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大奥七罪絵巻 寵愛を奪われた奥女中は、強欲な御台所と嫉妬の側室たちを将軍の密書で裁き、憎悪の奥を生き抜く〜御鈴廊下に燃える女たちの闇地獄絵巻  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第51話 妙菊の望み

 助ける、という言葉は優しい。


 だからこそ、怖い。


 助けると言う側は、自分が正しい場所に立っているような気持ちになれる。

 相手のために動いているのだと信じられる。

 けれど、その言葉の中に、相手の声が入っていないことがある。


 どう助けられたいのか。

 本当に助けを求めているのか。

 逃げたいのか。

 残りたいのか。

 戦いたいのか。

 ただ、静かに生きたいのか。


 それを聞かないまま手を伸ばせば、助けるという名札を貼ることになる。


 妙菊様を助ける。


 そう思った瞬間、私たちはまた、彼女の名をこちらの都合で包みかけていたのかもしれない。


 御台所の部屋には、朝から香の匂いが薄く漂っていた。


 白檀と沈丁花。


 前に妙菊様へ届けた香袋と同じ香だ。


 けれど、今日はその香が少し重く感じた。


 問いを送る日だからだ。


 答えを決めるのではない。


 問いを渡す。


 それは、思っていたよりずっと怖いことだった。


「根を移すか、花として庵に残るか」


 御台所は文机の前で、ゆっくりと言った。


「それを妙菊へ問います」


 千鳥は、小夜の鈴を両手で包み込んでいた。


「逃げてください、じゃ駄目なんですよね」


「駄目です」


 御台所は即答した。


「危ないから逃げてください、でも?」


「それも、こちらの都合です」


「でも危ないのは本当です」


「ええ」


「じゃあ、難しい」


「人を人として扱うのは、難しいのです」


 御台所の声は静かだった。


 千鳥は唇を尖らせたが、反論はしなかった。


 もう分かっているのだ。


 妙菊様は、ただの救出対象ではない。


 七年、名を隠しながら生きた人だ。


 志乃の香を覚え、小夜の鈴を覚え、自分の名を捨てたふりで抱え続けた人だ。


 その人に向かって、こちらが勝手に「逃げろ」と命じることはできない。


「でも」


 千鳥が小さく言った。


「もし妙菊さんが、庵に残るって言ったら?」


 その問いに、部屋が静かになった。


 松ヶ枝も、お袖も、御台所も、すぐには答えない。


 私も、言葉に詰まった。


 残る。


 無鐘庵に。


 水辺の菊として。


 根が腐るかもしれない土に縛られたまま。


「それでも、本人の望みなら」


 私は言いかけた。


 でも、最後まで言えなかった。


 本人の望みなら、尊重する。


 言うのは簡単だ。


 だが、その望みが恐怖から出たものだったら。

 諦めから出たものだったら。

 七年の間に、自分を守るために身につけた沈黙だったら。


 本当に、それを望みと呼んでよいのか。


 御台所が、私の迷いを見透かしたように言った。


「だから、問い方が大切なのです」


「問い方」


「ええ。ただ『逃げますか、残りますか』では足りません。逃げることを選べる、と知っているか。残ることも選べる、と知っているか。証を語る道があると知っているか。沈黙を選んでも責められないと知っているか」


