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押井守に反論してみよう!PART4

 追伸として。

 わたしも全然人気のないホラー小説なんかを書いている一応クリエーターの一員として、特に最近思うようになったことを書きたいのですが。


 最近の身近なオタクアニメの例として「けいおん!!」と「ギルティクラウン」を挙げました。

 今度は「ギルティクラウン」についてまず思ったことを書きたいのですが。

 知らない人のためにちょこっと内容を紹介しますと、


 近未来の日本。謎のウイルスの爆発的な感染が発生し、日本政府は機能停止、国連軍が武力によってウイルスの封じ込め、引き続き武力的統治を続行している。この事態(日本人は病気持ちの毒虫扱い)に反抗するレジスタンス部隊に、謎の美少女との出会いによって特殊な力を得た少年が協力し、悩みながらも運命と闘っていく。


 といった感じです。

 制作は押井守監督のヒット作「劇場版機動警察パトレイバー」「攻殻機動隊」のプロダクションIG。CGと融合した映像がものすごいです。


 この作品に対するわたしの感想は複雑です。

 よく分からん。というのが現在(第6話まで)の正直なところです。


 第1話、何の知識もなく(プロダクションIG制作というのも知らず)見始めて、テレビシリーズとは思えない映像クオリティーに驚いたのですが、ギョッと驚いたのが、暴力描写の生々しさです。具体的に説明するのも嫌なのでしませんが、普通子どもに見せるアニメでは絶対にここまではしません。アニメでこれを流すテレビ局でも倫理的に確実に問題になると思います。

 わたしは自分でホラーなんて書いておいてなんですが、過度な暴力描写は支持しません。

 例えテーマやメッセージがどんなに素晴らしい物でも、過激な暴力性は絶対に、それ自体一人歩きして、人の感覚を麻痺させ、刺激に酔わせてしまうと考えるからです。

 それを「必要な描写」と支持する人はそうした良識的な見方を「そんなのは一部の人間だ」と反論するでしょうが、その一部の人間が問題なのです。普通まともな神経の人間はそんな過激な暴力など見せられなくても人を殴って楽しいなんて思わないものです。人を殴って楽しいと感じる人間はその時点で既に感覚が麻痺しているのです。まともな人間に必要なくて、一部の、いかれた人間を喜ばせる過激暴力描写を、何故する必然性があります?

 「ギルティクラウン」における暴力描写にわたしはそうした嫌悪感を抱いたのですが、舞台は軍隊が暴力的に支配する世界です。そこでそうした「日常風景」を描く必要があるのかとも考えたのですが。

 主人公の美少年は謎の美少女との出会いによって無敵とも思える強大な力を手に入れます。

 いわゆるチート(ズルい程無敵)能力です。

 これが出た時点で、あれだけ意識的に生の暴力を見せて、いかにもメッセージ的に思わせておいて、けっきょくやることは美少年と美少女のスーパーヒーローごっこかと、またも思いっきり反感を抱きました。その他にもかなり肉感的なコスチュームの美少女たちが登場したり、敵の超暴力的な将校が病んだ美少年であったり、メカがやたらとスタイリッシュだったり、つまりオタク御用達アイテムがてんこ盛りで、やはりわたしには「あの暴力描写はなんなんだ?」とどうしても引っかかってしまうのです。まるっきり主人公たちの超人的強さの引き立て役で、その活躍にカタルシスを感じるためのお膳立てとしか思えない。実際そういうつもりで描いているのではと思う。

 ちなみにわたし、娯楽作品におけるチート能力にはわりと寛容です。わたしの暴力という物に対する認識は、「人は銃で撃たれれば死ぬ」というものです。一方でハイテク化されロボット化され非常に殺傷能力の高い最先端の武器で、そのスイッチさえ握れば無敵だというのはリアルに感じます。怪しい人たちに「君、ルックスいいね? 僕たちがサポートするから大統領になってみない?」とそそのかされて選挙に立候補したら当選して大統領になっちゃって、おもけで核ミサイルの発射ボタンがついてきた、と言う方が、例えば、「鍛えれば弾丸を避けたり跳ね返したり出来る」というドラゴンボールのような修行物よりずっと現実的です。大統領と孫悟空を並べてまじめに比較する人間もいないと思いますが。はい、脱線しました。


