富野喜幸はかくも偉大だった
富野喜幸=現・富野由悠季。言わずと知れた「ガンダム」の生みの親です。
押井守、宮崎駿とアニメ界のビッグネームについて語ったのでついでに語っちゃおうかと。
「ガンダム」はすごい!
「ガンダム」を作った富野喜幸監督はものすごい!
と盛り上がっても興味のない人は「なんかマニアがいろいろ言ってるよねー」と、最近の「ガンダム芸人」のマニアぶりを珍獣でも眺める感覚で面白がるくらいでしょうが、ここで「いかに富野喜幸作品がすごいか!?」、全然マニアじゃない目で紹介したいと思います。
富野喜幸と言えば代表作は「機動戦士ガンダム」と「伝説巨神イデオン」の2本と言っていいと思います。(それ以外あんまり知らないんでそうさせてもらいます)
「機動戦士ガンダム」は「宇宙に浮かぶ多くのスペースコロニーが人々の生活の場になっている」「ロボットが量産型の工業製品になっている」と言ったリアルなハードSFの設定でエポックメーキングな作品でありますが、注目したいのが政治的な背景。
政治的なんて言うといかにもマニア向けの話っぽいですが、簡単ですのでお付き合いを。
「ガンダム」は戦争の話です。主人公は「地球連邦」、敵は「ジオン公国」です。
戦争の発端は、一部のスペースコロニーが「我々は一個の国である!」と全体をまとめる地球連邦からの独立を宣言したことによる。これが「ジオン公国」。
普通の感覚で考えてみてください。全体主義的な統制で、実は一部の恵まれた立場にいるエリートたちが支配する状態から、自分たちの自由を求め、自分たちの自治を求めて独立しよう!…と、体制に対して反抗する反乱軍がヒーローになるのが……ふつうの活劇ドラマの設定じゃありません?
それを、「平和な状態に波風立てるおまえらが悪いんだ」と敵にしたドラマが、「機動戦士ガンダム」です。この時点で相当とんがった設定だと思いません?
実際ジオン軍は新型兵器「モビルスーツ」(=いわゆる搭乗型ロボット)を駆使し、スペースコロニーを地球に落とす(「コロニー落とし!」)という大規模テロを敢行している。悪役としての所行は十分ですが。
地球に住むエリートたち「地球圏」の実質的支配を非難しながら、コロニー国家による自治独立を喧伝するジオン公国は実質的にザビ一族の独裁になっている。これまた貴族的な出で立ちが悪役ムード満点ですが。
ジオン公国が何故「ジオン」なのか? そもそも地球圏の支配を批判し、コロニー自身の独立自治の理念を創出したのが「ジオン・ズム・ダイクン」という立派な政治家。しかしそのダイクン氏を暗殺(?)して実権を握り、大規模テロにより地球圏に戦争を仕掛けたのが公王の座についたザビ家のデギン・ソド・ザビ。そしてジオン軍を総括指揮する総帥長兄ギレン・ザビ。それぞれ重要な軍事拠点を指揮する長女キシリア・ザビ。次男ドズル・ザビ。悪の帝王と大幹部たちという構図もバッチリですが。
独裁者ザビ家も国民にとっては自分たちコロニーを支配する地球圏に反抗する英雄であり、末っ子の青年士官ガルマ・ザビはアイドル的な人気者。その友人である将校シャア・アズナブル(!)に「坊や」と陰で揶揄されるお人好し。
そのシャア・アズナブルは、ジオン軍屈指のモビルスーツパイロットで「赤い彗星」の異名を持つ前線で戦うエース軍人。しかししかし、その正体は実は、ジオン・ズム・ダイクンの息子であり、密かにザビ家への復讐を目論んでいる。そして生き別れの実の妹セイラ・マスは自分が指揮した攻撃作戦で図らずも連邦軍の新鋭戦艦ホワイトベースに乗ることになり、以後兄妹は戦う運命に。
おお! すごい大河ドラマだ!! 「ガンダム」なんてごちゃごちゃしたロボット戦争アニメでしょ?と内容を知らなかった人も、こうして整理して説明すると、なるほど面白そうだと思うでしょ? これは全体の骨格で、実際は主人公である連邦の新型モビルスーツ「ガンダム」パイロット=アムロ・レイ少年とその周囲の人々の目線から、彼らの戦争状態における人間ドラマが肉付けとして描かれていくわけですが。
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今度は「機動戦士ガンダム」の次に作られた「伝説巨神イデオン」について語っちゃいましょう。
こっちは「ガンダム」に比べてうんとマイナーで、マニアックな作品ですが。
地球人が外宇宙に進出して惑星移民をしている時代。
