第二十二話 一階層
塔協会が用意した宿舎で迎えた朝。引き戸から差し込む柔らかな陽光が瞼を刺激し、僕はゆっくりと目を開けた。
身体を起こして軽く伸びをすると、色々な出来事で蓄積された昨日の疲労がすっかり取れていることに気づく。
隣の布団では穏やかな寝顔を露わにした清龍君の姿が。反対方向に振り向けば、綺麗に畳まれた布団の痕跡が目に入る。
同じ雑魚寝部屋に回された根川の姿が見えない。布団を片付ける音すら聞こえないほどに僕は疲れていたのかと、愕然とする。
「(まだちょっと肩が硬いな。新人の洗礼ってやつか)」
粗末な布団に文句を垂れながら「ふう」と息を吐いて両手を伸ばすと、関節がぽきぽきと鳴った。肩は動かすたびにめりめり音がしそうなほど固く凝り、石のように重い。
商売の心構えでただより高い物はない、の名言が在るが実際その通り。『早く塔に挑んで銭を稼いでこい!』と協会の思惑がビシビシ伝わる。
「(まあ、今日は塔の探索初日だ。こんな所でのんびりしていられない)」
布団を畳んで押し入れにしまい込むと、清龍君も目が覚めたのか、むくりと起き上がった。彼も大きな欠伸をして伸びをすると、僕を見て微笑む。彼の青々とした丸刈りに太陽の光が反射して煌めいた。
「おはよう清龍君」
「…もすもす」
寝惚けた様子の清龍君が首を傾げたまま僕の方を見た。まだ少し眠気が残っているのか数回、欠伸をする様子はどことなく幼さを感じさせる。その姿に思わず笑みが零れてしまう。
身支度を整え、老朽化で今にも崩れそうな宿舎の扉を押し開ける。きしむ音と共に、朝の光が僕らに差し込んだ。
外へ足を踏み出した瞬間、さわやかな一陣の風が二人を包み込む。都会では味わえない清冽な空気が肺の隅々まで行き渡り、少しずつ気分が晴れやかになっていく。
「遅えぞ、棒切れ野郎におにぎり野郎」
宿舎の前で腕を組んで待ち構えていた根川が鋭い視線を注ぎ、苛立った声で僕たちを出迎える。塔の朝日に照らされ、完全武装した彼の姿は、すでに戦闘態勢が整っているようだった。塔協会本部で引換券と交換した腰に佩びた刀の柄に手をかけ、苛立たしげに続ける。
「お前らのせいで、朝の訓練時間を台無しにしやがった。他の組はとっくに出発してるんだぜ!」
「もすもす」
「ごめん根川君、緊張でなかなか寝付けなくて」
二人して謝ると、根川はさらに顔を歪めた。
「テメー等、それで塔に挑むつもりかぁ?おいおぃ棒切れの分際で、しくじってくたばるんじゃねーぞ!」
「――おはよう、みんな!」
彼は僕を睨みつけながら、一歩一歩詰め寄ってきたその時、背後から風鈴のように透き通った声が彼の脚を止める。夏の暑さをふっと軽くするような涼やかな女声。銀鈴を爪先で触れたときの、かすかな余韻のように、優美な響きが空気を震わせる。
「おはよう、舞さん」
「もすもす!」
「…ッチ、早かったな朝比奈」
聞く者の心の奥底まで染み渡っていく音色と共に、女子宿舎の裏から軽やかな足音が近づいてくる。姿を見せたその人物に自然と皆の視線が集まった。
腰まで伸びた射干玉の如き艷やかな黒髪を戦闘に支障のないように一つに束ねられている。
「朝食はもう済ませた?まだなら、併設の食堂で一緒に食べよ?魔判料金が要らない無料弁当が売り切れる前に」
「いいね、丁度行こうと思ってたところだよ」
「もすもす!」
舞さんの優雅な物腰は経験豊富な登塔者でさえ虜にし、道行く誰もが振り返る。
「ちっ…だったらさっさと食事を済ませろ。塔の中で満腹で動けなくなっても、俺は助けやしねえからな!」
「そうだね、皆で食べに行こう」
僕が言うと、根川は嘲るように鼻を鳴らした。
「ふん、お前らだけで食ってろ。俺はもう済ませた」
「え?でもパーティとして行動するなら…」
言いかける舞さんの言葉を、根川は掌を突き出して遮った。
「塔の中では仕方なく協力する。的確な指示も送る…が、それ以外は別行動で構わないだろ?集合時間に遅れるなよ、棒切れに握り野郎」
