第17話 小夜の名を呼ぶな
小夜の名は、思っていたより重かった。
人の名は、本来なら呼べばこちらを向くためのものだ。
けれど大奥には、呼んではならない名がある。
呼べば返事が来るからではない。
呼ばれたくない者たちが、いっせいにこちらを見るからだ。
朝の御末の間は、いつもと変わらないように見えた。
水桶を運ぶ女中がいて、火鉢の灰を整える女中がいて、畳を拭く音が規則正しく続いている。お吉は相変わらず口元に薄い笑みを貼りつけ、私と千鳥の方を見ては、何か言いたそうに目を細めていた。
けれど、こちらから近づくと、その笑みは消えた。
「お吉様」
私が声をかけると、お吉はあからさまに肩を揺らした。
「な、何かしら。篠乃井さん」
「少し、お伺いしたいことがございます」
「私、忙しいのだけれど」
手元を見ると、彼女は同じ布巾を畳んだり広げたりしているだけだった。
千鳥が横で、低く言った。
「忙しいふり、下手」
「千鳥さん」
「何ですか」
「あなた、最近ずいぶん口が悪くなったわね」
「元からです」
「そういうところよ」
私は二人の間に割って入るように、静かに言った。
「小夜さんという方をご存じですか」
お吉の顔が変わった。
血の気が引いた、というほどではない。
けれど、目の奥がすっと引っ込んだ。
大奥の女たちが何かを隠す時の顔だ。
「……誰のこと?」
「以前、御末にいた女中だと聞いております」
「知らないわ」
返事が早すぎた。
「私はまだ名しか存じません。甘い卵焼きを好み、千鳥と親しかった方だと」
「知らないと言ったでしょう」
お吉の声が硬くなった。
周囲の女中たちの手も、微かに止まっている。
誰もこちらを見ていない。
見ていないふりをして、全員が聞いている。
「小夜さんは、なぜ大奥からいなくなったのでしょう」
「だから知らないって」
「本当に?」
千鳥の声が震えた。
怒りと、不安の両方で。
「お吉さん、小夜のこと知ってるでしょう。前に私が卵焼きの話をした時、笑ったじゃない。『あの子も物好きね』って」
「覚えていないわ」
「嘘」
「千鳥さん」
お吉は低い声で言った。
「あなたのために言っているのよ」
「私のため?」
「ええ。忘れなさい」
その一言で、千鳥の顔が強張った。
忘れなさい。
大奥で何度も繰り返される、優しい顔をした刃。
母も、そう言われたのだろうか。
忘れろ。
燃やせ。
見なかったことにしろ。
知らないまま生きろ。
「忘れられないから聞いているのです」
私は言った。
お吉は私を睨んだ。
「篠乃井さん。あなた、最近少し勘違いしているのではなくて?」
「何をでしょう」
「藤尾様や御台様に呼ばれたからといって、自分が何か特別になったと思っているなら、やめた方がいいわ」
「そのつもりはございません」
「いいえ。そういう目をしている」
お吉は、声を潜めた。
「小夜の名を出すのはやめなさい。あの子は……」
そこで言葉が止まった。
「小夜さんは?」
お吉は唇を噛んだ。
「何でもない」
「お吉様」
「何でもないと言ったでしょう!」
珍しく、お吉が声を荒げた。
部屋中が静まり返る。
お吉自身も、自分の声に驚いたように目を見開いた。
すぐに取り繕うように布巾を掴み、背を向ける。
「私は知らない。あの子のことは、誰にも聞かない方がいい」
「なぜですか」
お吉は振り返らなかった。
「呼ぶと、奥から返事が来るからよ」
千鳥が息を呑んだ。
私は眉をひそめた。
「返事?」
「そう言われているの。夜、御鈴廊下の近くで小夜の名を呼ぶと、誰もいない奥から『はい』って返ってくるって」
「そんな怪談みたいな」
千鳥が吐き捨てるように言った。
「小夜は、そんな子じゃない」
お吉が振り返った。
その顔には、怯えがあった。
「だったら余計に呼ばないで。生きていても死んでいても、大奥で消えた女の名を呼ぶと、次は呼んだ方が連れていかれる」
「誰に」
「知らないわよ!」
お吉は今度こそ逃げるようにその場を離れた。
残された女中たちは、蜘蛛の子を散らすように仕事へ戻る。だが誰一人として、さっきまでと同じ顔ではなかった。
小夜の名は、残っている。
忘れられてはいない。
けれど、誰も口にしない。
それは死者だからではない。
名前を呼ぶことで、自分の足元まで闇が伸びてくると知っているからだ。
千鳥は立ち尽くしていた。
拳を握りしめ、唇を噛んでいる。
「千鳥」
「違う」
