Chapter 1
今は昔、一輪の花が咲きにけり。
黒黒とした大地の下、深く根を沈めるその花は、古びた大樹と共に生く。
それは、人にある願いを叶える希望の花。
それは、人にある欲をかき乱す呪いの花。
それは、人に隠した嘘を見せる甘美な花。
「ああ、よかった。やっぱり神様は、私の味方でいてくれるのね」
それは、ただ咲いている。
それは、ただ生きている。
ただ一人、ずっと世界を見続けている。
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あー鬱陶しい。こんな時間から爆音で蝉が求愛している。誰だっけ、命を削って愛を乞う姿が生き物の神秘だなんて言っていた人。全くもって同意できない。正直、そんな蝉の恋愛事情より、私の睡眠時間の方が群を抜いて大切だ。
気だるい瞼を薄く開いて画面を見る。それをポイっと明後日の方向に投げたら、地鳴りのようなため息が出た。こんな中途半端な時間じゃ、二度寝もできないじゃない。腹いせに、寝汗で湿った部屋着を乱暴に脱ぎ捨てた。くたくたのキャミソールとパンツ姿でも鬱陶しさが変わらず、眉間に力が入る。まだ体温が染みついていない場所を探して、右へ左へ体を転がした。顔にへばりついた髪が、不快指数を最大にまで引き上げる。ますます眉間に力が入った。
もぞもぞと体をくねらせ、蝉に屈しないとばかりに瞼を固く閉じる。でも現実は、そんな私を惰眠させるまいと、明後日の方向から短い機械音を鳴らした。眉間から力は抜けず、腹の底からは地の底から這い出るような唸り声が出た。こんな朝っぱらに連絡をしてくる人間は、私の知る限りあの人しかいない。私は一度放り投げたスマホを、緩慢な動きで再び手元に引き寄せた。
「ゔーん……追加シフトの提出?」
まだぼんやりする頭の上には、疑問符しか並んでいない。今月の分ならとっくの昔に提出しているし、それに関して責任者から何か言伝があったわけではない。ここ最近で私が何かをやらかした記憶もなかった。じゃあなんで? 単純に人手が足りないだけ? もしかして店に何かあった? 止まっていた思考がぐるぐると回転し始めると、背中にひんやりとした汗が流れていく。一度気になりだすと止まらなくなる私は、重たい体を叩き起こして、ホームに届いたその通知をタップした。
「はああ。店長も人が悪い」
結局、一部の日にちで人手が足りなかったらしい。昨日急に団体の予約がいくつも入ってきて、捌けなくはないが人はいるに越したことはないということで、可能であれば、という締めの一言とともに、グルチャに飛ばしたみたいだった。なんて人騒がせな。再びスマホを放り投げる。単に私が勝手に不安を煽っていただけだけど、正直惰眠を邪魔されたことに対する苛立ちはあった。追加で出すかどうかは後で決めてもいいよね。私は凝り固まった背中を伸ばすように腕を上げ、勢いよくベッドを軋ませた。
「いらっしゃいませー。奥の席へどうぞ」
すでに顔の筋肉が痛い。口角がいつもよりちょっと高いところで固定された気がする。私のような人間は夏休みでも、働く人間にとって今日は華の金曜日だ。店長がやたらと張り切っていたから、これは終電コースだろう。
「杏花さん、これ5番テーブル。こっちがノンアルでこっちがお酒です」
「はい!」
息を整える時間もない。同僚から手渡されたお盆には、同じ種類が二つずつ、几帳面にグラスが並んでいた。お腹の中心に力を入れて、ずんっと前のめりになるのを堪える。いまだにこの重量感には慣れない。どのお盆でも軽々運んでいく目の前の同僚、正確に言えば、同僚のよく鍛え上げられた筋肉が非常に羨ましい。この時間だけでも交代してほしいくらいだ。
「お待たせしましたー」
誰一人としてこちらを見ない。あーこれは聞こえてないやつ。周りも相当騒がしいし、この程度の音量じゃ気づかないのも無理はない。もう一度と息を吸ったところで、ちらっとこちらに顔を向けた人がいた。偶然でも目が合ってしまったのが運の尽き。喧騒に紛れて、私はため息を漏らした。
「あれ? 杏花じゃん。今日シフトなの?」
「はい。ドリンクはこちらに置いておきますね」
「ねぇだいぶ疲れてない? 大丈夫?」
