表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/100

押井守に反論してみよう!

 「機動警察パトレイバー」「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」で有名なアニメ監督 押井守氏が大学の講演で


「僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」


 と発言し、これがネットで賛否両論の論議を巻き起こしたとか。

 まあねー、押井監督は理屈を言うのが商売みたいな人ですから、何か言わないでは気が済まないというところがあるでしょうし、理屈でこの人と張り合っても絶対勝てないんですけれど(何を言われても確実に反論を返してくると思います)、面白いのでわたしも議論に乗っかってみようと思います。(←実際の議論に加わるのは絶対ごめんですが)


 まず断っておかなくてはならないのは、わたし自身もう年齢的にも地域的にも最近の最新のアニメを楽しむ環境にはないので、オタク論争に加わる資格もないんですが、それでも最近は「けいおん!!」や「ギルティクラウン」なんかを見ています。「けいおん!!」は大好きです。「ギルティクラウン」は最近のアニメはすごいなあと思いますが、思うところがいろいろあります。「けいおん!!」は最近の一番ヒットしているオタクアニメと思われます(漫画家の吾妻ひでお氏が「作ってる人も観てる人も不気味」と批判して物議を醸しましたね。今詳しく見てみたら原作はオッケーなようで、アニメ版が大嫌いなんですね)が、実はかなり突き放した描き方をしているところがあって、監督さんはどういう風に観てほしいかということをすごく考えて作っていると思います。「ギルティクラウン」は最新型のオタクアニメでしょうか? 押井監督ゆかりのプロダクションIG制作のハイパーなSFアクション物ですが、わたしはあまりに生々しすぎる暴力描写にかなり嫌悪感を抱きました。その上でけっきょくやってることは(いじいじした内省的な)美少年と美少女のチート能力(って言うんですか?)物かい!とかなり反発を感じるんですが、作画がすごいので見続けています。いつもの癖で前置きが長くなりました。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 わたしはむしろ最近のオタクは活動的なのかと思っていたんですが、

 ちょっと違うかも知れませんがわたしはむしろ「オタ芸」というMUSIC JAPANなんか見ていて(いい年して何見てんだか。パフュームのファンなんです)アイドルが歌うときの客席の男どもの揃いのかけ声なんかがも〜〜〜大っ嫌いで(歌が聞こえねえだろ!)、どうしてこう日本人てえのは揃って同じことをしたがるんだろうなあと(一時期流行ったパラパラなんかも嫌い)疑問なんですが。ちょっと話が違いましたか。

 メイド喫茶なんかもひたすら恥ずかしくてあんな所に連れ込まれたら拷問でしかないと思うんですが、それでもアニメ的な世界を自分たちで楽しもうという文化ですから、(けっして混じりたくはないですが)好きな人は勝手にどうぞと思います。

 しかし最近のアニメがオタク向けに特化しているというのは実はこうしたアニメ文化の三次元世界への進出が影響しているのかなあとも思います。

 自分たちの生活の中で作品としてではなく商品として消費したいという願望に答える形で、最近のアニメは企画され、制作されているのではないでしょうか?

 前述の「けいおん!!」でも経済系の雑誌で経済効果が何百億円とか言われて、そういうお金換算でアニメが考えられるような土壌が出来ちゃっているのではと思います。

 企画段階からそういう期待をされて、そういう商品展開を出来る内容でなければ企画が通らない、またはそういう方向へ内容を持って行かれる、ということがあるのじゃないでしょうか?

 これは今に始まったことではなく、子供向けのアニメでおもちゃ屋さんがスポンサーについて最初からおもちゃ製作とセットなった企画なんて普通でしょう。じゃあ何が違うのかなあと考えると。


 ファンが受け手として作品を楽しむばかりでなく、自分たちがその作品の中に入り込んで楽しみたいという願望がより強くなっているんじゃないでしょうか?


