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ふしぎな力を持つ令嬢たち

風を読む令嬢

作者: 夜華カナタ
掲載日:2026/10/28

「風見鶏」と笑われてきた港町の令嬢が、王宮の査問の場で、一冊の航海日誌を開いたとき。

婚約破棄、ざまぁ、そしてハッピーエンド。一話完結です。

窓を開けると、南の風が、少しだけ湿っていた。


 ――明日の昼すぎ、雨。夕方には、やむ。


 カミラ・ヨハンセンは、そう思いながら、机の上の小さな帳面を開いた。表紙は、もうすっかり手ずれで丸くなっている。


 今日の日付の横に、短く書きこむ。


 南。やや強い。湿り気あり。明日、昼すぎから雨。


 十歳の春から、一日も欠かさずつけている、風の日記だった。


 カミラには、風が読めた。肌に当たる風の強さ、におい、湿り気。それだけで、明日の空が分かる。港町の子爵家に生まれて、漁師たちの話を聞きながら育ったせいかもしれない。


「お嬢さまの言うとおりにしたら、網が破れずにすんだよ」


 漁師たちは、そう言って、カミラを「港の守り神」と呼んでくれた。


 けれど、婚約者のオルトヴィン・マルタは、別の名前で呼んだ。


「また空を見上げているのか。風見鶏みたいだな、お前は」


 海運で財を成した伯爵家の跡取りだった。カミラの家の小さな港を、自分の家の船で使わせてもらう代わりの婚約だった。


「伯爵家の妻が、漁師の真似をするな。みっともない」


 それ以来、カミラは、人前で空を見上げないようにしてきた。


     *


 王宮の広間に呼ばれたのは、それから三日後のことだった。


 広間の正面には、王太子のセオドア殿下が座っていた。殿下は、王国の海の交易を預かっている。その前に、オルトヴィンが、得意げな顔で立っていた。


「殿下。先ほど申し上げたとおりでございます」


 オルトヴィンは、一冊の分厚い帳面を掲げた。


「十日前、王宮からお預かりした銀の延べ棒を、我が家の船で南の港へ運んでおりました。ところが、湾を出たところで、ひどい嵐にあいまして」


 帳面を開いて、殿下のほうへ向ける。


「これが、その日の航海日誌です。北西からの大風、波は帆柱を越え、積荷はすべて海へ。船長が、その場で書き記したものです。……王宮の銀を失ったことは、まことに申し訳なく。ですが、嵐ばかりは、人の力ではどうにもなりません」


 殿下は、日誌に目を落とした。


 日付の横に、太い字で「大嵐」と書かれていた。


「船長は」


「荒波で怪我をいたしまして、今は療養中でございます」


 広間の貴族たちが、気の毒そうにうなずいた。


 カミラは、広間の隅で、その日付を見ていた。


(……十日前)


 帳面を開くまでもなかった。十日前の空なら、覚えている。


 あの日は、朝からずっと、凪だった。


     *


「それから、殿下」


 オルトヴィンが、ちらりとカミラを振り返った。


「この場を借りて、申し上げておきます。私は、カミラ・ヨハンセンとの婚約を解消いたします。空ばかり見上げている風見鶏では、伯爵家の妻はつとまりませんので」


 くすくすと笑う声がした。


 カミラは、手の中の、すり切れた帳面を、ぎゅっと握りしめた。


 婚約のことなら、もうどうでもよかった。それより、あの日付のほうが気になった。


「婚約の件は、どうぞ、お好きになさってください」


 カミラは、広間の中ほどへ進み出て、殿下の前でひざを折った。


「それよりも、殿下。十日前、あの湾に、嵐は来ておりません」


 広間が、しんとした。


 オルトヴィンが、声を立てて笑った。


「何を言い出すかと思えば。お前は、その日、海の上にいたわけでもあるまい」


「はい。わたくしは、港におりました」


 カミラは、手の中の帳面を開いた。


「わたくしは、十歳のころから、毎日、風と空のことを書きとめております。……十日前の欄には、こうあります」


 カミラは、その一行を、声に出して読んだ。


「凪。一日じゅう、風なし。港の風見鶏、一度も回らず。洗濯物がよく乾く」


 くすりと、誰かが笑った。けれど、すぐに静まった。


「そんなもの、お前が勝手に書いた落書きだ!」


「はい。わたくしが書いたものです。ですから、わたくしの帳面だけでは、証にはなりません」


 カミラは、殿下を見た。


「ですが、港には、港長さまの詰め所がございます。毎朝と毎夕、旗の向きと風の強さを記した記録を、王宮へ送っていらっしゃるはずです。……十日前の記録を、お取り寄せいただけますか」