「いえ、特には。あ、こちらがノンアルで、こちらがお酒です」
早く切り上げたい。心ばかりが焦って、説明がいつも以上に雑になる。
「頑張るのは杏花の良さではあるけど、ちゃんと休まないとダメだよ」
「はあ、失礼します」
「ドリンク、ありがとうね」
疲れが増えたのはあなたのせいだって面と向かって言えたら、この行き場のない泥は綺麗になってくれたのだろうか。そんなくだらない妄想ばかりが脳内を駆け巡る。知人とはいえ、一応お客様だから、普段の私はロッカールームに置いている。それでもバイトモードを完璧にできていない時点で、あの人に対してだけ、私の心が脆弱なのは明白だ。
「おい、何ぼさっとしてんだ? 7番テーブルの料理できてんぞ」
「あ、すみません。今行きます!」
店長の怒号が、プツンと思考の糸を切る。一気に周りの喧騒が流れてくると、私は背筋を伸ばし、ひたすら手を動かした。余計なループを防ぐには、目の前のことに集中するのが一番だって、このバイト漬け生活で嫌というほど学んだ。どうしようもない私の人生において、これは大きな収穫の一つだった。
「お待たせしましたー。だし巻き卵と唐揚げですー」
空のグラスの数だけ真っ赤に染まった顔が、会話に合わせて横揺れしている。まるで昔訪れたどこかのりんご農園みたい。美味しくはなさそうだけど。むしろ中身が腐りきってそうで、近寄りたくない。さっさと料理を置いて立ち去ろう。
「だあれ、このタイミングで唐揚げなんて頼んだの」
「はあい、俺でーす」
「ヤダァ、こんな時間に罪深いものやめてよねぇ」
「大丈夫だよ〜。なんならミキちゃんが食べさせて」
「ねえ、タツくん。この後時間ある? 私、終電間に合いそうになくて」
「ユカちゃん、彼氏いるでしょ? 迎えにきてもらいなよ」
「えー。だって最近別れたんだもん。ねえ、いいでしょう?」
胃液が喉元まで迫り上がってくる。扉で仕切られていないから、背後からはっきりと聞こえてくるのが罪深い。ねっとりとした品のない声が、耳にこびりついて離れなかった。ラストオーダーが迫る時間、そりゃあこういう客が増えるよな。妙な納得感と嫌悪感が体中を駆け巡る。このお店や働く人たちは好きだけど、私はどうにも酒の入った人間が苦手だった。
「あ、いたいた。杏花」
嫌な声がした。確か5番テーブルはさっき会計を済ませたはず。ぞろぞろと出入口に向かっていたはずなのに、あの人は無邪気に手を振っていた。
「何かお忘れ物ですか?」
「あ、違う違う。俺はもう帰るから、ちょっと挨拶したかっただけ」
「そうですか。ではお気をつけて」
「うん、ごちそうさま。またくるね」
ふわりとアルコールの匂いがして、不意に鼻が歪んだ。遠目に見えた女性の視線が、痛いほど私を突き刺していた。その人は大学でもあの人にべったりで、彼女であることを匂わしているという噂で有名だった。目は口ほどにものを言うってこういう状況のことを言うんだろうな。そんな呑気なことを頭に浮かべて、私は残りの仕事に戻った。勝手に妄想して一喜一憂するのはいいけど、これ以上私を巻き込まないでほしい。
「はあ」
また、行き場のない泥が増えてしまった。こうやっていろんな泥を溜め込んで、最期には泥の中でもがきながら死ぬのだろう。憐憫とか慈愛とか、そんな情すらもかからない。私のような「替えが効く人間」の末路なんて、きっとそんなものだ。残り少ない体力で、酔いに塗れた人間を捌いていく。とにかくラストオーダーを過ぎれば、片付けに専念できる。そう思って店の時計を見れば、ちょうどラストオーダーが終わる時間だった。ああ助かった。私は深く息を吐いて、再び背筋を伸ばした。
「じゃ、戸締まりは俺がやるから。さっさと着替えて帰っていいぞ」
「お疲れさまでーす」
あー長かった。両足がヒーヒー言っている。金曜日の夜なんて初めてじゃないのに、なんだかいつもより体が重かった。
ベタベタになったTシャツをくたびれたトートに放り込む。どうせ洗濯機でぐちゃぐちゃになるんだから、綺麗にたたまなくたって誰も文句は言わないでしょ。じっとりとしたバンダナや腰掛けエプロンも同じように放り込んだ。
「杏花ちゃん大丈夫?」
