「宇宙戦争」
2005年。スピルバーグ監督作。
傑作だと思う。大好き。
現在何故この題材をこういう描き方でリメイクしたかは明らかだろう。
賛否両論で、「否」の意見はめちゃくちゃに言われているものがあるが、スピルバーグは「え?」と驚きなのではないだろうか。「みんなこういうのが見たかったんじゃないの?」と。
この映画はスピルバーグ版の「ゴジラ」と見てもいいんじゃないだろうか。かつて「ジュラシックパーク」を作ったときのインタビューで「これは『ゴジラ』ではないよ」と言っていたように思う。スピルバーグはいかにも善良なヒューマニストではあるが、実はバイオレンス描写を得意とする監督である。人をギョッとさせ、ヒヤリとさせるのが得意だ。人間の負の感覚でもとりわけバイオレンスというものを知り抜いている監督だと思う。だからスピルバーグにとって「ゴジラ」は「ものすごく恐ろしい物」なのだ。
今でこそゴジラはぬいぐるみのアイドルキャラクターだが、第1作目が公開された当時の観客の驚きは今ではちょっと想像がつかないくらい「ショッキング」なものじゃなかったかと思う。
それは近い過去に同じ「ショック」を味わっているからだ。
当時の観客にとって「ゴジラ」はまさに恐怖の象徴そのものと捉えられたことだろう。(きっと当時も「作り物」だの「子供だまし」だの言うひねくれ者も多かっただろうが)
そこで「宇宙戦争」だが、この流れでいわんとする事はお分かりと思う。
きまじめなスピルバーグはフィルムメーカーとして「9・11」を記録したいと切実に思ったことだろう。ただ、心優しきヒューマニストの彼は、そのままの形で、「創作」、「表現」というフィルターを通さずに、ドキュメンタリーとして記録するのは辛すぎるし、何より、自分の感性で「それは違う」と感じたのではないか。
彼は、「自分の心が受けたショック」をドキュメントしたいと思ったのではないか。
映画の中で人々は圧倒的な暴力に晒され、なすすべなく逃げまどう。
人々はパニックに陥り醜く争う。主人公も善人ではない、自分と家族が生き残ることに必死になっているだけだ。
主人公の息子は敵と戦う軍に付いていって何ごとかなそうとするけれど、結局何も出来ずショックにやられた内省的な面もちになる。
これはスピルバーグの「9・11」当時の心象風景そのものだろう。
近い過去をこうしてドキュメントする行為にどういう意味があるかわたしには分からない。ただ、20年30年先の人間が見れば、当時の人間のこの事件に対する「気分」はリアルに分かることだろう。
この映画を見て腹を立てる人の気持ちは分かる。だって、何も出来ないのだから。
こんな物の何が面白いんだ?と言う気持ちも分かる。そりゃ面白くないだろう。「9・11」のニュース映像を見て「まるで映画みたいだ」と思ったけれど、それを「面白い」とは思わなかったもの。だからスピルバーグはどうしても「ドキュメンタリー」として「9・11」を作れなかったのだろう。
わたしがこの映画を面白いと思うのは、「フィクション」として圧倒的な「演出力」の部分だ。すぐれた表現物はテーマがどうのというのを超越して作品そのものが面白い。
映画のストーリーはほぼ原作小説のままのようだ。わたしも子どもの頃子供向けに翻訳されたものを読んだが、やはりあの「奇跡的」に救われる結末はなんとなく腑に落ちないものがあった。
この映画を否定する多くの意見はこの「ご都合主義」な結末を「馬鹿馬鹿しい」「くだらない」と切り捨てていると思うが、まったくもってその通りだ。
では、考えてみるといい、
これだけ圧倒的でリアルな殺戮描写を重ねてきた映画が、あのような取って付けたような「ハッピーエンド」を迎えて、ではその「あり得ない」ような「奇跡」が起きなかったら? この映画は、主人公の親子は、この先どういったストーリーを辿ったことだろう?
そうだ、その通り。現実世界に「奇跡」なんて起こらないのだ。
「奇跡」の起こらなかった映画の続きに描かれるべき「恐怖」は、なんてことはない、今現在の我々がリアルに抱えているではないか。
重ねて言おう、この映画は、「傑作」である。