 前述のメイド喫茶なんかと重なるんですが、その世界に本当に入り込んで、その作品の一部となって楽しみたいという欲求ですね。コスプレなんてその物ズバリですね。

 以前は、作品は作品、ファンとしての楽しみ方はそれはまた別と、明確に分かれていたんではないかと思いますが、

 例えばファンイベントという物があってそこに参加したり、作品作りも色々な面でよりファンとリンクする形で作られるようになったり、

 作品とそれを楽しむファンの垣根がより低く、風通しが良すぎるようになったんじゃないでしょうか。

 最近は作り手の方もツイッターで積極的に情報発信をし、番組の放送中に今やっているシーンのレアな情報を発信するなんてことをやっていたりするんですよね?

 作品の作り手、送り手がそうやってファンを獲得しようとサービスに努めすぎた結果、一部ファンの思い上がりや暴走を招いてしまった、ということもあるかも知れません。その作品の中に入り込みたいという願望を著しく煽ってしまったんですね。作品と自分をほとんど「=」と思い込むようなファンを生み出してしまったんじゃないでしょうか?

 グッズの充実が周りに三次元の作品空間を再現して、自分がその中に入り込む、浸り込む、ことを可能にしてしまった。最近のグッズ展開は作中の小物の再現という物が増えているような……未確認ですが、なんとなくそういうイメージがあります。

 子どもたちが魔法戦士や特撮ヒーローに変身して遊ぶおもちゃ。それの大人向けバージョンという物が、より巧妙に生活に溶け込む形で作られているような気がします。

 溢れ返るグッズの中で、ファンたちが自分がいかにその作品のファンであるかのアピールをして、競争をしてグッズを買い漁る、ということが展開されているようです。

 「けいおん!!」のローソンの販売促進キャンペーンで、用意していた景品がキャンペーン開始5分とか10分とかですべて無くなった、なんて話もあります。そういうことをするのはほとんど10代20代の男だと思うんですが。わたしもファンとして欲しい気持ちは分かりますが……客観的に見てやっぱり気持ち悪いと思います。なんだかなあ、やり過ぎだろう?と単純に思うんです。

 この話の展開だとやっぱり「けいおん!!」がオタクアニメだとオタクじゃない人に嫌われちゃいそうなのでちょっと語らせていただきますと。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 第1シリーズ「けいおん!」第2シリーズ「けいおん!!」アニメ版の特徴として、「引きのカメラ」が挙げられると思います。ちょっと離れた所から撮しているんですね。

 深夜アニメなんかに縁のない人に一応内容を説明しますと、


 女子高の軽音楽部の5人の女の子たちが中心となった、日常のスケッチ的なお話です。特に劇的な事件が起こるわけでもなく、学園生活の放課後を中心にゆるゆる〜っと楽しい時間が過ぎていきます。


 そこで「引きのカメラ」ですが、メインは普通の「寄りのカメラ」やキャラクターと面と向かった「対面カメラ」なんです。

 「引きのカメラ」は客観的に眺めている状態です。これはギャグにも使用されますが、やはり少し距離を置いて外から眺めているという印象があります。これはきっと監督さん(女性)の主人公である彼女たちへの正直な距離感という気がします。「ああ、自分にはもう彼女たちの輝きはないな」という。主人公たちのキラキラした魅力というのは少女たちの限られた一時の物なのですね。ですから物語全体が彼女たちの青春のメモリアルという印象をわたしは受けます。

 というのは監督に近い(? 多分失礼ですね)おっさんの感慨で、同世代の若い人たちが感じる必要のない感想です。若い人たちはそれこそ「わたしたちもバンドをやって輝こう!!」と楽器屋に走ればいいし(高校生がそうそう手が出る物じゃないと思うけど)、音楽じゃなくたってそれぞれの部活や趣味に一生懸命になればいい(そういえば最近マイナーな部活物のマンガが多いのかな?)。わたしも学生時代のヒッチコックや黒澤のカメラがどーのこーのと映画に熱中していた頃のことを思い出したりしますものね。

 「けいおん!!」には「引きのカメラ」に代表されるように「限られた時間の中の輝き」というのをすごく意識させられる描写が多いように感じます。スタッフは「青春時代の有限性」を意識的に描いて、同世代の子たちには「思いっきり楽しんでね!」というエールを送っているように思うんですが、

 一方で「自分はもう青春時代にはいない」という大人の立場も意識させます。

 多分吾妻ひでお氏にはそこが「最初っから終わってんじゃねーよ」と、出来上がった物の再現に終始するような制作姿勢に苛立ちと気持ち悪さを感じたのではないかなあ……と勝手に解釈しています。

