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「エリオット様がリーリエ嬢の自宅に入って行くのを、目撃した人がいるらしい」
初めてその噂を聞いたのは、私がハーヴァード公爵邸を訪れた日から一月程が経過した頃だったと思う。……多分。
どうしてそんなに曖昧なのかというと、「根も葉もない噂だろう」と、気にも留めなかったから。
「いくらふりだとはいえ、片想いの相手がいるエリオット様が、他の女性との仲を疑われるようなことを、まさかしないだろう」と思っていたから。
しかし、最初は「いるらしい」などという信憑性のない噂だったそれは、次第にかなり具体性を帯びた内容になっていたようだ。
「立春祭が行われた日の夕刻に、リーリエ嬢の家の裏口からこっそりと中に入るエリオット様を見た」
そう聞いた際、冷水を浴びせられたかのような心地がした。
立春祭が行われたその日、私はエリオット様と二人でお芝居を観に行っていたのだ。
二人で出掛けた日にはいつも「夕食も一緒にどうだろう?」と誘ってくれるエリオット様が、その日は珍しく何も言わなかった。
家に私を送り届けた後、いつもとは違う方角に去って行く公爵家の馬車を見て、「何か用があるのかしら?」と思ったことを覚えている。
よくよく噂の内容を聞けば、その日のエリオット様の服装までぴたりと一致している。
少し前に、私が彼の誕生日プレゼントとして送ったループタイの特徴まで……だ。
「セラフィナからのプレゼントか。嬉しすぎて家宝にしてしまいそうだ」
「公爵家の家宝にしていただくような大層な品ではありません。むしろ使っていただいた方が嬉しいです」
「ならば特別な日に……セラフィナと出掛ける日にだけ、使うことにしよう。約束だ」
「ふふっ、約束なんですね」
エリオット様がそう言っていたのだから、きっとあのループタイの存在はあまり知られていないはず。
だって彼は、私との間で交わした約束は、どんなに小さなものでも決して破ったことがないから。
……だからこそあの噂も、全くあり得ない話ではないのかもしれない。
私がそのように考え始めた頃のことだった。
「でも、あのエリオット様が二股なんてことをなさるだろうか?」
とある放課後、誰もいないと思っていた教室の中から聞こえてきたその言葉に、私はぴたりと足を止める。
忘れ物を取りに戻ったのだけれど、もちろん入室できる雰囲気でもなく、私は扉の前で息を潜める。
「二股? トレス伯爵令嬢とは付き合っていないんじゃないのか?」
「けれど最近のあの二人は随分と親密そうで、『エリオット様の片想い』には、とても見えないぞ」
「まあ、それは確かに。そもそも、あのエリオット様に言い寄られて、靡かない女性なんていないさ」
教室内で交わされる会話に、血の気が引くのがわかった。
自分でも、少し前から〝片想いの相手役〟の範囲から逸脱してしまっている自覚はある。
一緒に夜会に出席したり、エリオット様のご家族に会ったり、二人で芝居を観に行ったり、誕生日プレゼントを渡したり。
「さすがにご迷惑ではないですか?」
「いや、そんなことはない。むしろ嬉しいくらいだ」
そうやって、飾り気のない笑顔で受け入れてくれるエリオット様に甘えすぎていたのだ。
それもこれも、エリオット様が本当に私に恋愛的な意味で好意を抱いているかのように振る舞ってくれるから……なんて、彼のせいにしてはいけない。
彼は当初の依頼通り、片想いの相手を口説くふりをしているだけ。
約束を破ってしまっているのは、〝ふり〟でなくなってしまっているのは、私の方。
「しかし、トレス伯爵令嬢の次はリーリエ嬢か。完全無欠のエリオット様だが、女性の趣味は壊滅的だな」
「そうか? リーリエ嬢に様々な噂があることは知っているが、トレス伯爵令嬢は良くも悪くも普通だろ?」
「おまえ知らないのか? 彼女、少し前に子爵家の息子と婚約解消をしたんだぞ。『嫉妬に怒り狂ったセラフィナが無関係な女子生徒を虐め抜いた挙句、多額の慰謝料をぶん取ってさっさと関係を断ち切った』と、トレス伯爵令嬢の元婚約者が言っているのを聞いた奴がいるらしい。元婚約者は『彼女に愛されている実感もなかったし、最初から金目当てだったのかもしれない』とも言っていたそうだ」
「うわっ。トレス伯爵令嬢、そんなに性格悪いんだ」
「それに、ここだけの話だが、トレス伯爵令嬢はかつて誘拐されたことがあるんだと。一部からは『傷物』と呼ばれている」
「なんだそれ、最悪だな」
扉の向こうにいる彼らは、そう言うと二人してゲラゲラと笑った。
それはもう、心の底から可笑しいとでもいうように、ゲラゲラと。
……違う。全部違うのに。
何も知らないくせに、勝手なことを言わないで。
悔しさから、手のひらに爪が食い込むのがわかる。
私は嫉妬に怒り狂ってもないし、無関係な女子生徒……リーリエ嬢を虐めてなんかいない。
確かに、少なくない額の慰謝料を受け取りはしたけれど、それだって不当な金額ではないと聞いている。もちろん、お金目当てで彼との関係を結んだわけでもない。
誘拐だって、されかけただけで「傷物」と言われなければならないような出来事は起きていない。
