Episode 35:セレンと鎧の夜想曲
ティアの魂が夜空に溶けた後の、しんと静まり返った星屑の道。
ノワールは道の端に佇み、無骨な黒い兜をわずかに上げて、星々が明滅する夜空をじっと見上げていた。その左肩には、相棒のユウが静かに翅を閉じて留まっている。
すると、夜風に乗って、澄んだ水晶の粒が転がるような、どこまでも柔らかな音色が近づいてきた。
その音色は、つい先ほどまでティアがこの場所に残していった「光の余韻」に触れると、まるで呼応するようにほんのわずかに共鳴して優しく揺れた。
二人の前にふわりと現れたのは、銀色に透き通った美しい翅を持ち、優しい月光のような光をまとった一匹の大人の星鈴虫だった。
「……なんだ?」ノワールは面甲の奥の光を細めた。
『ふふ……ノワールさん、ユウさん。お久しぶりね。私のこの声、覚えていてくれたかしら?』
星鈴虫は、優しく微笑むような柔らかい音色を空間に響かせた。
ユウが驚いたように翅を小さく開く。
「……もしかして、あの時の……? ティアの病室の窓からいっつも入ってきていた、小さな小さな星鈴虫の……?」
『ええ、そうよ。セレンよ』
セレンは懐かしそうに、銀色の翅をそっと優しく広げた。
『今夜、光虫の谷で仲間たちがみんな眠りについた後、ふと昔のことが懐かしくなって散歩をしていたの。そうしたら、お二人の姿が見えたから、嬉しくて来てみたのよ』
「……随分と大きく、立派に成長したな」
ノワールは低く、驚きを隠せない声を絞り出した。
「お前が、あの病室にいた……」
セレンは愛おしそうに翅を細かく震わせ、どこか切なくも温かい、懐かしいメロディを一節奏で始めた。
その瞬間──。
先ほどティアが消え去った場所にぽつんと残っていた微かな金色の光が、セレンの奏でる旋律の波紋に合わせて、まるでダンスを踊るように優しく揺らめいた。
それはかつてあの狭い病室で、ティアと老魔導師、幼い頃のユウ、そして小さな星鈴虫たちが寄り添い合って一緒に作った、あの『ふわふわの歌』の、セレンによる即興の夜想曲アレンジだった。
セレンはメロディを奏でながら、ゆっくりと過去を語り始める。
『ある夜のこと、ティアさんはベッドの上で、おじいちゃんと一緒に小さな歌を作っていましたの。私は窓の隙間からそっと忍び込んで、ティアさんの愛らしい声に合わせて、一生懸命に羽を震わせていたわ。おじいちゃんが「明日もがんばろー!」って言った時、ティアさんは本当に嬉しそうに笑って……
「ティアも! みんなと一緒に、ぽかぽか道を歩こうね〜!」って即興で歌ったの。あの眩しい歌と笑顔が、私の心に、今もずっと消えずに残っていますわ』
ノワールは無言のまま、重厚な鉄の兜を自身の胸に当て、静かに目を閉じた。
その胸の奥では、自らの旅の始まりの記憶が、濁流のように蘇っていた。
「俺はあの頃、まだ自分の感情すら持たない、ただの冷徹な魔導兵器の鎧だった」
ノワールは地を這うような低い声で言った。
「星屑塔の最深部で造られ、あの怪しげな施設を脱走した直後は……ティアの魂をその身に宿したばかりで、ただ、おじい殿と交わした『この子を故郷の村まで連れて行く』という呪縛のような約束だけを頑なに考えて動いていた」
「施設の冷たい実験室の記憶、老魔導師の血の気の引いた震える手……。すべてを闇へ振り切って、あの日、二人だけの無謀な旅が始まったんだ」
ユウが翅の魔導文字を優しく明滅させ、ノワールの言葉を継ぐ。
「……うん。最初は、目的地もわからない、二人きりの寂しい旅だったよね。でも、ティアが毎朝、世界が書き換わる絶望の中でも『今日こそ帰ろー!』って無邪気に笑うたび、ノワールさんの胸の星槽が、ほんの少しずつ、確かに温かくなっていったんだ……」
