押井守に反論してみよう!PART3
ここまで長々と主に「オタク批判」の部分について書いてきました。
次に「(現在のアニメは)コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」について反論を試みてみましょう。
これは今の若いクリエーターたちからすれば「狡い!」という思いが強いのではないでしょうか?
アニメというのもマンガや映画の一部と考えて、映画、マンガ、アニメと、既に過去に膨大な作品数があり、「新しいテーマ、新しい表現」なんてやり尽くされてしまっている観があります。過去に対して「純粋にオリジナルの物」を生み出すなんて、至難の業と言っていいでしょう。
何もないところでやること全てが「新し」かった昔の若者に、「最近の若い者はオリジナリティーがない!」なんて言われても、「だったら、あんたら歴史から消えてくれ! いなかったことにしてくれ!」と思ってしまうんじゃないでしょうか?
アニメ文化という言い方をします。
文化というのは積み重ねです。
例え作品が最初から完成された形で登場しようと、それが文化として定着するのは時間と数の積み重ねが必要です。
それは文化という物はある程度の人々に同じ価値を共有されなければ「文化」とは認められないからです。
多くの人たちがその価値を共有するから、その作品は「文化的価値がある」と高く評価されるのです。評価されると言うことが文化につながるのです。
積み重ねというのが何であるかといえば、元の作品に対して価値を見いだし、共通の価値観で新たな物を作り出すことです。価値観が違っていればそれは同じ文化とは言いません。つまり、同じ文化に所属する作品は多かれ少なかれ前の作品をなぞって「コピー」している部分が必ずあるのです。
文化とは最初から「コピーのコピーのコピー」であるのです。
と言えば当然、
「そういうことを言っているんじゃないんだ」
とうんざりした顔をされるでしょうが、理屈屋が理屈を否定してはいけません。
後続の人間が何故「コピー」するのかと言えば、それを面白いと思い、好きだと思ったからです。
しかし、コピーと言いながら、まったく同じ物を「自分の作品」として作る人間はいないでしょう。それはただのパクリです。作品として語るのとはまったく別の物です。
コピーをするとは、「好きだから自分もやりたい」というファン心理がまずあると思います。
でも、まったく同じ物を写しても、「自分もやりたい」という欲求を満たすことは出来ない。
自分はこの作品のどういうところが好きなのだろう?と分析して、その要素を元にした「自分の物」を表現したい。……表現という言葉が出てきましたね。
押井守の言葉を自己流に勝手に解釈するならば、
「今の若いもんは『自分の物を作る』という欲求が足らん!」
ということでしょうか? 我ながらかなり強引な決めつけに思いますが。
文化がコピーのコピーのコピーであるのは当たり前なんです。新しい新鮮な素材なんて残っちゃいませんし。そんなことはあの押井守が分かっていないわけはないんです。
「君たちはその程度で満足なのか? 君たちの好きだという気持ちはそんなものなのか? ただの物まねをやっていて君たちの創作欲求というのは満たされるのか? そんなんじゃあ人に見せる意味がないじゃないか?」
ということでしょうか?
一つの文化は結果から見てみるとある意味最初から「完成形」が決まっていて、そこに向かって完成度を高めていく工程であると見ることが出来ると思います。これには異論があると思いますが。
一つの作品が現れて、「いい!」と思うクリエーターが、自分もその「いい!」と思った要素をより積極的に自分の表現で作品にする。するとまた別の誰かがそれを見て「いい!」と思い、自分が「いい!」と思った要素で自分の作品を作る。するとまたそれを見た人が、と。または作った本人が「これでは自分の表現したかった物が表現し切れていない」と別の表現で再チャレンジしたり。そうやって「いい!」と思われた要素が、延々と様々な手で作品として表現され、その要素がスタイルとして定着し、「○○文化」と認められるようになる。……ちょっとアニメ文化と言った場合と意味が異なってしまいましたね。まあいいや。
一つの文化は作品を経るごとにそのキャラクターを強めていき、スタイルになり、完成される。
そして完成してしまった物は、結局、今度は解体されて壊れていくしかないのです。
実はこれはありとあらゆる芸術運動、娯楽文化の中で繰り返されてきたことで、当然「アニメ文化」と大きくくくった中でも起きていることなのです。
そして、実は、完成されてしまった物は面白味がなく、魅力がない、というのもだいたいどこでも共通しています。
わたしの得意分野で言えば、「やっぱロックは60年代70年代だよな?イエ〜イ!」って感じです。…ちょっと馬鹿っぽいですが、運動のさなかの熱というのはそんな感じでしょう。さすがにわたしも60年代70年代ロックを実体験はしていなくて後追いで、現役感覚では80年代の終わってしまったロックの方にずっと親近感がありますが。
完成されていく工程、その勢いをパッケージした未完成段階の作品の方が、断然面白いんですよね。