 人はいつまでも若い青春時代にはとどまれない、とさりげなくメッセージを送っているアニメスタッフと、物語の内に入っていこうとしない冷めた姿勢への苛立ちとの相容れ無さかと思います。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 そのようなわけでですね、「けいおん!!」は見ている人間が見ている自分をつい振り返ってしまう作りをしているんですが、ですから、ローソンのキャンペーンに殺到して景品を漁りまくるというのは……熱心なファンになってくれるのは嬉しいけれど、そういうのはちょっと……とアニメスタッフは複雑な思いなんじゃないでしょうか? そういう楽しさも十分理解していると思うんです。でも、それは学校帰りに「あ、これかわいい!」と、軽いノリで楽しんでくれればいいことで、そうやって血眼になってのめり込むというのは「ノリが分かってない!」とがっかりする感じじゃないでしょうか?

 彼らは自分がどれだけファンであるかの証明をしたがっているように思います。

 もう何年間も全然見てませんが、「笑っていいとも!」で観客の若い女性がやたらと「かわいい!」を連発していた時期がありましたよね? あれなんかも根っこは同じように思うんですが、自分がそこに参加して、仲間に受け入れてもらって、大好きなその世界の一員として認めてもらいたい、見てもらいたい、という欲求じゃないでしょうか? ただ見ているだけのファン、外にいるのでは、我慢できないのでしょう。

 「オタ芸」の男子たちもそうなんでしょう。

 純粋にファンなら、その一瞬一瞬を見逃すまい聞き逃すまいと集中して、心に焼き付けようとするだろうと思うのです。声を上げてパフォーマンスをするのは、アーティストのパフォーマンスにいっしょに参加するのと同時に、ファンである自分をあなたに見てもらいたい、という自己アピールだと思います。あなたに、あなたの世界を構成する特別な一員として、自分を、認識してもらいたい。という強い欲求なのだろうと思います。

 作る側もそうした彼らの欲求を当て込んだ商売を計算してやるようになり、その最大の成功例はAKB48だと思います。いかに彼らの欲求を取り込むか?というイベント展開で大成功してますからね、明らかに計算ずくで、大したものです。

 それが悪いことか?

 ファンを獲得しようと言うのはエンターテイメントで当たり前のことで、要は、出来上がった物がどうであるか?です。

 わたしは以前はAKB48に批判的だったんですが、番組でコンサートのパフォーマンスを見て、「すごいな。盛り上がるじゃないか」と楽しく、すっかり好意的に評価するようになりました。メンバーの彼女たちの思惑と裏で商売している大人たちの思惑は別なんでしょうが、思いだけでは形は実現できないし、商魂だけでは感動は生まれないし、両者が揃わないと良質のエンターテイメントは提供できないんですね。両者を両立させているプロデューサーは大したものだと正直に思います。


 さて、アニメはどうなんでしょうか?


 AKBほどの賢さと良い意味でのどん欲さが無いと思います。

 AKBはファンの欲求を意図的に自分たちが食い物にして、それを活動のエネルギーに変換して、より前へ、より外へ、拡大していこうと働きます。おそらく現在既にそうなっているのでしょうが、拡大した枠組みの中で、テレビにばんばん出まくって活躍するハイクラスと、その予備軍のミドルクラスと、下積みのロークラスと、内部で階級分けがされて、ハイクラスは普通の人気芸能人としてお茶の間向けに活動し、元来のオタク欲求を満たす「会いに行けるアイドル」の役割はロークラスが引き受け、エネルギーと活動を循環させるということで「AKBフォーマット」を維持し、まだまだお金儲けを続けようと言う算段じゃないでしょうか?