 千鳥が眉を寄せた。


「選択肢、多いですね」


「人の人生ですから」


「大奥って、いつも選択肢をなくす場所なのに」


「だから、こちらは選択肢を返すのです」


 選択肢を返す。


 その言葉が、胸に残った。


 名を返すだけではない。


 選ぶ権利も返す。


 妙菊様は、自分の名を持って、自分で選ぶべき人なのだ。


 お袖が、淡い白鼠の布を取り出した。


「今回も香袋にしますか」


「はい」


 御台所が答える。


「直接の文は危険です。けれど、問いは必要。短い紙を入れます。ただし、読まれても意味が一つに決まらないように」


「また花の話ですね」


 千鳥が言う。


「ええ」


 御台所は私を見た。


「篠乃井。書きなさい」


「はい」


 筆を取る。


 紙は小さい。


 長くは書けない。


 けれど、短すぎても届かない。


 私は墨を含ませ、しばらく白い紙を見つめた。


 妙菊様へ。

 そう書きたい。


 菊乃様へ。

 そう呼びたい。


 でも、今はまだ危険だ。


 花の言葉で書くしかない。


 私は、ゆっくり筆を下ろした。


 ――水辺の菊へ。

 ――根を移す道あり。

 ――庵に残る道もあり。

 ――花として黙る道も、名を持って語る道もあり。

 ――選ぶのは、花自身。


 書き終えて、少し息を吐いた。


 千鳥が覗き込む。


「花自身」


「はい」


「いいと思う」


「そうでしょうか」


「うん。妙菊さんに、選んでくださいって言ってる」


 御台所が紙を受け取り、目を通した。


「よいでしょう。ただ、一文足します」


 御台所は筆を取り、最後に細く書いた。


 ――どの道を選んでも、名は奪わぬ。


 千鳥が小さく息を呑んだ。


「それ、大事ですね」


「ええ」


 御台所は紙を畳んだ。


「妙菊が庵に残ると選んでも、私たちは彼女を臆病者とは呼ばない。証を語ると選んでも、道具とは呼ばない。沈黙を選んでも、裏切り者とは呼ばない」


「はい」


 私は頷いた。


 それは、こちら自身への誓いでもあった。


 お袖が香袋を結ぶ。


 白檀と沈丁花。


 前回よりも、沈丁花は少し薄い。


 代わりに、乾いた菊の花びらをほんの一片だけ混ぜる。


「菊の香は強くありません」


 お袖が言った。


「でも、花びらが入っていれば、開けた時に気づくでしょう」


「妙菊様なら」


「はい」


 千鳥は、結び目をじっと見ていた。


「今回は私、結ばない方がいいですよね」


「本番は私が結びます」


 お袖が淡々と言う。


「分かってます」


「ですが、最後の輪だけ、千鳥が整えますか」


 千鳥が顔を上げた。


「私が?」


「はい。切らずにほどける逃げ道です」


「私、失敗したら」


「私が直します」


「……じゃあ、やります」


 千鳥は恐る恐る指を伸ばした。


 小さな輪。


 切らずにほどくための隙間。


 小夜の鈴を持つ千鳥の指が、その隙間を整える。


 少し歪んだ。


 でも、お袖は直さなかった。


「よいでしょう」


「歪んでません?」


「少し」


「直さないんですか」


「千鳥の手が入ったと分かる方が、よいこともあります」


 千鳥は黙った。


 それから、小さく頷いた。


「小夜、見てるかな」


「見ていますよ」


 お袖が答えた。


 千鳥は驚いた顔をした。


「お袖様がそういうこと言うと、泣きそうになります」


「泣いても結び目はほどけません」


「やっぱり厳しい」


「半分です」


「もう、みんな半分」


 千鳥は文句を言いながらも、少し笑った。


 香袋は初瀬に託された。


 今度は、前回と同じ道は使わない。


 佐伯新六の手を通し、さらに無鐘庵の炊事方へ。


 その炊事方の老女が、妙菊様に通じている。


 名はまだ分からない。


 けれど千鳥は、文使いの名と同じように、その人の名も知りたがっていた。


「炊事方のおばあさんの名前も、分かったら教えてください」


 千鳥が言うと、初瀬は頷いた。


「確認します」


「名を守る話なので」


「承知しています」


 初瀬は、いつもよりわずかに柔らかく答えた。


 香袋が出た後、待つ時間が始まった。


 待つことに、慣れたくはない。


 だが、少しずつ待ち方は覚えてきた。


 ただ怯えて待つのではない。


 次の札を読む。

 噂の流れを見る。

 箱の手順を確認する。

 父の文を整理する。

 妙菊様からの返事がどんな形で来ても受け取れるように、自分の心の置き場所を整える。


 御台所は、黒塗りの箱をようやく出した。


 強欲の箱。


 以前は見るだけで息苦しくなったが、今日は少し違った。


 怖い箱であることに変わりはない。


 けれど、その箱には今、妙菊様の文の写しも、父の文も、お房の紙片も入っている。


 名を殺すための箱ではなく、名を守るための箱として使われている。


 箱もまた、持つ者と使い方で変わるのだ。


「御台様」


「何です」


「御台様の箱は、今は味方ですか」


 御台所は私を見た。


 少しだけ意外そうな顔をして、それから薄く笑った。


「今は、という言い方がよいですね」


「はい」


