風を読む令嬢
「風見鶏」と笑われてきた港町の令嬢が、王宮の査問の場で、一冊の航海日誌を開いたとき。
婚約破棄、ざまぁ、そしてハッピーエンド。一話完結です。
窓を開けると、南の風が、少しだけ湿っていた。
――明日の昼すぎ、雨。夕方には、やむ。
カミラ・ヨハンセンは、そう思いながら、机の上の小さな帳面を開いた。表紙は、もうすっかり手ずれで丸くなっている。
今日の日付の横に、短く書きこむ。
南。やや強い。湿り気あり。明日、昼すぎから雨。
十歳の春から、一日も欠かさずつけている、風の日記だった。
カミラには、風が読めた。肌に当たる風の強さ、におい、湿り気。それだけで、明日の空が分かる。港町の子爵家に生まれて、漁師たちの話を聞きながら育ったせいかもしれない。
「お嬢さまの言うとおりにしたら、網が破れずにすんだよ」
漁師たちは、そう言って、カミラを「港の守り神」と呼んでくれた。
けれど、婚約者のオルトヴィン・マルタは、別の名前で呼んだ。
「また空を見上げているのか。風見鶏みたいだな、お前は」
海運で財を成した伯爵家の跡取りだった。カミラの家の小さな港を、自分の家の船で使わせてもらう代わりの婚約だった。
「伯爵家の妻が、漁師の真似をするな。みっともない」
それ以来、カミラは、人前で空を見上げないようにしてきた。
*
王宮の広間に呼ばれたのは、それから三日後のことだった。
広間の正面には、王太子のセオドア殿下が座っていた。殿下は、王国の海の交易を預かっている。その前に、オルトヴィンが、得意げな顔で立っていた。
「殿下。先ほど申し上げたとおりでございます」
オルトヴィンは、一冊の分厚い帳面を掲げた。
「十日前、王宮からお預かりした銀の延べ棒を、我が家の船で南の港へ運んでおりました。ところが、湾を出たところで、ひどい嵐にあいまして」
帳面を開いて、殿下のほうへ向ける。
「これが、その日の航海日誌です。北西からの大風、波は帆柱を越え、積荷はすべて海へ。船長が、その場で書き記したものです。……王宮の銀を失ったことは、まことに申し訳なく。ですが、嵐ばかりは、人の力ではどうにもなりません」
殿下は、日誌に目を落とした。
日付の横に、太い字で「大嵐」と書かれていた。
「船長は」
「荒波で怪我をいたしまして、今は療養中でございます」
広間の貴族たちが、気の毒そうにうなずいた。
カミラは、広間の隅で、その日付を見ていた。
(……十日前)
帳面を開くまでもなかった。十日前の空なら、覚えている。
あの日は、朝からずっと、凪だった。
*
「それから、殿下」
オルトヴィンが、ちらりとカミラを振り返った。
「この場を借りて、申し上げておきます。私は、カミラ・ヨハンセンとの婚約を解消いたします。空ばかり見上げている風見鶏では、伯爵家の妻はつとまりませんので」
くすくすと笑う声がした。
カミラは、手の中の、すり切れた帳面を、ぎゅっと握りしめた。
婚約のことなら、もうどうでもよかった。それより、あの日付のほうが気になった。
「婚約の件は、どうぞ、お好きになさってください」
カミラは、広間の中ほどへ進み出て、殿下の前でひざを折った。
「それよりも、殿下。十日前、あの湾に、嵐は来ておりません」
広間が、しんとした。
オルトヴィンが、声を立てて笑った。
「何を言い出すかと思えば。お前は、その日、海の上にいたわけでもあるまい」
「はい。わたくしは、港におりました」
カミラは、手の中の帳面を開いた。
「わたくしは、十歳のころから、毎日、風と空のことを書きとめております。……十日前の欄には、こうあります」
カミラは、その一行を、声に出して読んだ。
「凪。一日じゅう、風なし。港の風見鶏、一度も回らず。洗濯物がよく乾く」
くすりと、誰かが笑った。けれど、すぐに静まった。
「そんなもの、お前が勝手に書いた落書きだ!」
「はい。わたくしが書いたものです。ですから、わたくしの帳面だけでは、証にはなりません」
カミラは、殿下を見た。