「え?」
「親の仇みたいな目つきで着替えていたからびっくりしちゃって。ごめんね。たまたま見えちゃったから」
「いえ。すみません、私も無意識でした」
「今日はだいぶハードだったからね。さっきのミーティングもみんな顔が死んでたわ。ま、私も含めてだけどさ」
「あはは、確かにそうですね」
「しかも大学生が夏休みでしょう。ここは一応リーズナブルで美味しいが売りだから、そりゃあお客さんも気軽に暖簾くぐっちゃうとは思うけど。それにしてもきつかったわ」
「ほんとそうですよね」
「これで少しでも時給が上がるならまだいいんだけどねー。ま、そううまくはいかないわな」
澤田さんは大衆居酒屋にしては珍しい中年の女性だった。最近離婚したとかでアルバイトを掛け持ちしているらしい。いつも気さくに声をかけてくれる人だが、私にはちょっと距離が近くて、話しかけられると少しだけ居心地が悪い。悪い人ではないという透明なベールが私の首を緩やかに締めていた。
「あーもうこんな時間。べらべらと引き留めてごめんね。帰り、気をつけてね」
「あ、いえ。こちらこそすみません。お疲れさまでした」
口角をゆるりとあげて、いい子の顔をする。こうしたら、澤田さんも悪い気はしないでしょ。だから、早く帰ってもいいよね。
「お先に失礼します」
「山本さん、もう時間やばいっすけど」
「今から走れば多分ギリ間に合うから大丈夫、ありがとう」
「引き留めてすんません。お疲れした」
「うん。上田くんもお疲れさま」
ピカピカと眩しい金髪がこくりと縦に揺れる。目の端にそれをとらえて、私は裏口から真夜中の繁華街に踏み出した。私はからっからの体力を無理やり引き出して、酔っ払いの波をかき分けていく。ゲロかアルコールかもわからない腐敗した臭いが鼻について、また胃液が迫り上がってくる。吐きたいけど、こんな道端で吐くなんてみっともないと、理性が私に釘を刺す。今の顔をセルフィーしたら、醜い生き物大会で優勝しそう。ははっ、阿呆らしい。ほんの数分前まで気持ち悪い顔を被っていたくせに。
「はあ、はあ、はあ。きっつ……」
息が荒れて視界が定まらない。ぐにゃぐにゃと光る電光掲示板には、まだいくつか明かりが残っていた。家に向かう電車を必死に探したが、文字が歪んで何ひとつわからない。くっそ。夜風に当たったせいで、目の端に水が溜まっているのも鬱陶しい。私は手に持ったスマホを改札にかざし、鉛のような足を引き摺るように乗り場に向かった。
「まもなく電車が到着します。黄色い線から離れてお待ちください」
よかった、間に合った。安堵のため息が全身から溢れていく。家着いたらシャワー浴びてすぐに寝よう。泥のように眠る未来を垣間見て、私は最終電車に乗り込んだ。
「ほら見てよ、アレ」
「うわあ……不謹慎も大概にしろって感じ。ノンデリの塊じゃん」
「あんななりで実はかまってちゃんとか?」
「もしそうなら笑えないけど……ふっ、いや。1周回って笑えるわw」
「あはは、もう笑ってんじゃん。私らまで不謹慎になるじゃん」
カラコロと愉しげな音は、理不尽な風によって私の鼓膜を揺らす。もう聞き飽きたって叫んでも、誰も私の声になんて耳を貸さない。だってこれは、脳に刻まれた古い映像だから。
「とはいえ、あの人も『後輩キラー』だしね。先輩にその気がなくても本気になっちゃう子って結構いるじゃん」
「そうそう。でも『みんなの先輩』を崩せたのは、後にも先にも真百合だけじゃない?」
「真百合ねえ。男女問わず人気があって、ザ・モテ女子って言葉がしっくりくる感じだったじゃん。そんな子が先輩に健気にアタックしてて、周りからは丸わかりだったけどほんと可愛かったなぁ」
「そうだねぇ。というか、確かアレも協力したんじゃなかった?」
「まあ、協力っていうか……ねえ?」
水面に小石を落としたように、じわじわと嗤い声が伝染する。
軽やかに、残酷に。憐憫の皮を被って、どこまでも私を追いかける。
これは罰だ。人様の命を奪った私が、その命を終えるまで続く悪夢なんだ。
拒絶も抹消も許されない。まるで全身に消えない刺青を刻まれた罪人のよう。
だから、もう耳元で叫ばないで。私が悪いんだから。それでいいでしょう?