 わたしには監督プロデューサー以下、主要スタッフたちがどういうスタンスでこの作品を作っているのかまるで理解できない。

 戦争や内戦における殺人始め深刻な人権侵害事件はおそらく日常的に発生しているのだろう。しかしそれをこの平和な日本でさも分かったように描くのは、なんなのだろう? もし何か事が起こったときには日本でもこういう事が起こるのだぞ!との警告なのだろうか? 確かに、日本周辺でもここ数年きな臭い事態が進行していて、不安である。しかしそれをこうして暴力で警告して、「こうならないように日本も有事に備えて強力に軍備を整えよ!」というメッセージなのだろうか?

 わたしにはむしろこの作品が、そうしたメッセージやテーマを一切排除しているように思える。もちろん確信犯的にです。

 それこそ押井守の言う「コピーのコピーのコピー」をコラージュして、「現代オタク文化の姿」を明らかにして見せているように思う。

 もっともらしい精神的テーマをディテールに懲りまくったSFストーリーに仕立て、美少年美少女のアクロバティックに駆けめぐるど派手アクションで見せる。

 オタクアニメの一人見本市みたいな様相で、一見ものすごそうに思える内容も、実は分解してみればその部品は全部過去作品の借り物でしかなく、一個の作品としての思想は皆無で、押井守言うところの「非常に空虚」だ。

 しかしこの批判こそが、この作品を作る動機であり、テーマであるようにも思う。



 テーマだのメッセージだのいうものは、作品にとってはどうでもいい。


 そんな物は見る者が勝手に考えればいい物で、作者が考えるべきことではない。



 ということを、実はわたしは最近思っているのです。

 元々考えていたことではあります。作者が自分の作品について「この作品のテーマはこれこれであり、メッセージはこれこれであります」と語ることほど馬鹿馬鹿しいことはない。語っちゃうんなら最初から表現なんてしないでしゃべっちゃえよと思う。

 表現者は誤解を恐れるべきでも、無理解を怒るべきでもない。がっかりはするけれど。

 物語を作る動機は「テーマ」や「メッセージ」なんかではない。そういう作り方をする人もいるかも知れないけれど、そんなお説教臭い物、たいてい押しつけがましいだけでつまらない(と思う)。


 物語を作る動機とは、作りたいからだ。物語の動機は物語にしかない。物語はテーマやメッセージのために存在する物ではなく、ただ物語としてあるものだ。そこに意味を見いだすのは作者ではなく、読者であるべきだ。読者が何のテーマもメッセージも見いださないのであればそれはそれだけの物であり、しかしそれだって全然かまわないのだ。物語は純粋に物語であるべきだ。


 と言うことを、わたしは物語作りの基本として自分に課しています。たまにどうしても言いたいことがあってその為に物語を創作することもありますが、一度考えた物語は「ただの物語」として物語の最初から順番通りに考え直すことにしています。


 作者が物語を通してテーマやメッセージを読者に「読め」と言うのは、それは作者個人の読者や社会に対する独善的エゴであり、そんなもの、読者にも社会にもありがた迷惑なだけだ。


 と、物語作者は自分に戒めて表現を行うべきだと思う。


 暴力描写に戻って言えば、「メッセージを伝えるためにこの『暴力』が必要なのだ」というのはまったく勘違いした思い上がり以外の何物でもなく、それは「暴力」を描きたい自分の「メッセージ」という免罪符に託した言い訳である。