ある植民惑星でその惑星の今は滅びた原住民の遺跡が発掘される。それは巨大な宇宙船と巨大なロボット「イデオン」だった。
この惑星を別の宇宙人が調査に訪れる。彼ら「バッフ・クラン」は伝説の無限エネルギー「イデ」を求めてやってきたのだ。
発掘された遺跡を巡り、地球人とバッフ・クランは戦闘状態になる。すると突如遺跡が起動し、地球人はこれに乗り込み、バッフ・クランの攻撃を逃れて、宇宙への逃避行に旅立つのだった。
この作品で顕著なのが、富野作品でおなじみの、「主要登場人物が次々死んでいく」という展開で、それがこの作品ではあまりにひどく、マニアックすぎる設定共々、「ガンダム」の盛り上がりでアニメファンのかなりの注目と支持があったと思うんですが、ガンダムの安彦良和の柔らかい親しみやすいキャラクターに対して、湖川友謙の直線的で劇画的なキャラクターなど、とにかくとんがりすぎちゃってて、注目が人気となって一般に広がることなく、今に至ってもマニアックな評価に留まっていると思います。
あんまりひどいんでバラしちゃいますけれど、ラストは、全員死亡です。皆殺しです。
人気が伸び悩んでテレビシリーズは残り4話のストーリーを残して打ち切りになったんですが、その4話分は後に劇場版「発動篇」として完結されたんですが、アニメではやってはいけない描写のオンパレードです。打ち切りとなったテレビシリーズ第39話のラストは、無限エネルギーのイデが発動し、いがみ合う両宇宙人はその光の中に飲み込まれ、滅亡する、というものなんですが、本来のシナリオである映画では、一人一人具体的に戦闘によって悲惨に死んでいきます。ロボットアニメだからと子どもに見せてはいけません。子どもが見て面白い物でもないですし。
そうなんですよ、当時子どもだったわたしには何が面白いのかさっぱり分かりませんでした。なんだか難しそうなSFストーリーだなあと思っていましたが、当時漏れ聞こえてきたもっとお兄ちゃん世代の評によると「ガンダムなんてイデオンに比べればガキのマンガ」だそうで、それを聞いたわたしは「そういうことを言うおまえがガキだ」と反発したものです。
子どもが見ても全然面白くなかった「イデオン」。ずうーっと後に、当時たまたまいた地域で深夜に連続して再放送しているのを見たんですが、そうしたらまああなた、びっくり!! ものすごい面白かった。そうだな、この面白さを子どもに分かれと言うのは無理だなと思いました。「ガンダム」は今見ると子供向けに妥協した部分が難点として目立つと思いますが、「イデオン」は今見てもすごく新鮮で面白いと思います。
単純にSFストーリーとして各エピソードが面白かったんですが、一番面白かったのが、地球サイド、異星人サイドの設定の対比です。
敵の宇宙人の名前は「バッフ・クラン」と言います。バッフ・クラン。なんとなーく、イメージがわきませんか?
物語の発端は地球人が惑星に移住してくることで、その惑星においては地球人の方が先に到着していたんですが、バッフ・クランには「イデ」という伝説があって、その調査に訪れた彼らには「ここは我々の文化圏であり、領土である」という主張があって、最初は侵入者である地球人に対してあくまで調査のつもりで隠密に行動していた彼らも、地球人が既に遺跡を発掘しているのを発見し、末端の兵士に命令が徹底されないで戦闘を起こしてしまい、対決する姿勢になってしまう。初期にはお互いに戦闘状態を回避し、納めようという考えもあり、そういう工作もされるんですが、お互いに違う高度な文化を持っているために誤解が生じ(赤旗、白旗を巡る解釈の違いなど)次第に対立が深刻化し、お互いに身内を殺された憎しみが生じ、対立は決定的となり、地球人はバッフ・クランの攻撃を逃れ、宇宙をさまようことになる。
下手くそな説明でいまいち面白さが伝わらないかと思いますが、バッフ・クランは自らを「サムライ」と名乗り、非常に封建的な社会をしているのです。男子たるものサムライたれと礼節と名誉を重んじ、女性には慎み深さが求められるような社会文化です。対する地球人側は移民団であり、いろんな人たちの寄せ集めなわけです。自分勝手なやつらが多くてですね、図らずもリーダーにされてしまった青年の苦悩は深いわけです。
これで分かったでしょう? 「バッフ・クラン」とは「幕府」の意味なんですね。サムライを名乗る彼らは日本人なわけです。
雑多な人々の集まりである移民団は大陸に渡ってきたアメリカ人なわけです。