ああまたか。最悪だ。
ここのところレポートやバイトでバタバタしてたから見ないでいられたのに。先輩の顔を見たせいで思い出しちゃった。ベッドのスプリングがため息で軋んでいく。静謐な雨音のおかげで、まだ物に当たるほどの苛立ちは湧き上がってこない。再び湧いた嘆息を外に追い出すと、重たい四肢を無理やり動かした。朝から嫌な気分になろうが、日常は私を待ってくれないのだから。
「おはようございます。よろしくお願いします」
「お願いしまーす……ってあれ? 杏花さん今日もシフトなんですか?」
「うん。今夏休みだし、たくさん入れたんだよね」
「そんな愛想のいい顔でエグいこと言わないでくださいよ。だってこの前も長時間入ってたのに」
比嘉さんがサーッと青ざめた顔でこちらを見つめている。せっかくの長期休暇なのにもったいない、そんな文言が可愛らしい顔にはっきりと刻まれていた。
「長期休暇だからかな。今のうちに稼げる分は稼いでおこうかなって」
「杏花さんはさすがですねー。スズリならそこまでバイトに必死になれないっていうか。あ、そうそうこの前ちょうどいつメンとセブ島に行ってきたんですけど」
開店準備をしながら、比嘉さんは器用に話を広げていく。柔らかい雰囲気でくるくると表情が変わる。愛らしいという言葉がぴったりな女の子。私と二つしか変わらないのに、社交性で言ったら彼女が一枚も二枚も上手だった。
「で、そのいつメンの一人が言ってたんですけど、なんだったかな。なんとかの花っていう植物があるみたいで、今度その植物がある島で探索ツアーがあるってすごく興奮気味に話してたんですよ。それで――」
「比嘉ちゃん。おしゃべりもいいけど、そろそろ時間だよ」
「あ、チーフ。すみません、今開けますね」
比嘉さんのハイトーンボイスが店内に反響する。なんだかんだ切り替えは早いし、真面目なんだよな。レジカウンターから彼女の後ろ姿を見つめながら、私はポツポツと入ってくるお客さんに店員スマイルで迎え入れた。
「あ、そうだ。みんな休憩とるの忘れないようにね。特に連日シフトの杏花ちゃん。あなたは前科があるからね。ちゃんととってね」
心臓がびくりと跳ねた。急に名指しされると、何か悪いことをしでかした気分になる。仕方ないじゃない。急に休んじゃった子の分まで働いていたんだから。なんて、口が裂けても言える空気ではなかった。
「チーフ、そんな怖い顔しなくてもちゃんと休憩しますから」
「ちゃんと守ってよー。ただでさえ長丁場なんだから」
「はい。お気遣いありがとうございます」
客足が途切れるタイミングを見計らうのがチーフは本当にうまい。気配を感じて前を向けば、再び多くの人間が店に流れてきた。下がった口角をきゅっと上に向けた。
「いらっしゃいませ。ご注文はいかがいたしますか?」
「えっとテイクアウトで、ハンバーガーセットを二つと……」
周りのガヤガヤとした音が一層強くなる。私はさほど鍛えていない体幹にぐっと力を込めた。背筋だけはピンと伸ばして、その列が途絶えるまで、マニュアル通りの言葉をひたすら吐いていった。
たまたまチーフと休憩が被ると「ちょっといい?」とチーフ専用の部屋に手招きされた。何度か入ったことはあるが、自然と肩に力が入る。いつもと違う空間に入るだけで、体が無意識に緊張を感じ取るのは昔から変わらない。身構える、といえば聞こえは若干よくなるかな? いや、そんなことはないな。チーフがドシっとパイプ椅子に腰掛けるまで、私は無駄な思考を脳内でループ再生していた。
「杏花ちゃん。今月のシフト時間大丈夫? 扶養の範囲超えない?」
ああよかった。悪い話じゃなさそうだ。強張った体が徐々に緩んでいく。冷えた指先に温度が戻ってきた。
「もう、お説教しに呼んだんじゃないんだから、そんなに緊張しないで。いつも言ってるでしょう?」
「すみません……こればっかりは昔から治らなくて」
「で、どうなの?」
「大丈夫です。そこは抜かりないので」
「そう? ならいいけど」
「何か不備でもありましたか?」
「違う違う。今月は学生さんが増えるから、念のため確認してるの。特に杏花ちゃんはここだけじゃないでしょ、バイト先。だからちょっと気になってね」