 アニメは一作作るのに膨大な作業量が必要でアイドルのパフォーマンスのような瞬発的な機動性は持ち得ないと思うのですが、ならば「次」への展開で賢さを見せてほしいところですが、その賢さが無いようですね。

 AKBの偉さはファンを食い物にする姿勢があからさまで隠そうとせず、それを全部自分たちの活動に利用し、その代わりよりレベルの高いパフォーマンスや商品を提供することを自分たちに義務づけている点でしょう。

 これは自分たちが稼いで、そのお金で活動しているから可能なんですね。

 アニメでもそれこそスタジオジブリやプロダクションIG、京都アニメ、ボンズなんかの制作スタジオはそれが出来ているんだろうと思います。企画においてスタジオの発言権が強く、自分たちが「いい」と思った物を実現させる力ですね。

 宮崎駿や押井守みたいなおっさんたちはとかく若者たちの活動にケチを付けたがりますが、やっぱり新しい物はすごいと思いますよ。わたしは基本的に年寄りの感性は信用しません。映画監督でも若い頃の作品の方が断然面白い。わたしみたいに地方に住んでいる人間にはオタクの萌え系アニメの方が珍しい環境です。それこそ日本全国で考えれば、批判されているそういうアニメこそ一部の限られたマーケットの商品という気がします。

 で、アニメといえば「オタク」「萌え」というイメージを持たれると言うことが、アニメマーケット全体の狭さを表しているのではないでしょうか?

 ここに宮崎駿や押井守の危惧する内容の貧困さがあるんじゃないかと思います。

 アニメは作るのにとにかくお金が掛かるので、お金を出してもらわなければ作ることが出来ず、お金を出す方はマーケットの分析をして「フムフム、こういう物を作ればこれだけ儲けることが出来るな」という計算で、「じゃあこういう商品展開の出来る物を作ってください」という条件で制作費を出してやるわけです。(実際のところは分かりませんが。推測です)お金を出す方は純粋に商売ですから、アニメの発展なんてことは考えません。自分たちがいくら出せばいくら儲かるかという計算しかありません。資本主義の社会ではそれも当然です。

 なんですが、だからここでAKB並の賢さやどん欲さを持ってほしいんですね。

 ハリウッド映画は最近すっかり低調ですね。売れるのはほんの少数のメジャーなビッグヒットだけで、全体にはさっぱりお客が入らなくなりました。来日するスターもすっかり減っちゃいましたよね。

 何故か?

 どれを見ても印象が全部同じなんじゃないでしょうか? そういうわたし自身最近はすっかり映画を見なくなって、責任を持って確かなことは言えないのですが、経験的な印象です。

 ハリウッドでは編集段階でのプレビューを繰り返し、ヒットするための極力最大公約数を得る努力がされる。制作全般に観客の「最大公約数」を得ようと言うことを繰り返してきた結果、どれを観ても、ジャンルも内容も全然違うはずなのに、観た印象がどれもこれも同じ、という現象が近年すっかり常態化してしまったのではないか、と思う。そのデジャビュ体験を繰り返したお客さんが、すっかり新しい映画への興味を失ってしまったのではないかと思う。確実に売れているヒット作を一本観ればもう十分と。巨大資本のビジネスの道具となったハリウッド映画の陥った落とし穴ですね。

 ビジネスを続けたいのなら、先を見据えた賢い展望が必要でしょう。

 今のアニメにそれがあるか?

 それが問題だと思います。

 どちらか一方では駄目なんです。ちゃんと出資者を儲けさせた上で、唯々諾々と作品に無知な資本家の言いなりになってヒット作の二番煎じを繰り返すのではなく、「旦那旦那、もっとがめつく、がっぽり稼ぎましょうや」と言葉巧みに騙くらかして自分たちが「次」を目指せるような意欲的な作品を作らせる、どん欲な賢さが欲しい。

 今のアニメは結局マーケットが狭いのだと思います。狭いマーケットでオタクな上客がいっぱいお金を出してくれているから商売が成り立っていますが、それだけでは先が知れています。潜在的な可能性を生かせず、より豊かな実りを得られないでいると思います。

 今アニメが金になるというので政府も遅ればせながらに海外発信に力を入れていますが、「経済効果が何兆円」とかそんな試算ばっかりじゃ、アニメという文化をただ食いつぶすだけで、将来的にはまた外国に美味しいところをさらわれてしまいます。アニメや映画というのはとにかく作るだけでお金が掛かるやっかいな物なので、儲けをちゃんと制作現場に還元し、彼らの可能性を最大限引き出せる環境を作ってほしいものです。


 長くなったのでPART2へ続く!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