「はい」
「小夜は、怪談じゃない。返事が来るとか、連れていかれるとか、そんな話にされるような子じゃない」
「分かっています」
「分かってない」
千鳥は、私を見た。
目が赤い。
「紗代は小夜に会ってないから。小夜はね、笑う時に少し鼻に皺が寄るの。卵焼きの甘いところを最後まで取っておくの。怖いことがあると、私の前では平気な顔をするくせに、夜中に一人で布団の中で泣いてたの」
言葉が止まらない。
千鳥自身も、今まで閉じ込めていた小夜を取り戻すように話していた。
「仕事で失敗した子がいると、自分がやったことにして怒られるの。馬鹿なのよ。本当に馬鹿。自分だってそんなに強くないくせに」
「はい」
「なのに、みんな忘れたふりをしてる。怪談みたいにしてる。名前を呼ぶと返事が来る? ふざけないでよ」
千鳥の声が震えた。
「返事してほしかったのは、私なのに」
私は何も言えなかった。
小夜が消えた後、千鳥は何度、その名を飲み込んだのだろう。
呼べば返事が来るかもしれない。
でも、呼べば自分も消えるかもしれない。
その二つの恐怖の間で、何年も黙っていたのだ。
「千鳥」
「何」
「今日、できる限り聞きます」
「うん」
「でも、無理に一度で全部は聞き出しません」
千鳥は少しだけ目を丸くした。
「紗代が、それ言うの?」
「成長しました」
「自分で言う?」
「御台様に似たくないので、よく噛むことにしました」
「お柳さんみたいな言い方も嫌なんだけど」
千鳥は泣きそうな顔のまま、少し笑った。
「でも、ありがとう」
「半分ずつですから」
「うん」
私たちは次に、洗い場へ向かった。
大奥の中でも洗い場は、噂が集まりやすい。
布を洗い、髪を洗い、器を洗う。水の音が人の声を隠すからだ。小声で話すには都合がよく、聞かなかったふりをするにも都合がよい。
そこにいたのは、お民だった。
以前、桔梗の香合を手にしていた古参の女中である。
桔梗は、夜に咲く花ではありませんから。
あの時、そう言った女だ。
彼女は濡れた布を絞っていた。年の割に手つきはしっかりしている。水で荒れた指が、布を正確に畳んでいく。
「お民様」
声をかけると、お民は振り返らずに言った。
「また、尋ねごとですか」
「はい」
「若い方は、問いを持ちすぎます」
「答えを持っている方が少ないので」
「上手いことを言ったつもりですか」
「いいえ。困っております」
お民は、そこでようやく振り返った。
皺の多い顔に、疲れたような笑みが浮かんでいる。
「正直な方ですね」
「嘘が下手だと、よく言われます」
「それは、大奥では長所ではありませんよ」
「存じております」
私は一歩近づいた。
水音が、会話を包む。
「小夜さんをご存じですか」
お民の手が止まった。
水滴が、絞りかけの布からぽたりと落ちる。
「……どなたから、その名を」
「千鳥からです」
千鳥は私の隣で、きゅっと口を結んでいた。
お民は、しばらく千鳥を見つめた。
「ああ」
それだけ言った。
その声に、懐かしさがあった。
恐怖よりも、先に。
「覚えているのですか」
千鳥が前のめりになる。
「小夜を、覚えているのですか」
「覚えていますとも」
お民は静かに言った。
「よく働く子でした。少し、働きすぎるくらいに」
千鳥の目に光が戻った。
誰かが、小夜を怪談ではなく人として覚えていた。
それだけで、彼女は少し救われたように見えた。
「小夜さんは、なぜ消えたのですか」
私が問うと、お民の表情が固くなった。
「そこから先は、口が重くなります」
「重くても、聞きます」
「聞いたところで、軽くはなりません」
「それでも」
お民は私を見た。
「あなたは、篠乃井志乃様の娘ですね」
「はい」
「よく似ています」
「梅島様には似ていないと言われました」
「梅島様は、人の顔より役目を見る方です」
お民は、洗った布を桶へ戻した。
「小夜は、志乃様から何かを預かっていました」
千鳥の肩が震える。
「紙包みですか」
「おそらく」
「中身を見ましたか」
「見ていません」
「皆、見ていないと言います」
私の声に、わずかに棘が混じった。
お民は静かに頷いた。
「見なかった者たちが、大奥を長く生きています」
松ヶ枝も。
梅島も。
お民も。
見なかった者は生き残り、見た母と小夜は消えた。
「小夜さんは、その紙包みをどうしたのですか」
「分かりません。ただ、消える前の日、小夜はひどく怯えていました」