「ですが、港には、港長さまの詰め所がございます。毎朝と毎夕、旗の向きと風の強さを記した記録を、王宮へ送っていらっしゃるはずです。……十日前の記録を、お取り寄せいただけますか」
殿下は、しばらくカミラの顔を見ていた。
「……港長の記録は、写しが王宮の文書庫にある。持ってこい」
*
文書庫から運ばれてきた記録には、こう書かれていた。
朝、無風。夕、無風。湾内、波なし。出港船、平常どおり。
広間じゅうが、ざわめいた。
「大嵐の日に、出港船が平常どおり、か」
殿下が、記録の紙を、ゆっくりとオルトヴィンのほうへ向けた。
「マルタ。お前の航海日誌と、港長の記録。どちらかが嘘を書いている」
「そ、それは……港長の記録が、まちがって……」
「それから、もうひとつ」
カミラは、オルトヴィンの日誌のほうへ目を向けた。
「その日誌には、北西からの大風、とございました。……北西の風が吹くと、あの湾では、波は沖へ向かって引いていきます。帆柱を越えるような波は、立ちません。湾の漁師なら、子どもでも知っていることです」
オルトヴィンの顔が、こわばった。
「書いた方は、あの湾の風を、ご存じない方だと思います」
しばらく、誰も口をきかなかった。
やがて、殿下が、低い声で言った。
「船長を、ここへ呼べ。療養中なら、担いででも連れてこい」
*
連れてこられた船長は、怪我などしていなかった。
殿下の前で、ふるえながら白状した。十日前、船は湾を出てすぐ、沖の小島の陰に錨を下ろしたこと。銀の延べ棒は、夜のうちに、伯爵家の小舟で別の港へ運ばれたこと。航海日誌は、陸へ戻ってから、若さまに言われたとおりに書いたこと。
「嵐をこしらえたのか」
殿下は、あきれたように言った。
「空まで偽るとは、たいしたものだ。……あいにく、この国には、空の日記をつけている娘がいた」
オルトヴィンは、何か言い返そうとして、口を開けたまま、言葉が出てこなかった。もう誰も、彼の航海日誌を信じてはいなかった。マルタ伯爵家の船はすべて王宮に預けられ、オルトヴィンは、銀の行方を白状するまで、牢で過ごすことになった。
*
夕方、カミラは、王宮の塔の上の回廊にいた。
セオドア殿下が、隣で海を見ていた。遠くの港に、小さく帆が並んでいる。
「ヨハンセン嬢。その帳面を、見せてもらえるか」
カミラは、すり切れた風の日記を差し出した。
殿下は、ゆっくりとページをめくった。何年ぶんもの空が、細かい字で並んでいる。ところどころに、小さな絵が描いてあった。カモメの絵。虹の絵。
「……これは、王宮のどの記録よりも細かい」
「子どものころから、つけておりますので」
「港の船は、毎年、何隻も嵐で沈む。空が読めれば、沈まずにすむ船がある」
殿下は、帳面を閉じて、カミラに返した。
「王宮の港務所で、空を読む役についてもらえないだろうか」
「わたくしの日記は、字が下手で、絵ばかりです」
「カモメの絵の日は、晴れなのだろう。三冊めくって、分かった」
カミラは、思わず吹き出した。
殿下は、少しだけ照れたように、海のほうへ目をそらした。
「ひとつ、聞いてもいいか」
「はい」
「明日の空は、どうなる」
カミラは、塔の上の風に、そっと頬を向けた。
南からの風。少し湿っている。
「昼すぎから、雨です。夕方には、やみます」
「そうか」
殿下は、うなずいた。それから、少しだけ声を落とした。
「では、雨がやんだら、港を案内してくれないか。……君の空を、私も見てみたい」
カミラは、帳面を胸に抱えたまま、うなずいた。
その夜、風の日記の最後の行に、カミラは、いつもより小さな字で、ひとこと書き足した。
――南。湿り気あり。胸の中、少し強い風。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
今回の令嬢の力は「風と空」です。毎日つけてきた風の日記が、作り話の嵐を打ち消しました。
いつもは天気しか書かない日記に、最後だけ、ちがうことを書いてもらいました。
シリーズ「ふしぎな力を持つ令嬢たち」の一作です。ほかの令嬢たちのお話も、よろしければどうぞ。




