第二十三話 一階層 その二
一階層へと続く集合場所に赴くけば根川と、訓練期間中終ぞ一言も交わすことのなかった左近寺香澄さんが待ち構えていた。左近寺さんは近くの手すりにもたれながら、協会から支給された階層の地図を隅から隅まで読み込んでいる。
新人に無料で配布される地図はご丁寧に一階層分のみ。第二階層からは自身で地道に記録を取るか、街の地図屋で購入するかの二択。
他にも『地図作成』の効果が付与された遺物を宝箱から見つける方法もあるが、確率の低さから現実的とは言い難い。新入りを甘やかさない協会の方針なのであろう。
さらに言えば、一度作成した地図が半永久的に使えるわけでもない。
三ヶ月ごとに内部構造は変化され、地形が移動するのだ。零階層を除き、登れば登るほど異常性が増し、長期にわたって挑み続けた者が帰還すると、これまで無かったはずの区画が増え、環境が一変している。そんな記述を何度も読んできた。
塔とは、そういう場所なのだ。
近づいてくる僕たち三人の気配に気づいた左近寺さんはさっと地図を畳んだ。鞄の横ポケットに地図をしまうと、彼女は顔を上げてこう言った。
「おはよう、舞ちゃん。待合時間ピッタリね。新田君と雷門君は…昨日ぶりかな?何かの因果か一緒のパーティーになったけど、命を預け合う仲間として、よろしく♪」
左近寺さんは柔らかく微笑みながら、肩にかけた長弓の弦を軽く弾いて見せる。
その仕草から、彼女の武器が弓であることを改めて認識する。彼女は新人全員に支給された標準装備、胸当てや籠手、膝当てといった最低限の革鎧を身にまとっている。
「おはよう、左近寺さん。此方こそよろしく!皆に迷惑かけないよう、全力で頑張るよ」
「もすもす!」
「うんうん、前衛を支えるのは訓練生時代から得意だから、大船に乗った気分で安心して頂戴。『鷹の瞳』の加護もあるしね!」
彼女がそう言った瞬間、その瞳がかすかに翠玉色に輝いたように見えた。
昨日簡単に説明してくれた加護の効果、遠距離攻撃の命中率を飛躍的に高める『鷹の瞳』。この恩恵がこれからの戦いでどれほど心強い味方になるか、僕はまだ実感としてわかっていない。…わからないなら、今日から少しづつ知っていけばいい。
苛立ちを露わにした根川が腕を組みながら啖呵を切った。
「おい、馴れ合いごっこは後回しにしろ。貴重な時間の無駄だ。さっさと門をくぐるぞ」
不機嫌そうに刀の柄を叩きながら、彼の視線は既に塔の巨大な門に向けられている。門の前では、先発組が次々と一階層へ消えていく。
豪華な装備に身を包んだ熟練らしき集団から、訓練施設を卒業したばかりの新人らしき集団まで、多様な登塔者たちの列が続いている。
中でも一際目を引くのは、銀色の鎧を身を包んだ一団。彼らの鎧には精巧な紋章が刻まれ、腰には高位の遺物がずらりとぶら下がっている。
「あれは『流々楽の銀翼』よ」
左近寺が低声で告げる。思いがけない有名精鋭部隊の登場に、僕と舞さん、清龍君は思わず息を飲んだ。
「――ッ!まさか序列三位の『流々楽の銀翼』⁉塔に入って早々、超大物を見てしまったよ」
思わず見とれてしまう僕の眼前で、『流々楽の銀翼』の一団は無言のまま門をくぐり、階層へと消えていった。彼らが残した重厚な気配が周囲に漂い、他の登塔者たちもその背を見送り続けている。
「……流石は歴戦の強者ね。風格だけで場を支配するなんて」
無意識に腕をさする舞さんが、感嘆の息を漏らした。
「ふん、いつか俺も必ずあの高みに立つ!」
意気揚々と目指すべき指針を高らかに宣言した根川に周りの視線が集まる。だが、根川自身はそれを意に介する様子もなく、胸を張って門へと歩み出した。その背中には揺るぎない自信が漲っている。
「ああ~、これ以上目立つと厄介ごとになりそうね。さっさと出発しましょうか!」
左近寺さんが軽やかに弓を肩に担ぎ、僕たちも後に続く。
大きく口を開けた門を潜った瞬間、周囲の景色が一変した。ほんの一歩足を踏み入れただけで、僕たちは薄暗い洞窟の中に立っていた。
外の喧騒は完全に遮断され、零階層とはまったく別世界だ。天井は高くそびえ、岩肌には青白く発光する苔がびっしりと密集している。壁から滴り落ちる水が静かに流れ、小さな地下湖を形成していた。湿った空気が肌に張り付く感覚があり、ひんやりとした冷気が肺の奥まで染み渡る。
そして、洞窟の中央には、ひときわ強烈な輝きを放つ巨大な八面体の結晶――踏破結晶が鎮座していた。
その表面は氷のように透き通り、内部では無限の光子粒光子がゆらめいている。淡い青白い輝きが周囲を照らし、洞窟全域に幻想的な雰囲気を漂わせていた。
「あれが…」
「もす…」
「踏破結晶よ。五階層ごとに設置されている転送装置。ここに記録すれば、この場所に瞬時に戻ってこれるの」
左近寺さんが説明する。根川は無言で結晶を睨みつけ、舞さんは息を飲みながらそっと表面に触れた。
「すごい……!まるで星空を小さい器に閉じ込めたみたい。こんな美しいもの、見たことないわ!」
意外と宝石の類が好きな舞さんが感極まった声を上げる。僕も恐る恐る結晶に手を伸ばした。指先が触れた瞬間――頭の中に、淡い光の紋様が浮かぶ上がる。
ッ……! これは……何だ……?
