Episode 17:星影の子と星言の守護者
午後の柔らかな銀光が星屑の道を静かに照らす中、星影の子ルカは、今日もぽつんと一人きりで花を摘んでいた。
小さな黒い角に、ふわふわとした影のような尻尾。里の子どもたちと同じくらいの年齢の男の子であるにもかかわらず、周囲を浮遊する精霊たちはルカの姿を見るなり、慌てて道を譲っていく。
「影の化身が来た……」
風に乗って、そんな冷たい囁きが微かに聞こえてくる。
「……今日も、みんなと遊びたいな。この花、きれいだろ?」
ルカは小さな声で、摘み取ったばかりの花にそっと話しかけた。
「お母さんみたいに、笑顔でみんなに渡したいのに……どうして、僕が近づくとみんな逃げちゃうんだろう……」
ルカの胸の奥は、いつも冷たい寂しさで満たされていた。
本当は里の子どもたちと一緒に広場を走り回って、たくさん笑って、香ばしい星蜜パンを分け合いたい。けれど「影の化身は里の秩序を乱す」と昔から大人たちに言われ続け、誰一人として近づいてはくれなかった。ルカは花をぎゅっと握りしめ、溢れそうになる涙を必死にこらえた。
そこへ、カツン、カツンと重く容赦のない足音が近づいてくる。
現れたのは、星言の守護者ガルドだった。古い星言の紋様が刻まれたローブをまとい、大木のような杖を固く握りしめた、ひどく厳しい顔つきの男だ。里の者たちからは「戒めの守護者」と畏怖され、道の秩序を守るために影の化身を遠ざけるのが彼の絶対の役目だった。
「ルカ。また里の近くをうろついているのか」
ガルドの低く、抑揚のない声が響く。
「影の化身が近づけば、星の記憶が乱れる。お前のような者がそこにいるだけで、皆が不安になるのだ。去れ」
「……僕、ただ花を摘んで……みんなと遊びたいだけなのに……」
ルカは小さな肩をさらにすくめながらも、必死に顔を上げた。
「怖がられるの、嫌だよ……。守護者さんも、僕のこと、怖いの……?」
その問いかけに、ガルドの胸の奥へわずかな痛みが走った。
本当は、ルカのその張り裂けそうな寂しそうな目を見るたび、昔の自分を思い出して仕方がなかったのだ。かつてガルドも「厳しく戒めねばならない」と己を過酷に縛りつけ、誰かに優しくしたいという本音をずっと押し殺してきた。
しかし、守護者として里を、秩序を死守するため、今さら弱い心を表に出すわけにはいかない。ガルドは杖を強く握りしめ、あえて声をさらに低くした。
「……優しさなど、影の化身には必要ない。戒めこそが、結果的にお前を守る道なのだ」
「待って待って! 二人とも、喧嘩しないで!」
その硬直した空気の間に、鈴を転がすような明るい声が飛び込んできた。
ティアが笑顔いっぱいで駆け寄り、ルカの前にすとんとしゃがみ込む。
「ルカちゃん、その花とってもきれいだね! 私にも一つちょうだい?」
ティアはルカの小さな角に触れそうなくらい顔を近づけ、まっすぐに目を合わせて微笑みかけた。
「ルカちゃん、一人で寂しかったよね。私もね、病室でずっと一人きりだった時、毎日『誰かと遊びたいな』って思っていたよ。でも、今はノワールやユウがいてくれたから、こうして一歩を踏み出す勇気が出たの。一緒に花を摘もう? ルカちゃんの綺麗な花、里のみんなにプレゼントしようよ!」
「……お姉ちゃん、僕のこと……怖くないの?」
ルリアの手をそっと握り返しながら、ルカの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。「みんな、僕を見ると化け物みたいに逃げるのに……」
「怖くないよ」と、ティアはルカの頭を優しく撫でた。「だってルカちゃんは、ただみんなと仲良くしたいだけだもん。でしょ? それって、すっごく素敵なことだよ!」
その時、紙翅モスのユウが静かに翅を広げ、ルカのすぐ近くへと留まった。翅の文字が淡く明滅し、ひらひらと一枚の小さな紙片を落とす。