ここは大学進学と同時に始めたから、かれこれ二年以上はお世話になっている。居酒屋の方はハタチを超えてから始めたから、歴でいえばこっちの方が長い。チーフとの付き合いもバイト歴とぴったり重なっている。そしてチーフは私の両親と年齢も近く、お子さんも私と年齢が変わらない。だからなのか、程よい距離感で見守ってくれている。こんなお母さんだったらな、なんて考えない日はない。絵空事にもならない、もしもの話だけどね。
「そろそろお盆だけど、連絡とかきてるの? ほら、例の……」
「あー、さっき連絡きてましたね」
「まじ? もしかして例のお兄さんから?」
「はい、兄からです。多分、マナー的に送っているだけって感じですけど」
そう、本当に形式だけの連絡が、客足が絶好調の時間帯にちょうど届いていた。あの家の中で、兄はまだ私と会話が通じる方ではある。だから伝書鳩の役割を担っているのだろう。本人は不本意だろうけど。
「その様子だと、断るのよね」
「はい。親族の集まりなんて、もし私が参加したとしても、多分ろくなことになりませんから」
乾いた笑いが口から漏れる。チーフはだいぶ前から私の内情を知っている。そのせいで目尻が垂れた両目には心配が色濃く滲んでいたけど、気づかないふりをした。だって、こればかりはもうどうしようもない。私があの家で何も持たない無能として生まれたのが運の尽きだった。それだけの話だから。
「でも、一大決心で家を出られてよかったね。ほら、女の子だし。人によっては家から出るなってところもまだ多いでしょう?」
「そうですね。その点はまだ私の家は柔軟性があったのかもしれません」
「というか、長々とごめんね。今日はここでお昼食べちゃっていいよ。あ、約束とかなければだけど」
「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて」
ついでにミニトートを持ってきてよかった。チーフは基本的に話が長い人だから、こうなることは想定内だ。駅前で買い込んだおにぎりを頬張りながら、溜まった通知を一つずつ開いていった。
「あ、杏花さん」
パタパタと比嘉さんが駆け寄ってくる。駆け寄り方まで可愛いって反則だと思う。結局可愛い人って何をしても可愛いんだな。比嘉さんを見ているとしみじみ思う。気持ち悪い顔にならないように、顔の筋肉を必死に店員スマイルに固定した。
「比嘉さん、そんなに慌ててどうしたの?」
「あの、開店前の話の続きなんですけど。そのいつメンが話していた花の名前を思い出したから、杏花さんにもお伝えしたくて」
「ああ、なんだっけ。探索ツアーがあるとかないとかの」
「そうですそうです。名前が『まじないの花』っていうんですけど、杏花さん聞いたことあります?」
「――ごめん、私は聞いたことないかな」
「ですよねぇ……」
比嘉さんの顔がどんよりと曇っていく。ため息まで漏らして、こんなに珍しいこともあるんだな。いつもは何があってもニコニコして明るいのに。勝手に癒しをもらっていた分、私はお節介にならない程度に手を差し出した。
「どうしたの? 何かまずいことでもあった?」
「それが、ですね……そのいつメンの一人から連絡があって、例の花がすごい曰く付きってことで、ほかのメンバーとも異様に盛り上がってるみたいなんですよ。そのツアー自体は抽選制だから申し込めば誰でも行けるわけではないんですが……」
「異様に?」
「はい。いつメンの中に推理小説やホラー映画が大好きな子がいて、その子がいつになく熱量高く語っているらしくて。それを周りが面白がっちゃって、SNSでもフィーバー状態なんです」
うっわ、想像しただけで胃に穴があきそうだ。よくそのグループにいて平然としていられるなぁと、ちょっと感心してしまう。
「あ、フィーバーって言っても鍵付きだから、内輪の盛り上がりで済んでいる感じなんですけどね。こういうのってエスカレートしたら、ろくなことにならないじゃないですか。それに、その子の内容を聞く限り、結構危ないというか。ネットだけの情報だと本当かどうかもわからないし、詳しく調べようもなくて」
比嘉さんの口から出る言葉には嘘や見栄がない。本当に友達思いの優しい子なんだなって思う。だから、できれば助けてあげたかった。でも、彼女に教えるわけにはいかない。こんなまっさらで綺麗な女の子に、汚い部分を見せるのは気が引けた。
「そっか。ごめんね、私じゃお役に立てなくて」
