同じで、愚かな指導者を上に持つというのは不幸なことだと思う。が。
戦争というのは起こした側ばかりの責任だろうか?
わたしは自分たち国の実力も正しく評価できずに事態を処理できなかった時の指導者は愚かだったと思う。が、日本をそういう風に追い込んだ周りの状況もあったのではないか? 日本に戦争に走らせた責任が、他の国の指導者たちにも、あるのではないか?
過去のことはあまり言いたくない。その当事者がいて、「おまえの言っていることは間違っている」と非難されてもそれを知らない自分には答えようがないからだ。しかし、事実と真実は違う。真実は一つと言うが、それは間違いだ。事実が一つであり、真実は、それを見る者の立場でいかようにも変わる。ある者にとっての真実が別の当事者にとっての真実とは限らない。人は皆、自分に都合のいいように物事を見る。そして事実さえも、常に多面的であり、見ようによってその形は変わる。
正直に言うと、わたしは韓国人が大嫌いだ。中国人もロシア人も大嫌いだ。韓流ドラマだのKーPOPだの虫ずが走る。そんなものテレビで流すな!と思う。
これは自分でも非常に低レベルな感情的な物だと分かっている。
だが、いったいいつまで言われなければならない!?
わたしは、過去の日本人の占領政策、その後の戦争を間違っていたと思う。そのことを日本人として特にアジアの人々に申し訳なく思う。
しかし、今現在の日本人である戦後の我々に、どこまで謝れと言うのだ?
今現在の我々日本人が言われているのは、「おまえの親は人殺しの泥棒だからおまえらも人殺しの泥棒だ。謝れ!」という、実にひどい物で、我々があなた方を殺したか? 殴ったか? 泥棒したか? レイプしたか? あなた方はそれを「したじゃないか!」と言い張っている。それで、今あなた方は何をやっている? 一方的に日本の領土を「我が国の物だ」と軍隊で占領して、こちらが理知的公正に「国際裁判で判断してもらいましょう」と提案しても一方的にわめき散らすばかりで聞く耳持たず、それで、いったい、どうやって平和に解決しようと言うのか?
日本人がアジアの国々で恨まれているのは、戦争そのものというより、実際日本人にひどい目に遭わされたからではないかと思ってきた。それこそ「となりのトトロ」のように平和に暮らしていた日常を、爆撃され、銃撃され、占領されてひどい目に遭わされた、直接の暴力が恨まれているのだろうと思ってきた。だから、同じ占領者でありながら、地域によっては日本人を好意的に迎えてくれるところもあって、そういう土地ではそこに行った日本人が現地の人たちにひどいことをしなかったのだろうなと思ってきた。一般市民にとって、上の偉い人間が決めた戦争という状況を、客観的に高いレベルで理解するのは困難だろうと思う。
だから何故、現在の我々日本人が、韓国や、中国の、若者たちに極悪人のようにひどく感情的に言われなければならないのか、理解に苦しむ。
教育のたまものだろう。
我々敗戦国の日本の子供たちは、日本は悪い戦争をしたと罪悪感を植え付けられ、曲がりなりにも戦勝国となって占領から解放されたアジアの国々はいつまでも日本の占領をネタに日本を悪者にすることで戦勝国の立場を国民に誇示しているのだろう。
国のトップに立つ者なら、当時の世界状況が理解されていなければならないだろうに。
日本がアジアの一員であるように、韓国も、中国も、アジアの一員として、押し寄せる西洋列強と渡り合わねばならなかったのではないか?
その上で、戦後の日本人も悪い。戦争は、国同士がすることだ。しかし戦闘は国民がやることだ。戦争という状況には国が責任を持たなければならない。しかしその状況下にあっても、人間として、守らなければならないルール、してはならないことがあるだろう。それを犯した者はやはり罰せられなければならない。日本人が悪魔のように憎まれているのはそのせいだとわたしは思っている。しかしそれは、戦争に勝った側も同じだ。戦争状況下であろうと、勝った側、負けた側、双方が等しくその犯罪を裁かれなければならない。それが正しく行われたか? 勝った側の戦争犯罪が、負けた側に対するのと同じように裁かれ、断罪されたか? されていないだろう。
戦争では日本人もひどい目にあった。それは事実だ。国際法に違反する行いも受けた。しかし戦勝国側のそうした犯罪は、訴えても、無視され続けているではないか? それならば、何故日本人ばかりが裁かれなければならない? 何故日本人ばかりが悪者でなければならない?