「……『本当は、みんなと笑いたい』……。この子の心の欠片、ティアの言葉とまったく同じだね」
紙片が床に触れた瞬間、ルカの秘められた記憶が周囲の空間に淡く再生された。
里の子どもたちに勇気を出して花を差し出そうとするも、泣きながら逃げられてしまう小さな背中。一人寂しく花を摘みながら「僕も仲間に入れてほしいな……」と呟く孤独な夜の景色──。
「これ……僕の想いだ……」
ルカはティアの手を強く握りしめ、涙を拭った。「ティアお姉ちゃんがいてくれるから、やっと言葉にできた……」
するとユウは、今度はガルドの足元へと音もなく近づき、もう一枚の紙片をハラリと落とした。
「……『本当は、人に優しく接したい』……。この堅くて冷たいローブの下に、これほど温かい想いが隠れている」
その紙片が放つ光に触れた瞬間、今度はガルドの封印していた記憶が映し出される。
かつて若い頃、影の化身の子どもを助けようとして、逆に村人たちから激しく責め立てられた過去。それ以来「心を鬼にして戒めなければ里は守れない」と自分を強引に縛り、本当は誰かに優しく手を差し伸べたいと願い続けていた、あまりに孤独な夜の記憶──。
ガルドの杖を持つ手が、わずかに震えた。
「……なぜ、わかる……? 私は守護者として……影を排斥せねばならないのだ……。だが、本当は……こうして、私も誰かの手を温かく握りたかったのかもしれん……」
「守護者さん」
ティアがガルドの古びたローブの袖をそっと引き、天真爛漫に笑いかけた。
「ルカちゃんも、守護者さんも、ただみんなと遊びたいだけなんだよ。守護者さんも、本当は優しくしたいって思ってるんでしょ? だったら一緒に、ルカちゃんと遊ぼうよ!」
ティアの濁りのない笑顔と、ユウの紡いだ詩片の温かさが重なり、ガルドの心を覆っていた分厚く固い殻が、時間をかけてゆっくりと溶けていく。
ガルドは静かに杖を下ろし、生まれて初めて、ルカに向かって大きな手を差し伸べた。
「……すまなかったな、ルカ。私も……本当は、こうして誰かと笑い合いたかったのだ」
「守護者さん……! ありがとう! 全部、ティアお姉ちゃんのおかげだよ!」
ルカはガルドの手をぎゅっと握りしめ、満面の笑みを咲かせた。
ノワールはただ静かに、その三人を見つめていた。
かつての自分であれば「影の化身だから危険だ」と即座に判断し、剣を構えて警戒していただろう。それが今や、ティアの無償の優しさとユウの美しい詩に導かれ、こうしてただ温かく見守っている。鉄の塊のはずの胸の奥で、人間らしい豊かな感情が確かに芽生え、息づいているのを感じていた。
(……ティア。お前がそばにいると、俺のこの冷たい身体も……少しずつ、変われる気がするな)
◇
やがて夕陽が沈み、いつもの『星屑シフト』が訪れる。里の灯りは遠ざかり、あともう少しの過酷な距離へと戻されていく。
時間となり、ティアの魂がふわりと夜空へ浮き上がった。
「えへへ……今日は、ルカちゃんと守護者さんが笑顔になって……私、すごくいい一日だったよ。明日も、がんばろー!」
幸せそうな笑顔を残し、彼女の魂は夜空へと溶けるように消え去っていった。
ユウはティアの消えた場所で翅をゆっくりと広げ、淡い光を放ちながら、ノワールの胸の星槽のすぐ近くへと留まった。今日の心温まる出来事を噛み締めるように、翅の文字が静かに輝いている。
「……ユウ」
ノワールが低く、穏やかな声をかける。
「今日も、ティアの優しさがすべてを変えたな」
「うん」と、ユウは短い光の詩を足元に落としながら答えた。
「『優しさは、どんな深い影も照らす』……。ノワールさんも、あの頃の冷たい鉄から、少しずつ大切な光を取り戻しているよ」
ノワールは肩の上の、ユウの温かな紙翅の光を感じながら、静かに深く頷いた。
夜闇のなかを進む黒い鎧の足取りは、昨日よりも、ほんのわずかだけ軽やかだった。