「いえいえ、謝らないでください。こういうのってオカ研やミス研にでも所属しない限り情報なんて入ってきませんから。それにスズリは、そういうオカルトっぽい噂がある場所には行かないようにしてるんです。霊感があるとかじゃないんですけど、ちょっと影響受けやすくて」
心が真っ二つに引き裂かれて、ドロドロと罪悪感が流れていく。比嘉さんの困ったような笑顔を見るのがとても苦しかった。
「例の子もいつもはとても優しくて、むしろいつメンの中では大人しい方なんです。そんな子があんなに豹変するくらいのイベントって、なんだか怖くって。でもいつまでも返事をしないわけにはいかないですし」
ここまで話をしていても、視線が合うことがない。比嘉さんはいつも真っ直ぐに目を見て話す人だ。だから私の中に不安が溜まっていく。正直、巻き込みたくはない。
でも、腹の底から喉元まで、じわじわと本心が迫っている。すべてをぶちまけたい衝動が私の理性にボディブローをかましていた。
「比嘉さん、それなら……」
「よし! 決めました。いつメンには悪いけど、個人的な理由ってことで誘われても断ることにします。本当はみんなにも参加はやめてほしいけど、今それを言うのはなんか違う気がするので」
私の言葉を打ち消すように、比嘉さんはスパンと話を切り上げた。悩むのは得意じゃないって前にこぼしていたから、きっと体の方が先に拒否反応を出したのかもしれない。でも、おかげで良い方に転がってくれた。私の一抹の不安もこれで安心に変わったはずだ。
「聞いてくれてありがとうございました。いつメンのことは何も解決はしていないけど、なんだかスッキリしました。杏花さんには一切関わりのないお話だったのに、お時間をとってもらっちゃってすみません」
「ならよかった。でもそんなに気にしないで。こちらこそ、本当にごめんね」
込み上げてきた精一杯の誠意を伝えて、私は帰り支度をする比嘉さんを見送った。完全に姿が見えなくなると、私は急に力が抜けてへなへなとその場に沈んだ。まさかと思っていたことが、現実になるなんて誰が想像しただろう。
「はああ……悪いことしたかな」
秘密は、みんなが思うより、ずっとずっと重たくて、苦しくて、しんどいもの。だからこそ、人は共有する。一人で抱えきれないほどの荷物は、誰かに一部を託してお互いに背負いながら生きていく。
じゃあ共有してくれる相手がいない人間はどうするのか。
あいにく、その答えは持ち合わせていない。だって、現在進行形で私は一人で抱えているんだもの。どうしても知りたいなら、私の生き様で判断してくれればいい。
それにしても、さっきから思考がぐちゃぐちゃと煩わしい。私はポケットからバイト用の小さなメモ帳を出そうとした。でも実際に出てきたものは、手に馴染むいつものスマホ。げっ、入れ替えるの完全に忘れてた。手のひらから汗がじわじわと滲む中、そんな持ち主の様子はお構いなしに、スマホは一件の通知をよこした。
お疲れさま。バイト中にごめんな
ツアーの申し込み期限が明日までだから――
言葉にならない濁点付きの音をタイル張りの床に吐き出した。本当にどうしてあの人はいつまでも私に構うのだろう。
「一人で行く予定だったのに」
自分の耳にしか届かない音量で言葉を漏らす。そういえば、あの人からの連絡も、比嘉さんの例の友達と似たり寄ったりだった気がする。
「おーい杏花ちゃん。片付け終わったー?」
あ、やばい。明朗ではっきりとしたチーフの声で、ようやく現実に戻される。そういえば閉店の片付けがまだ終わっていない。話に夢中になっていたら、そんなことは頭からすっかり抜け落ちていた。スマホを勢いよくポケットに突っ込み、別の意味で背中に冷や汗を垂らしながら、急いで残りの作業に取り掛かった。
「すみません! あともう少しかかります」
「はいはい。用事とかないなら焦らなくていいからね」
「ありがとうございます!」
寛大なチーフがいてくれて助かった。例のあれは、帰りの電車で見返そう。カチッとスイッチを切り替えて、比嘉さんが駆け寄る前の私に戻した。
昨日
7:18
おはよう。朝っぱらに悪いな
https://yotsujima.flower.go.jp
↑これなんだけど、ちょうど夏季休暇の時期だし
せっかくだから行ってみない?