「箱に味方も敵もありません。開ける者が何を望むかです」


「御台様は、今何を望んでいるのですか」


「全部を」


「強欲ですね」


「ええ」


 御台所は微笑んだ。


「志乃の名も、小夜の名も、菊乃の名も、父君の箱も、妙菊の声も。全部欲しい」


 千鳥が小声で言った。


「欲張りすぎ」


「強欲ですので」


「開き直った」


 それでも、千鳥は少し嬉しそうだった。


 夕暮れの前に、御末の間ではまた噂が動いた。


 大御台様側は、古き札をさらに広げようとしている。


 菊乃は御子を騙った女。

 妙菊は病で声を出せぬ尼。

 声なき女の言葉を誰が信じるのか。


 お吉が、少し青ざめた顔でこちらへ来た。


「篠乃井さん、また嫌な話が出てる」


「聞きます」


「妙菊って尼は、病でまともに話せないから、何を言っても周りが作った言葉だって」


 千鳥が強く息を吸った。


 一度。


 それから言った。


「それ、変です」


 お吉が思わず苦笑した。


「あなた最近、まず変ですって言うわね」


「変だからです」


「で、どこが?」


「声が出せないなら信じないって、都合よすぎます。小夜の鈴だって、返事はなかったけど、鳴ったことは消えません」


 お吉は目を瞬かせた。


「鈴?」


「花の話です」


「もう鈴なのか花なのか分からないわよ」


「どっちもです」


 千鳥は真面目な顔で続けた。


「声が小さい人の言葉は、周りが聞きに行けばいい。声が出せないなら、書いたものを見る。書けないなら、結び目を見る。香を見る。全部、声です」


 お吉は黙った。


 近くの女中たちも、手を止めている。


 私は千鳥の隣で言った。


「声が返らぬなら存在しない、というのは、声を聞きに行きたくない者の言い訳です」


 お吉が、小さく息を吐いた。


「……それ、流すわ」


「お願いします」


「最近、私、便利に使われてない?」


 千鳥が言った。


「向いてます」


「褒めないで。調子に乗るから」


「自分で分かってるんですね」


「千鳥、本当に強くなったわね」


 お吉はそう言って、ふっと笑った。


 その笑いは、以前のお吉とは少し違っていた。


 ただの意地悪ではない。


 怖がりながらも、こちら側へ足を置いてしまった人の笑いだった。


 夜になって、返事が来た。


 今回は早かった。


 早すぎて、逆に不安になるほどだった。


 初瀬が持ってきた紙は、前の妙菊様の文よりさらに小さかった。


 紙というより、経巻の端を切ったような細いもの。


 御台所が確認し、私へ渡す。


「読みなさい」


 私は紙を開いた。


 字は、前より少し震えていた。


 けれど、線は折れていない。


 ――香、届きました。

 ――問いも、届きました。

 ――私は逃げたいのではありません。


 千鳥が息を呑む。


 私は続きを読んだ。


 ――私は、名を持って、証を語れる場所へ行きたいのです。

 ――庵に残ることはできます。

 ――妙菊として、息をひそめることもできます。

 ――けれど、それでは菊乃がまた土の中へ戻ります。

 ――私は菊乃を、もう一度土の上へ出したい。


 声が震えた。


 でも、読み続けた。


 ――ただし、私を証だけにしないでください。

 ――私は菊乃です。

 ――私は妙菊でもあります。

 ――七年の沈黙も、私のものです。

 ――語るなら、私の口で語ります。


 部屋の空気が、静かに震えた。


 妙菊様は、逃げたいのではない。


 証を語れる場所へ行きたい。


 それは、助けられる女の言葉ではなかった。


 自分で立つ人の言葉だった。


「妙菊さん……」


 千鳥が涙をこらえながら言った。


「強い」


「はい」


「でも、強いって言うだけじゃ駄目なんですよね」


「はい」


「弱ってても、怖くても、ちゃんと選んだんですよね」


「はい」


 御台所は、文を受け取り、深く息を吐いた。


「これで決まりました」


「妙菊様を、証を語れる場所へ」


「ええ。ただし、大奥へ直接ではありません。まず、安全な別庵へ移す」


「無鐘庵から」


「はい」


「本人の意思で」


「その通りです」


 千鳥は泣きながら笑った。


「助けるんじゃなくて、一緒に歩くんですね」


 その言葉に、誰もすぐには返さなかった。


 やがて御台所が頷いた。


「ええ」


「一緒に歩く」


 千鳥は小夜の鈴を握った。


「小夜、聞いてる? 妙菊さん、歩くって」


 鈴は鳴らない。


 けれど、今夜の沈黙は、前へ進む沈黙だった。


 私は妙菊様の文をもう一度見た。


 私は菊乃です。

 私は妙菊でもあります。

 七年の沈黙も、私のものです。


 名を取り戻すということは、昔の名だけに戻ることではないのかもしれない。


 奪われた時間も、隠して生きた名も、沈黙も、痛みも、全部抱えたまま、それでも自分の名を選び直すこと。


 菊乃であり、妙菊である。


 その両方を奪わないこと。


 それが、彼女の望みだった。


 そして今、私たちはようやく、本当の意味で妙菊様の声を聞いたのだ。

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