「昔はこんな便利なもの、なかったのよね?」
「ええ、そうなの。踏破結晶が機能し始めたのは、十八世紀初期ごろから。それ以前は、塔の中を行き来するにはひたすら歩いて階層を踏破するしかなかったのよ」
脳に針が入り込んでくるような感覚に襲われる傍ら、女子たちの会話がかすかに聞こえる。こめかみに伝わる痺れが邪魔して、言葉がはっきりと聞き取れない…。
「へえ、~じゃあどうしてこんな便利なものが?」
「全くの偶然よ。十八世紀初期、とある登塔者が上層に挑んでいた時、偶然手に入れたのが――『仙級宝具 ▢▢▢▢』よ」
「▢▢▢▢…歴史の教科書で読んだ覚えがあるわ」
「(っえ…?痛みが和らいだかと思ったら、言葉が潰れて聞き取れない)」
「塔の内部でのみ、一度だけ願いを叶えられる▢▢。その人物は、仲間が帰還途中で倒れていくのを幾度も目にして、願いをかけたの」
――塔の中を、安全に行き来できる手段を。
「そして、塔の意思ともいうべきものがそれに応え、生まれたのがこの『踏破結晶』だったというわけ」
脳が正常に戻った頃、左近寺さんの話を聞きながら、僕は踏破結晶から手を離すと、ふと奇妙な違和感を覚えた。指先に残るその冷たさ、頭に浮かんだ光の刻印が拭えない。まるで結晶が僕の存在を「保存」したかのような、不思議な感覚だった。
「…純君?さっきから妙に静かだけど、大丈夫?」
舞さんが心配そうに近づいてくる。僕は慌てて笑顔を作り、額に手を当てた。
「平気、平気!初めて見る結晶の美しさに感動してただけだよ!」
「そう?でも、もうすぐ初めての戦闘が始まるから、体調管理には細心の注意を払ってね」
少し離れた所で聞き耳を立てていた三人も近づいてきた。
「おい、棒切れ野郎!いつまでぼんやりしてやがる!今日中に一階層を制覇するんだ、やる気がねェならこの場から消えろ!」
根川の怒声に促され、僕は踏破結晶の前から離れる。左近寺さんは心配そうな視線を、清龍君は「もす…」と小さく呟いた。
「う、うん!すぐ行くよ!」
塔協会本部で手に入れた六尺棒を握りしめ、先へ進む。入口周辺は人数も多く広々としていたが、通路はみるみるうちに狭く低くなり、四方に枝分かれする複雑な構造へと変わっていった。後衛を務める左近寺さんが手元の地図と現在地を見比べている。
「うーん、地図自体は単純な構造だけど……さすがに敵の出現位置までは書かれていないわね」
「まぁ、初階層だ。どうせ雑魚ばっかりだろ」
根川が刀の柄を軽く叩きながら、無造作に前を進む。
――その瞬間だった。
「もす!」
誰よりも優れた視力を持つ清龍君が鋭く警告を発する。彼の指さす方向を見れば、洞窟の奥底から不気味な影が蠢き、こちらへと迫っていた。彼に代わって状況を伝える。
「小鬼が三体!前方から接近中!」
「「「ギィ……ギギッ!」」」
鋭い金属を擦るような叫声が、通路に響き渡った。