8:01 既読
おはようございます。
後で確認します。
8:02
今日もバイトなの?
働き詰めは体に良くないよ?
確認したら連絡してね〜
今日
0:15 既読
見ましたけど
これ、胡散臭すぎません?
0:16
まあそうだよな。でも覚えてない?
この前ゼミの奴らで話題になってたじゃん?
自分の願いを何でも叶えてくれるって
杏花の言うように胡散臭くはあるけど
せっかくの機会だし参加するのも面白いかなって
0:17
ほら、俺もこう見えて推理小説とか好きだし
杏花もよく本読んでただろ?
さっき貼ったリンクも島の公式サイトだから
一応信憑性はあると思うんだよね
ま、その花が見つかるかどうかはわからんが笑
0:18
しかも参加は抽選だから当たるかどうかも
運次第にはなるけど、予定どう?
夏休みの旅行がてら一緒に行かない?
0:19
こういうのって一人で行くより
人数いた方が楽しめると思うんだよね
0:20
仮にというか、万が一何か起きても
一人じゃなければ何とかなると思うしさ!
1:15 既読
いいですよ、ちょうどバイトないんで
1:15
よっしゃ!じゃあ決まりな。
杏花と遊ぶのなんだかんだ久しぶりじゃね?
めっちゃ楽しみだわ。
1:16
んじゃもう遅いし、また後で連絡するわ
ちゃんと寝ろよ〜
13:31
お疲れさま。バイト中にごめんな
ツアーの申し込み期限が明日までだから
俺の方で進めようかと思ってさ
各自で申し込むでもいいかなって思ったんだけど
杏花、どうせ明日もバイトで忙しいだろ?
それに参加権自体が抽選制だから、どっちかが当選して
どっちかが落選したら一緒に行けないなって思ってさ
13:32
同行者の情報で必要なのは名前と年齢と連絡先だから
このチャット見たら、アドレスか電話番号送ってくれる?
「いいですよっと」
デジャブって、わりと身近な存在なんだな。送ってすぐに既読がついたけど見なかったことにして、チャットアプリを閉じる。送ったアドレスはもう削除するつもりだったから、問題はない。これが終われば、丸ごと捨てられる。
本当は私一人で済ませるつもりだった。あの人がいると大抵ろくなことにならないのは、ずいぶん前から知っているから。それなのにきっぱり断れなかったのは、胸にこびりついた罪悪感だけじゃない。
――あの日から私は、喉に引っかかった小骨がずっと取れずにいる。
山本杏花という虚像は、今もしぶとく私の前に居座っている。それがすべての元凶だと知っていても、何度どかそうとしても、その努力を嘲笑うかのように、周りから否応なしに押し付けられてきた。二十一年分の汚れは、そう簡単に消えてはくれない。今さら誰に指摘されなくても全部わかっている。わかっているからこそ、私は自分が嫌いだった。
色彩のない冷蔵庫の中を目の当たりにして、一気に力が抜けた。一度家に入ったら、外に出る気力はゼロに等しい。割高なのは痛いけど、今日は宅配にしよう。
「あ、これ限定なんだ」
底に落ちたテンションが少しだけ上を向いた。限定の二文字はいつ見てもわくわくする。私は悩む時間を惜しむように限定セットを注文した。栄養バランスなんて知るか。好きなものを好きなときに食べて何が悪い。さっきまでの嫌な思考を追い払うように、私は外で作られた美味しいジャンクを今か今かと待ち侘びた。