それでは結局、戦争は勝った者が勝ちという理屈にしかならないではないか。
戦争の反省は、ひどい目に遭わされた反省であり、戦争に負けた反省であり。
今度戦争をやるときは、上手に勝とう。
という反省にしかならないじゃないか?
ここで韓国人中国人を大嫌いだと言ったことに罪悪感を持つ。
感情で言っているというのは自分でも分かっている。そうした悪い感情はさらっと流してしまうべきだと理性では思う。しかし、あれだけひどい悪口を言われたら、それも無理だ。韓国大統領の天皇への暴言はわたしの理性を完全にぶっ千切ってしまった。天皇は個人として政治的思想も発言も許されない存在だ。それが分かっていないこともあるまいに、なんたる心ない発言か。もし韓国国民があの馬鹿な発言を支持するのであるならば、やはりわたしは韓国人を許す気にはなれない。感情的に、大嫌いだ。
こういうことを書きながら、自分が低レベルの人間であるのを痛感している。わたしは感情によって自分の構築してきた理性的な精神を破壊してしまおうとしている。これではいけないと思いながらどうしようもできない。
世界平和というものを、皆さんはどうお考えだろうか?
どういう状態を世界平和といいますか?
どういう状態が達成できたらそれを世界平和といえますか?
それとも、曲がりなりにも戦争の起こっていない今の状態を世界平和と思いますか?
今を世界平和というならば、それはずいぶん表面的な、低レベルの認識だと思います。
具体的な戦闘行為は行われていなくとも、世界には問題が蔓延し、とても平和なんて言えた状態ではないでしょう。平和と感じるなら、それは世界の何も見ていないことになるでしょう。
ここ数年よく耳にして気になってしょうがない言葉に「国益」があります。
「国益に反する」
「国益を損なう」
というようにネガティブな局面で多く聞かれるように思います。
「国益」
というものが国際舞台で如実に現れたのが前の、現在も進行中の、シリアの内戦状態です。
これまで国連では何度もこの問題の平和的解決が図られましたが、それがことごとく常任理事国のメンバーである大国のエゴでつぶされ、ついに最悪の事態に陥ってしまいました。
これが、世界平和の実現されている世界で行われることですか?
「国益」とは何か?
自分が多くの利を取って、不利を回避する。
どの国も当然のように「国益」を主張し、我が日本国においても一般国民もそれを当然のように口にするようになった。
しかし「国益」が国際平和に寄与しないのは見せつけられた通りだ。今も毎日のように十人単位百人単位で死傷者が出て、国境周辺には難民が溢れかえっている。
当然といえば当然です。国が互いに「国益」を主張して状況を自分の都合のいいようにコントロールしようとしたら、まともな問題解決なんてできっこありません。
世界平和の実現には、「国益」、国のエゴを越えた、一段高いレベルの倫理が必要です。
それによって世界平和を実現しようとしたら、当然、特に今富んでいる国は「不利益」が多いでしょう。人単位でも当然そうです。
わたしの単純な思想で、例えば、この日本のごくごく平均的な生活を、世界中の人間が行ったらどうだろう? おそらく、水も燃料も食料も、あっという間に干上がってしまうのではないでしょうか?
地球に暮らす生き物を考えれば、我々は既に、所詮無理な贅沢をしていることになりはしないか?
逆に言えば、我々はもう十二分に豊かさを手に入れてしまっている。これから行うべきことは、このせっかく手に入れた豊かさを、上手に使って、色々な面で、生活で、人生で、その質を向上していくことではないだろうか?
願わくば、人類が、その賢く高いレベルの倫理観を、もう一つ巨大な戦禍を体験することなく獲得できますように。
わたしなりに、誰もが賛成してくれるだろう、世界平和の実現された状態の基準があります。
世界中、すべての子供たちが、等しく、心身共に健康に成長できること。
何故ならば、世界中ほとんどの国で子供に政治に参加する権利は与えられていないでしょう。
それならば、それを与えない大人の責任として、彼らには等しく平等に健康で文化的な生活を保証してあげなければならないはずです。
たとえ戦争を行った国があったとしても、それはその国の大人の責任であり、子供に責任を問うべきことではないはずです。
もし世界が世界中の子供たちにこれを実現できたら、その時は胸を張って「世界平和」と宣言していいと思います。
不快な思いをされた方には申し訳ありませんでした。今回は感情が抑えられずこうした内容になってしまいました。自分が感情を抑えらない未熟な人間であるのは認めます。重ねてお詫び申し上げます。すみませんでした。