 表現者はテーマやメッセージなんか読者にとってはどうでもいい物で、伝わらない物だ、と思っておくべきだ。

 本気でメッセージを伝えたいと思うのなら、面白い物語を書こうだなんて思わないことだ。読んでもらえるなどと期待しないことだ。

 メッセージというのはたいてい受け手にとって煩わしい、言われたくないことである場合が多い。

 嫌なことは、娯楽として楽しめない。

 だからメッセージなんて物を含んだ物語は、面白くなくて、嫌われる物だと、思っておくのが正解だ。

 読者が作品に込めたテーマやメッセージを理解してくれないなどと不満を言うのは、まったくの思い違いだ。そんなのは全て読者の勝手である。

 読者がその物語を読もうというのはその物語が面白そうだからであり、面白いからだ。

 読者がその物語を読もうとしないのはその物語が面白くなさそうであり、面白くないからだ。

 と、作者は思うべきだ。

 テーマやメッセージでその作品を読む読者はいない。それはまったく本末転倒だ。

 テーマやメッセージはその作品を読んだ読者にとっての結果である。一番最後に来るべき物なのだ。最初に言ってどうする。

 だいたい人に言われたことにはとりあえず反発する。わたしはそうだ。だから人もそうだろうと思う。だからこの文章も特に小説を書く人なんかには相当反発されていると思う。

 わたしは小説書きとしてそもそもこんな文章を書くべきではないのだろうと思っている。それをあえて書いているのは、けっきょく、書きたいからで、わたしのエゴだ。別に人に共有されなくてもいい。


 表現において、

 本当に大事なこと、本当に言いたいことは、

 言ってはいけないのだ。


 それは読む人に「自分の考え」として自発的に考えてもらわなくては意味がないのだ。


 だから物語にテーマやメッセージなんて込めるべきではないのだ。

 いや、語ってはいけないのだ。

 作者は物語に対して、「そんな物はありませんよ」と、知らんぷりするべきなのだ。

 それは作者が語るべきことではなく、物語が語るべきことであり、

 物語は物語を語るべきで、テーマやメッセージを語る物ではないのだ。


 メッセージのための表現、テーマのための表現なんて、クリエーターが恥ずかしげもなく言うことではない。

 それは表現者の恥だ。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 わたしは以前は小説は「ストーリーこそすべてだ!」と思っていたが、どうやらそれは大いなる考え違いだったと最近思っている。

 ストーリーなんてどうでもいいのかも知れない。

 娯楽作品は「キャラが立っていないと駄目だ」とよく言われます。

 それはつまりディテールの面白さなんだろうなと思います。

 ストーリーが面白いかどうかは最後まで読んでみないと分からないもので、でも面白くなければ最後まで読んでもらえない。

 最後まで読んでもらえる面白い小説とは、ディテールの面白い小説なんだろうなと、最近思うようになりました。

 多分ストーリーなんてディテールの二の次三の次なんだろうと。

 ストーリーは読者がそれを読む動機にはならない。

 ディテールが自分の嗜好に合っているかが問題なのだ。

 最近ネットでは「タグを付ける」というのが流行りだ。「タグ」は「キーワード」と言い換えてもいいのだろうけれど、なんとなくニュアンスが違うような気がする。人がその物に付けたタグという要素に従って、それを好む人がアクセスする。タグのない物は見向きもされない。タグ=要素とは多かれ少なかれその物の全体に対する細部=ディテールだ。人のその物に対する興味はディテールによって決定される。全体で表現されるストーリーは、タグにはなりづらい。ディテールとしてあやふやにならざるを得ず、人の興味を引くには弱い。

 人に興味を持ってもらって読んでもらうには多くの人の好みに合ったディテールこそが重要なのだ。


 「ギルティクラウン」はその「タグ」の集大成なのだろうと思う。


 これはハリウッド映画の「最大公約数」とは違う。それは全体にヤスリをかけてまろやかにする作業であり、これは組み合わせのモザイクだ。各タグは非常にビビッドに描かれている。



 自分が嫌われ者なのを自覚した上で(←根暗)、この文章も大いに反発を招くことを見越して一応注釈しておきますと、「タグ」とは「荷札」のことで、ちゃんと分かって言葉を使っていますから。その他の言葉も思い切り意訳して、文章の書き方もむちゃくちゃですが、それも全て「表現」です、念のため(←誤字脱字はその範疇にあらず)。わたしは約束事を強要されるのが大嫌いなんです。

 以上で追伸も終わりです。ここまでお付き合いくださった方がいましたらお疲れさまでした。ありがとうございました。

 長編を書き上げて次への手馴らしのつもりで書き始めましたが長くなってしまいました。

 次はちゃんとした小説に戻ろうと思います。

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