そう言い残した根川は踵を返して第一階層へ続く道を歩き出した。舞さんは複雑な表情で、その背中を見送っていた。
「根川さん、相変わらずああいう態度ね…」
「大丈夫さ、彼も命の遣り取りをする場では本気を出す…はず。第一階層に挑む時には、きっと息の合った連携ができるさ!それより、僕たちも朝食を摂ろう」
「そうね。じゃあ行きましょう、二班の左近寺さんは来ているかしら?」
根川の消えた方向を少しばかり複雑な表情で見つめた後、僕たちは舞さんを先頭に食堂へと向かった。中には既に多くの新人登塔者が集い、朝食の準備に勤しんでいた。
「選べる無料弁当が三つもあるのね、どれにしようかしら?純君はもう決まった?」
選択の多さに悩む舞さんが傍らで微笑みながら尋ねる。僕は壁に掲示されたメニューを見上げる。無料提供の献立には「握り弁当」や「干物定食」など、戦闘員の腹持ちを考えた実用的な品が並んでいる。
「僕は握り弁当でいいかな」
「私もそれにしようかな。雷門君は…?」
「もすもす」
清龍君はメニューを指さし、干物定食を選んだようだ。それぞれ注文した弁当を受け取り、食堂の隅の空席に腰を下ろした。
蓋を開けると、梅干しを載せた白米の握り飯に卵焼き、香の物という質素な内容。決して豪華ではないが、空腹を満たすには十分だ。
「いただきます」
「もす!」
清龍君が素早く箸を手に取り、ふっくらと炊き上がったご飯を頬張る。舞さんも小さく微笑みながら食べ始める。僕もおにぎりを口に運び、塩の効いた素朴な味を噛み締めた。
すると、食堂の奥から上品な笑い声と共に芳ばしい香りが漂ってくる。
「やっぱり有料メニューは格別ね」
声のほうへ目を向けると、装備の整った先輩登塔者たちが、見たこともないような豪勢な料理を囲んで談笑していた。
真珠のように輝く白米の上に牛肉が厚く載ったステーキ丼、輝くような刺身の盛り合わせ、湯気を立てる味噌汁。宝石のように色鮮やかな野菜——どれも僕たちの質素なおにぎり弁当とは別世界の食事だった。
「あれって…」
「魔判を支払えば頼める特別メニューよ」
「(魔判か...)」
頭の中でその言葉を反芻する。先週の講習会で学んだばかりの魔判──塔内だけで通用する特別な通貨。
「魔判は、どうやって手に入れるんだっけ?」
「塔の中に蔓延る魔物を倒すと、魔石を落とすでしょう?あれを精製して、カス魔石として抽出し、鋳造したものが魔判よ」
「つまり…魔物を倒して魔石を回収すれば、貨幣が得られるシステム?」
魔物から得た魔石を精製し、塔独自の経済を支えている。
「ええ。ただし大量の魔判を稼げるのは一握りの実力者だけ。階層が上がれば魔石の品質も向上するの。特に上層の魔物から採れる魔石は、下層のものより何倍も価値があるらしいわ」
「……なるほど」
僕は魔判を手にした先輩たちの笑顔を見つめ、知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。今の無料弁当も悪くはないけど、いつかあの豪華な定食を臆することなく注文できるようになりたい。
「もす...」
清龍君も干物を口いっぱいに頬張りながら、羨望の視線を先輩たちに向けていた。
「舞さん、零階層の『世界の中心』では、魔石がエネルギー源として使われているんだよね?」
説明会で聞いた知識を確かめるように問うと、彼女はうなずいた。
「天候こそ外界と連動してるけど、ガスも電気も水道も、すべて魔石から作られるエネルギーで動いているの。その精製過程で生まれる『カス』を再利用して作るのが魔判よ」
「資源の有効活用ってことか」
「もすもす」
僕と清龍君が同時に相槌を打つ。
「まずは第一階層を突破するところから、だね!」
「ふふ、その意気よ純君」
舞さんの口元に柔らかな微笑みがほころぶ。清龍君は干物を勢いよく頬張り、あっという間に食事を終えた。
「もす!」
「ごちそうさま。さあ、行きましょうか!」
食堂をあとにした僕たちは、次の目的地である待合所へと歩き出す。ついに、塔の第一層への挑戦が始まろうとしていた――!