セレンは優しいメロディを背景に響かせながら、微笑むように翅を揺らした。
『それから、この寂しい星屑の道で、たくさんの愛らしい子たちと出会ったんですってね。谷の仲間たちから、みなさんが本当に楽しそうに旅をしているお話をたくさん聞きましたわ』
『ミルフィちゃんの深い孤独を優しいパンで癒した時。ピクシーさんたちと一緒に、賑やかに近道を探した時……。ルミさんとルナさんの星月亭で、みんなでふわふわな夜の時間を過ごした時……。ルカちゃんや星影の子たちとの賑らかなかくれんぼ、モコちゃんが作ったふわふわな雲のお城……。そして、先ほどの光虫の谷で、ティアさんが世界で一番輝いた、あの美しい夜……』
「ああ」
ノワールは一つひとつの名前を、愛おしい思い出を辿るように噛み締めた。
「みんな、ティアの『明日もがんばろー!』というあの真っ直ぐな言葉で、凍りついた心を温められた。……そして他ならぬ俺自身も、あの言葉を聞くたびに、ただの動く鉄塊だったはずの胸の奥が、命のような熱を持つようになっていったんだ」
セレンの奏でる旋律が、少しだけ切ない色彩を帯びる。
『ティアさんはね、病室で一人きりで苦しい時も、寂しい顔を隠して、私たちに「私は寂しくないよ、一緒に歌おうね」って優しく話しかけてくれたわ。高熱が続いて身体を動かすことすらできなかった夜も、消え入りそうな弱々しい声で「明日も、がんばろー!」って、自分を奮い立たせるように微笑んでいた……。あの強くて優しい笑顔が、私をここまで大きく、強く成長させてくれたのよ』
ユウは己の翅をセレンの翅にそっと重ね合わせるようにして、優しく震わせた。
「……私も、セレンも、この旅で出会ったみんなも……全員が、ティアの『明日もがんばろー!』の光に救われたんだ。だから今度は、私たちがティアを救う番。ティアが繋いでくれたこのすべての温かな光を、何があっても守り抜きたい……。それが、今の私たちの、共通の想いなんだ」
「……俺は」ノワールは面甲の奥の光を、かつてないほど激しく、熱く燃え上がらせた。
「俺は、ティアが心から笑うことのできる世界を守りたい。そして、あの子がこの旅で出会い、紡いできた者たち全員の、小さな幸せもすべて守り抜く。……ただの機能だった俺に、生きる意味をくれた。それが、ティアが与えてくれた、俺の新しい存在理由だ」
セレンはノワールの言葉を肯定するように、最後にひときわ大きく、温かく優しいメロディを満天の星空へと響かせ、ゆっくりと夜空へ向けて浮き上がっていった。
その美しい音色に導かれるように、ティアの残していった金色の光の粒子が、ほんの一瞬だけ、まるで少女がステップを踏んだかのように眩しく揺らめいた。
『今度は、ティアさんが起きている時間に必ず遊びにくるわね』
セレンは去り際に、夜風に溶けるような柔らかい音色を残した。
『メロディが欲しくなったり、寂しくなったりしたらいつでも呼んで。ティアさんの、世界で一番大好きなあの笑顔のために、私はいつでも、どこでだって歌いますから』
銀翅の星鈴虫は、淡い綺麗な光の尾を引きながら、静かに、静かに夜空の向こうへと溶けて消えていった。
残されたノワールは、胸の星槽がセレンの夜想曲の余韻で温かく脈打つのを感じながら、静かに拳を握りしめた。
ティアが紡いだ光は、決して彼女一人だけのものではない。この寂しい星屑の道に、確かに寄り添う仲間たちの絆が、静かに、しかし決して消えない強固な光となって広がり始めていた。