なかなか言葉(意志)の通じない、異質でありながらはっきりとした独自の文化的キャラクターを持つ「日本人」が敵として設定されているんです。主人公である「アメリカ人」は日本人の融通の利かなさに苛立ち、振り回され、決定的に対立していくわけです。
日本で作られている日本のアニメで、この逆転現象! 富野喜幸。来てますねえ〜〜。
「イデオン」は無限エネルギー「イデ」という黒船と共に現れた異人たちに右往左往する侍たちの物語という見方が出来、幕末の日本の混乱する社会になぞらえたSF物語なのですね。んなもん子どもに分かるかっ!!(そういう見方の出来る大人にとってはすごく面白い物語です)
話はガンダムに戻りまして、テレビシリーズの初期は上に説明しました「コロニー落とし事件」を背景に永井一郎氏の『宇宙世紀0079。地球に最も遠い宇宙都市サイド3はジオン公国を名乗り−−』というナレーションでこの戦争がいかに始まったかを説明するんですが、この「コロニー落とし」は敵の戦力を一気に叩きつぶし、以後の戦闘をすることなく講和に持ち込もうという、いわば「真珠湾攻撃」なんですね。ここでもジオン軍=日本軍というイメージがされるわけで、戦争初期においては奇襲攻撃によって有利に立っていたジオン軍が、連邦軍の攻勢によって徐々に拠点を失っていき、本営のギリギリまで攻め込まれてようやく敗北を認めるという、日本人からすれば屈辱的な話であります。子どもに何見せてんだよーと。(ジオン軍はイメージ的には明らかにドイツ軍ですが)
こうして本来ならばヒーローになるべきが悪役になって、主要登場人物がバタバタ死んでいく悲惨な戦闘が描かれていくわけです。ザビ家の支配するジオン公国など、「敵」としてのキャラクターを整えていますが、さりとて「連邦=正義」とも言えないわけで、元々は遠い地球のエリートたちの支配から独立しようという自由と主権という「正義」があったのに、それを実施するに当たってその理念をスローガンに掲げながら、実質的には軍部が独裁して国民に戦争を強いていると。ではいったい誰が悪いんだ?と。いや、いいとか悪いとか、そういう問題じゃないんだと。戦争というのは、こういう事なんだと。徹底的に「リアル」に考えているわけです。「アニメ」としては商売と現場の問題で色々妥協せざるを得ない部分があったようですが。
「ガンダム」「イデオン」には「思想」はあっても「主張」は無いように思います。そんな物は「現実」の前にまったく無力であると、物語でしっかり描いています。
では、現実をただ受け止めてその中で生きていけばいいのか?
やり方は間違っていても、正しかった理念を捨てるのが、仕方のないことなのか?
「そんなことは自分たちが『現実=リアル』の中で考えろ」
と、富野監督は突き放しているように思います。
自分たちの問題だろう? そんな物、アニメの中で解決してどうする?、と。
僕らはアニメを作っている。現実を作るのは僕らであり、君らであるだろう?
現実は、アニメじゃないんだよ。と。
富野のお言葉は、なかなか耳に痛いです。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
前回から押井守、宮崎駿、富野喜幸と、アニメ界のビッグネームに関した考察をしてきましたが、それぞれにキャラクターの違う三人、一つ共通しているのは、作品を本気で作っているということ。
あ、もう一つ。アニメ作ってる人って、変な人が多いなあー、と。やっぱり変人じゃないと人を強く引きつける作品は作れないんでしょうね。
昔、アニメが所詮子供向けのマンガ映画だった頃、志あるクリエーターたちのライバルは実写映画だった。
今、すっかり文化として市民権を得たアニメのライバルは、アニメになった。アニメはCGなどの新技術は取り入れつつも、アニメで実写に喧嘩を売ろうという意欲はなくなった。むしろ実写映画の方がアニメにすり寄ってきたように思う。アニメはアニメの世界で安住し、満足するようになった。そこに年寄りたちの苛立ちがあるのだろう。
君らはアニメの世界に住んでいて満足なのか?と。満足なんだから大きなお世話なんだけれど、本当は現実の世界の方がうんと刺激的で面白いんだろうと思う。でもアニメの世界で「欲しい!」と思う物が現実の世界では手に入らないのも事実。
多分未来世界においては「モビルスーツ」は実現しているだろうと思う。その頃にアニメで描かれたような戦争が起こっていないように、我々は今の現実を生きる必要があるんじゃないだろうか?
そんなことを思いました。