つまり、今の狭い意味のいわゆるオタクアニメっていうのは、既に完成されちゃって、これ以上やっても「つまらん」ということでしょう。
また自分の得意なロックに話を引っ張ってきますが、ロックというのはその中にいろんな細分化されたジャンルを持つ大きなくくりの音楽全般を差す言葉なんですが、狭い意味で「本物のロック」と言った場合には「ロックというのは時代の音であり、時代の『今』を表現した音楽がその時代におけるロックという音楽なのだ」という哲学的な意味を持ちます。時代と共に常に変化していくのがロックであり、スタイルとして固まってしまった物はもはやその時代のロックとは呼べない、というのが硬派なロックファンの見方です。そういう意味で言うと一般にロックと見なされる「ハードロック」や「ヘビーメタル」といった狭いジャンルのロックは、もはや現役のロックとは言えない物になっています。
なんですが、
実は市場においては現在の先鋭的な本来の意味のロックよりも、そうしたクラシカルなスタイルとしてのロックの方が、ずうっと規模が大きいのです(←私観)。
それも考えてみれば当然で、音楽は音楽であり、音楽が何も「ロック」である必要はないのです。時代の表現とかなんとか難しいことはどうでもいいから、気持ちのいい音楽を聴きたい、と言う方が音楽の楽しみ方としては自然だと思います。ある意味硬派なロックファンは音楽という物を勘違いしていると言っていいと思います。好きな物を好きに楽しんで何が悪い?と言う方が一般的にずっと正論でしょう。クラシック音楽に対する現代音楽も、クラシック絵画に対する現代絵画も同じでしょう。
アニメの場合も同じなんじゃないでしょうか?
表現とかテーマとか、そんな物はどうでもいい。面白いから見るんだ、好きだから見るんだ、と言うのがファンの求めるアニメじゃないですか?
前述したようにオタクアニメというのは世間的な文化規模においては思われているほど大きな物ではないと思います。ですが、ちゃんとお金を出して積極的に楽しんでくれるファンによる市場規模は巨大な物で、そうしたファンを無視した形で「テーマ」とか「表現」とか頭でっかちなことを考えて「自分たちだけの」作品活動を行っていく方が、実際に支えてくれるファンを逃して、衰退していくことになってしまうのではないでしょうか?
ちょっと事情が違うんですが日本における洋楽ロックがそうであり、長い間日本映画が本当につまらなかったのもそういうファンを無視した頭でっかちな考えに偏ってしまったせいだと思います。
これも前述のハリウッド映画のように広く一般大衆の最大公約数を求めて映画商品を作っていこうというやり方も結果毒にも薬にもならない、なんの心の引っかかりのない、印象の極端に低い物に陥ってしまう危険があります。
一部の熱烈なファン向けに特化した商品を提供していこうというのも、商売上の一つの選択であり、非難されるものでもないと思います。
特に現代は、例えば年末の紅白歌合戦の視聴率低迷のように、個人個人の趣味嗜好が細分化されて、大きな共通項がなくなってきています。その意味でも一部の嗜好に特化したやり方も当然でしょうし、その他大勢からなかなか理解を得られないような趣味的な人たちが、その特殊な趣味性故に広く世界の仲間たちとつながる、という現象も起きているようです。なにしろ世はインターネット時代ですからね。狭い趣味の人間の方が(実生活では人付き合いが少なくても)情報的なつき合いではうんと広い世界を持っていたりします。これまではそうした具体的な実体のないバーチャルな人間関係に否定的な見方が強かったかと思いますが、これだけ情報化が進むとそういう考え方もだんだん古くなっていくのではないでしょうか?
なんだかどんどん八方美人の意見にとっちらかっていきますが、基本的にわたしは議論というものが嫌いです。議論というのはけっきょく相手の意見の弱点をあげつらって自分の意見を認めさせようと言う喧嘩にしかならないで、議論の中から建設的な新しい考えが生まれてくることはあまりないんではないか?と思うのです。
物事は常に多面体です。一つの事実について真実なんて見る人の数だけいくらでも存在するものです。
クリエーターなら作品で自分の意見を表明すればよい。それが面白ければ人はついてくるだろうし、つまらなければ無視される。ファン同士があれこれ言うのは勝手にさせておけばいいけれど、クリエーターがそれを言うのは、自分の力の無さの言い訳や、愚痴でしかないと思う。そう考えるべきだと思う。作品という実績がなければ人は聞く耳を持ってくれません。人が娯楽作品を楽しむのは義務じゃないんですから当然です。クリエーターはその点を勘違いするべきではないし、それを言ってしまうのはやはり力のない者か、終わってしまった年寄りだと、わたしは思います。
押井守への反論になっているのかなっていないのか自分でもよく分からなくなってしまいましたが、「押井守監督現在のオタクアニメを批判」記事へのわたしの感想と意見はこんな感じです。
以下、追伸としてわたしの本当に個人的な考えを書かせていただきたいのですが、
長くなっていますのでPART4に続く。