 殿下は、しばらくカミラの顔を見ていた。


「……港長の記録は、写しが王宮の文書庫にある。持ってこい」


     *


 文書庫から運ばれてきた記録には、こう書かれていた。


 朝、無風。夕、無風。湾内、波なし。出港船、平常どおり。


 広間じゅうが、ざわめいた。


「大嵐の日に、出港船が平常どおり、か」


 殿下が、記録の紙を、ゆっくりとオルトヴィンのほうへ向けた。


「マルタ。お前の航海日誌と、港長の記録。どちらかが嘘を書いている」


「そ、それは……港長の記録が、まちがって……」


「それから、もうひとつ」


 カミラは、オルトヴィンの日誌のほうへ目を向けた。


「その日誌には、北西からの大風、とございました。……北西の風が吹くと、あの湾では、波は沖へ向かって引いていきます。帆柱を越えるような波は、立ちません。湾の漁師なら、子どもでも知っていることです」


 オルトヴィンの顔が、こわばった。


「書いた方は、あの湾の風を、ご存じない方だと思います」


 しばらく、誰も口をきかなかった。


 やがて、殿下が、低い声で言った。


「船長を、ここへ呼べ。療養中なら、担いででも連れてこい」


     *


 連れてこられた船長は、怪我などしていなかった。


 殿下の前で、ふるえながら白状した。十日前、船は湾を出てすぐ、沖の小島の陰に錨を下ろしたこと。銀の延べ棒は、夜のうちに、伯爵家の小舟で別の港へ運ばれたこと。航海日誌は、陸へ戻ってから、若さまに言われたとおりに書いたこと。


「嵐をこしらえたのか」


 殿下は、あきれたように言った。


「空まで偽るとは、たいしたものだ。……あいにく、この国には、空の日記をつけている娘がいた」


 オルトヴィンは、何か言い返そうとして、口を開けたまま、言葉が出てこなかった。もう誰も、彼の航海日誌を信じてはいなかった。マルタ伯爵家の船はすべて王宮に預けられ、オルトヴィンは、銀の行方を白状するまで、牢で過ごすことになった。


     *


 夕方、カミラは、王宮の塔の上の回廊にいた。


 セオドア殿下が、隣で海を見ていた。遠くの港に、小さく帆が並んでいる。


「ヨハンセン嬢。その帳面を、見せてもらえるか」


 カミラは、すり切れた風の日記を差し出した。


 殿下は、ゆっくりとページをめくった。何年ぶんもの空が、細かい字で並んでいる。ところどころに、小さな絵が描いてあった。カモメの絵。虹の絵。


「……これは、王宮のどの記録よりも細かい」


「子どものころから、つけておりますので」


「港の船は、毎年、何隻も嵐で沈む。空が読めれば、沈まずにすむ船がある」


 殿下は、帳面を閉じて、カミラに返した。


「王宮の港務所で、空を読む役についてもらえないだろうか」


「わたくしの日記は、字が下手で、絵ばかりです」


「カモメの絵の日は、晴れなのだろう。三冊めくって、分かった」


 カミラは、思わず吹き出した。


 殿下は、少しだけ照れたように、海のほうへ目をそらした。


「ひとつ、聞いてもいいか」


「はい」


「明日の空は、どうなる」


 カミラは、塔の上の風に、そっと頬を向けた。


 南からの風。少し湿っている。


「昼すぎから、雨です。夕方には、やみます」


「そうか」


 殿下は、うなずいた。それから、少しだけ声を落とした。


「では、雨がやんだら、港を案内してくれないか。……君の空を、私も見てみたい」


 カミラは、帳面を胸に抱えたまま、うなずいた。


 その夜、風の日記の最後の行に、カミラは、いつもより小さな字で、ひとこと書き足した。


 ――南。湿り気あり。胸の中、少し強い風。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

今回の令嬢の力は「風と空」です。毎日つけてきた風の日記が、作り話の嵐を打ち消しました。


いつもは天気しか書かない日記に、最後だけ、ちがうことを書いてもらいました。


シリーズ「ふしぎな力を持つ令嬢たち」の一作です。ほかの令嬢たちのお話も、よろしければどうぞ。

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