千鳥が息を呑む。
「私には、そんな顔を見せなかった」
「あなたに見せたくなかったのでしょう」
「……また、それ」
千鳥の声が掠れた。
「また、守るために隠されたの」
お民は、申し訳なさそうに目を伏せた。
「小夜は、あなたを可愛がっていました」
「可愛がってたなら、置いていかないでほしかった」
「そうですね」
お民は否定しなかった。
「守るつもりで置いていくことは、残された者には残酷です」
その言葉は、私にも刺さった。
母も、父も、私を守るために何かを隠したのかもしれない。
けれど、その結果、私は今ここにいる。
知らないままではいられなくなって。
「お民様。小夜さんの名を呼ぶと、奥から返事が来るという噂があります」
お民の顔が曇った。
「ありますね」
「誰が流したのですか」
「流した者は知りません。ただ、その噂のおかげで、小夜の名を口にする者はいなくなりました」
「都合が良いですね」
「ええ」
お民は苦い顔をした。
「大奥では、怪談も道具になります。女が消えた理由を聞かせないために、消えた女を怪談にするのです」
千鳥が拳を握った。
「許せない」
「許さなくてよいのです」
お民は言った。
「でも、怒りだけで走ってはいけません。小夜も、志乃様も、怒りだけでは救えません」
「では、何で」
「名前で」
お民は千鳥を見た。
「小夜の名を、正しく呼びなさい。怖がるためではなく、思い出すために」
千鳥は、涙をこぼしそうになりながら頷いた。
「小夜」
小さな声だった。
水音に紛れるほどの。
けれど、確かに千鳥はその名を呼んだ。
「小夜」
もう一度。
廊下の奥から返事は来なかった。
誰かが連れていきにも来なかった。
ただ、千鳥の中で何かが少しだけ戻ったように見えた。
洗い場を出る時、お民が私を呼び止めた。
「篠乃井さん」
「はい」
「小夜のことを知りたいなら、お久を探しなさい」
「お久さん」
「今は針仕事の方にいます。小夜と同じ頃に御末へ上がった子です」
「小夜さんと親しかったのですか」
お民は首を横に振った。
「親しかったとは、言いません」
「では」
「比べられていました」
その一言で、空気が少し変わった。
「小夜は働き者で、気が利き、誰からも頼られました。お久は不器用で、叱られてばかりいた」
「お久さんは、小夜さんを」
「嫌っていたでしょうね」
千鳥の顔が強張った。
お民は続けた。
「ただし、嫌っていたから悪いとは限りません。人は、優しい相手を憎むこともあります」
「優しい相手を?」
「ええ。優しくされるたび、自分が惨めになることがあるのです」
その言葉は、お民自身の経験から出たもののように聞こえた。
私は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「小夜の名を、乱暴に扱わないでください」
「はい」
「それから」
お民は千鳥を見た。
「あなたが小夜を忘れていなかったことを、あの子はきっと怒らないでしょう」
千鳥は返事をしなかった。
ただ、深く頭を下げた。
洗い場を出て、しばらく無言で歩いた。
千鳥は何度も何かを言いかけて、やめていた。
私は待った。
聞かないことも、半分背負うことなのかもしれない。
やがて、千鳥がぽつりと言った。
「お久のこと、覚えてる」
「どんな方でしたか」
「地味な人。いつも下を向いてて、何か失敗するとすぐ謝る。でも、謝るたびに余計怒られてた」
「小夜さんとは」
「小夜は、たぶん気にしてた。お久が怒られてると、代わりに謝ったり、仕事を半分持ったりしてた。でも……」
「でも?」
「お久は、それを嫌がってた」
千鳥は当時を思い出すように眉を寄せた。
「小夜が優しくすると、お久はもっと小さくなるの。私はそれを、面倒な人だなって思ってた」
「千鳥は、小夜さんの方を見ていた」
「うん」
千鳥は自嘲するように笑った。
「私、小夜のことばかり見てた。小夜が何を食べたか、どんな顔で笑ったか、誰に優しくしたか。だから、お久がどんな顔で私たちを見ていたか、知らなかった」
嫉妬。
その言葉が浮かんだ。
七つの罪の一つ。
けれど、それは単純な悪意ではない。
自分だけが選ばれない痛み。
優しさで余計に傷つく惨めさ。
千鳥もまた、今になってその存在に気づいている。
「お久さんに会いましょう」
私が言うと、千鳥は少しだけ怯えた顔をした。
「うん」
「怖いですか」
「怖い」
