「アバター」再考
※短編「「アバター」再考」と同じ中身です。
アカデミー賞の作品賞も監督賞も逃してしまったジェームズ・キャメロン監督の「アバター」。
3Dの映像は「凄い!」と評価されるも、内容に関しては浅いだの薄いだの単純だのパクリだのとさんざんな言われ方をして、まるっきり評価されていないのが私はかなり不満で、既に劇場公開も終了し、DVDが発売されるということで、内容について私の考えた事を書こうと思います。既に多くの人が観たということで「観た」ということを前提に書くのでまだ観ていない人は読まないでください。もったいないので。
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「映画脚本」としてのストーリーについてもいろいろ誉めたいのだけれど、それは置いておいて、
「世界観」について書きたいと思います。
私は「アバター」はそれこそキューブリックの「2001年 宇宙の旅」と並べて語られるべき傑作だと思うのですが、
映画全体で一見単純に見える「自然破壊への警鐘」「物質的繁栄のみを追い求める人間の醜さ」「異文化を認め畏怖する敬虔な心」といったテーマですが、もちろんそのまま受け止めてもいいのですが、「アバター」の世界の構造はそんなに単純な物ではないと思います。
ラスト、主人公は「精神的な世界」を通って新たな肉体(?)に転生を試みるわけですが、
これは単純な「自然への帰還」「精神文化への帰依」とは言えないのではないか?と思います。
映画のストーリーは豊かな自然の中で精神的なつながりを重んじる無垢な現地人の生活を圧倒的な暴力で傍若無人に破壊していく「文明の進んだ」地球人の姿を醜く描いていますが、
青い惑星の「命の木」(名称は覚えてない。ごめんなさい)に集積されて、生き続けている、すべての先人たちの魂というのは、
本体である肉体が滅んでも魂=記憶が記録されている、
それって、
コンピューターと似ている、と言うか、同じだと思いませんか?
惑星が生きていて、「精霊」によって惑星上の生き物と情報交換するというのもインターネットそのものですし、
原住民がドラゴンと「コネクト」して特別の結びつきを得る、という方法もUSB接続の認証コード設立みたいでしょう?
このように「青い惑星」の世界観というのは我々現在の科学技術、コンピューター技術をヒントにデザインされているのではないかと思われます。
ラスト、主人公は「無垢な自然の」青い惑星の原住民に転生してそこで生き続けることを試みますが、
そもそもそれを可能にしているのが「アバター」という地球人の進んだ科学技術であり、
それがアクセスして入っていける世界というのは、
我々の科学技術と同じ線の上にあって、
我々のコンピューター技術をお手本にデザインされたと思われる世界観というのは、
実は、
我々の科学技術の先の延長線上にある世界ではないのか?、
と思うのです。
一見なんの文明も持たない野蛮な生活をしている彼らですが、彼らにとっては快適そのものの環境で、美しい大自然の中で冒険の日々を送り、命の木にコンタクトすることで過去の膨大な精神=智慧、体験、物語に接することもでき、これはまさに理想郷の生活ではないか?
つまり、我々のコンピューター文明が目指すべき未来の理想的な姿がこの「青い惑星」の世界そのものではないか?と示唆しているように私は感じたのですが、いかがでしょう?
「野蛮人」と馬鹿にして破壊の限りを尽くしていた地球人が、実は彼らこそ何も分からない野蛮人そのもので、未来の理想の世界を破壊していた「未開の野蛮人」そのものだった、とも見られるのではないか?
もしかして、裏設定として、
「青い惑星」は自然に出来た自然環境ではなく、進んだ科学文明によってデザインして作られた人工の世界だったのかも知れない。
もっと考えれば、
「青い惑星」もかつては地球のように進みすぎた物質文明によって一度は滅び掛けたのかも知れない。(地球人にとっては過酷な大気であることから推測)そうして悪化した環境に適応した「強靱な自然」を遺伝子操作して作り出し、人類自らも「アバター技術」によってあの大きくて強くてしなやかな肉体美溢れる理想的な体へ「転生」したのかも知れない……
とまあ、それくらい深読みの出来る豊かな世界観が作り込まれていると思うのです。
そうするとあのラストも単純なめでたしめでたしと言うのとは違った感慨があるでしょう?
不自由な体から新たな理想の肉体へ転生する主人公の姿から、
「アバター」は理想の「フランケンシュタイン」物語とも考えられるわけです。
「青い惑星」の世界観は現行人類の理想郷であり、人類の新たな未来への旅立ちを指さし、一方で我々現行人類の終焉を示唆した、「単純なハッピーエンド」ではない結論を表していると思うのです。
どうです?もう一度観たくなりましたか?
映像ももちろん素晴らしいですがストーリーも、深読みすると、奥深い面白い映画なんですよ?