「なぜ」
「小夜のことを悪く言われたら、私、たぶん怒る」
「怒ってもよいと思います」
「でも、怒ったら聞けなくなる」
「では、怒りを半分持ちます」
千鳥は、こちらを見た。
「それ、便利な言葉になってきたね」
「はい」
「でも、少し楽」
「なら、使いましょう」
針仕事の部屋へ向かう前に、私たちは御末の間へ戻った。
表向きの務めを放り出しすぎると、すぐに目立つ。大奥では真実を追うにも、雑巾と盆と水桶から逃げられない。
午後の務めを終える頃には、足が少し重くなっていた。
しかし、気持ちは休まらない。
小夜。
お久。
嫉妬。
そして「七人目は、最も近き者」。
それらが頭の中で絡まり続けていた。
夕刻近く、針仕事の部屋へ向かおうとした時だった。
私の寝所の近くで、妙なものを見つけた。
畳の端に、小さな紙片が差し込まれている。
昨日から、文はいつもこちらの息を止める場所に現れる。
私は周囲を見た。
誰もいない。
千鳥が気づき、すぐに近づいてきた。
「何?」
「紙です」
「また?」
「はい」
「大奥、紙で人を殺すって言ってたけど、紙で呼び出すのも好きすぎない?」
「同感です」
私は紙片を抜き取った。
小さく折られている。
指先に、かすかな香が移った。
桔梗ではない。
墨と、少しだけ針仕事に使う糊の匂い。
千鳥が息を呑む。
「開ける?」
「はい」
私は紙を開いた。
そこには、短い一文だけが書かれていた。
――小夜は、嫉妬で消えた。
千鳥の顔から血の気が引いた。
「嫉妬……」
私は文字を見つめた。
筆跡は、まだ判別できない。
ただ、字は整っていない。
少し震え、少し急いでいる。
小夜は、嫉妬で消えた。
誰の嫉妬か。
お久か。
千鳥か。
小夜自身か。
それとも、小夜に何かを預けた母を妬んだ誰かか。
千鳥が、震える声で言った。
「私じゃない」
「千鳥」
「私、小夜が誰かに優しくすると、嫌だった時がある」
私は彼女を見た。
千鳥は、紙片から目を離せない。
「小夜が私だけに卵焼きをくれたらいいのにって思ったこと、ある。お久に優しくする小夜を見て、嫌だなって思ったこともある。私、小夜のこと好きだったのに、独り占めしたかった」
「それは」
「嫉妬だよ」
千鳥の声が震えた。
「私も、嫉妬してた」
紙片の文字が、夕暮れの薄い光の中で黒く沈んでいる。
小夜は、嫉妬で消えた。
その言葉は、千鳥を刺すために書かれたのかもしれない。
母を汚したように。
私を盗人にしようとしたように。
今度は、千鳥の痛みに名札を貼るために。
「千鳥」
私は紙片を畳んだ。
「嫉妬したことと、小夜さんを消したことは同じではありません」
「でも」
「同じではありません」
強く言った。
千鳥は目を上げた。
「この紙は、千鳥にそう思わせるためのものかもしれません」
「私に?」
「はい」
「どうして」
「千鳥が小夜さんのことを追い始めたから」
大奥では、真実に近づく者を止める時、直接刺すとは限らない。
罪悪感を植えつける。
自分のせいだと思わせる。
足を止めさせる。
母の汚名もそうだった。
不義密通。
盗人。
御子替え。
小夜は嫉妬で消えた。
名札を貼られた瞬間、人はその名札に縛られる。
「お久さんに会いましょう」
私は言った。
「この紙の主が誰であれ、嫉妬という言葉を出した以上、そこに何かがあります」
千鳥は唇を噛んだ。
まだ震えている。
でも、逃げなかった。
「うん」
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない」
「はい」
「でも、行く」
「はい」
「半分、持って」
「もちろん」
千鳥は涙を拭った。
そして、紙片を見ずに言った。
「小夜の名を、怪談にも、罪にもさせない」
「はい」
「小夜は小夜だった。卵焼きを半分くれる、ちょっと馬鹿で、優しくて、泣き虫で、強がりな子だった」
「はい」
「それを、誰にも変えさせない」
その言葉は、第三章の始まりにふさわしい誓いのようだった。
小夜の名を呼ぶな。
大奥はそう囁く。
だが、私たちは呼ぶ。
怖がるためではなく、思い出すために。
消された女の名を、もう一度人の名として取り戻すために。
夕暮れの廊下を、私と千鳥は並んで歩き出した。
針仕事の部屋へ。
嫉妬の女、お久のもとへ。
小夜は、嫉妬で消えた。
その言葉が嘘なのか、半分だけ本当なのか。
確かめるために。