全部、全部、間違った情報なのに。
……悔しい。腹立たしい。そして、悲しい。
私の悪い噂のせいで、エリオット様まで悪く言われてしまっていることが、言いようもなく悲しい。
「…………違います」
気がつけば私は、扉に手を掛けていた。
噂なんて、放っておけばいい。ムキになればなるほどに、面白おかしく騒ぎ立てられるだけなのだから。
今まではそう思って生きてきたけれど、この時ばかりはどうしても黙っておくことができなかった。
目の前には、クラスメイトが二人。
まさか聞かれているとは思っていなかったのだろう。二人とも気まずげに視線を彷徨わせている。
「私、そんなことはしていません。誰が言い出したかもわからない噂を鵜呑みにして、無責任なことを言わないでください」
「いやっ、あの、これは……」
「虐めなんてしていませんし、慰謝料をぶん取ったわけでもありません。『傷物』と呼ばれるような、後ろ暗いこともありません」
目の前のクラスメイトは、おろおろと言い訳にもならない言葉を並べ立てている。
そんな彼らに、私は順番に視線を送る。
二人とも自分よりも遥かに背の高い相手だ。彼らが力で捻じ伏せようとすれば、私はすぐに負けてしまうだろう。
それを考えると足が震えそうになるけれど、何も言わずに逃げ出すわけにはいかない。
「それに」
そこで一旦言葉を区切り、すうっと息を吸い込むと、目の前の二人がぴたりと口を閉ざした。
「エリオット様は、人の悪評を面白おかしく広めるような人達に、悪く言われていいような方ではありません! これ以上あの人を侮辱するのはやめてください!」
私はそう言い放つと、相手の反応も見ずに教室を後にした。
感情が昂りすぎて涙がぼろぼろと溢れているけれども、それを拭うこともなくひたすらに走った。
とにかく人がいないところへ……との思いから、必死に足を動かしていたのだけれど、神様はそんなちっぽけな願いすら叶えてくれないらしい。
もうすぐ中庭につくというタイミングで、全身に衝撃が走る。
「おっ……と」
人にぶつかったのだと気づくと同時に、顔を見る前から相手が誰だかがわかってしまい、私は絶望する。
微かに漂う香りも、頭上から聞こえてきた声も、私にとっては慣れ親しんだものだったから。
……今だけは、一番会いたくない相手だわ。
こちらのそんな身勝手な感情など伝わるはずもなく、目の前の彼……エリオット様は、私の顔を見てはっと息を呑んだ。
「セラフィナ……泣いているのか? 何があった?」
俯く私と視線を合わせるように、わざわざ屈んで顔を覗き込んでくるエリオット様。
真剣な眼差しでこちらを見つめる彼が、私を心から心配してくれていることはわかっている。
しかしどうしても、今はその気持ちを素直に受け取ることができなかった。
「……あの噂は、本当ですか?」
「噂?」
「エリオット様がリーリエ嬢のお家に伺われたという、あの噂です」
正直なところ、この時はまだ「全くのでたらめだ」という答えが返ってくるのではないかと、期待していた。
けれども私からの質問を聞いて、エリオット様が言葉に詰まる。
何も返事はないけれど、その反応こそが答えだ。
「…………本当、なのですね」
私の口から溢れたその言葉は、思っていた以上に悲壮感に満ちていた。
それこそ、たかが〝片想いの相手役〟でしかない私が、出して良いような声ではない。
「……すみません、私、今日はこれで失礼します」
これ以上ここにいれば、きっとぼろが出てしまう。
エリオット様への恋心に、気づかれるわけにはいかない。
そんな思いからこの場を立ち去ろうとする私を、エリオット様が必死の形相で呼び止める。
「セラフィナ! 話を聞いてほしい!」
「ごめんなさい、今日はもう……」
「セラフィナ!!」
エリオット様はそう叫ぶと、私の方へと手を伸ばす。
おそらく私を引き留めようとしたのだろうその手は、一瞬私の手首に触れた後、しかしすぐに引っ込められた。
その時のエリオット様は、「しまった」とでも言いたげな表情をしているように思われた。
エリオット様が、なるべく私に触らないようにしていることには気がついていた。
夜会の日に庭園で踊ったあの日以降も、彼の手が私の髪以外に伸ばされることはない。
……そんなの当たり前のことだ。
あの日はお互い夜会の雰囲気に酔っていただけで、エリオット様が〝片想いの相手役〟でしかない私に触れる理由など、どこにもないのだから。
ただの役ではなく、本当に愛する人になら、彼は躊躇なくその温かな手を差し出すのだろうか……。
そんなことを考えてしまって、目の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
そのままゆっくりと瞬きをすると、目の蓋に溜まった涙がぼろりと零れ落ちた。
私の目の前では、エリオット様までもが泣き出しそうな、悲痛な表情を浮かべている。
「……もしも必要がなくなれば、いつでも片想いの相手役を降りますから」
「なんだと?」
「だから、遠慮なくおっしゃってくださいね」
いきなりそんなことを言われて、エリオット様はきっと困ったことだろう。
けれども、彼を気遣うだけの余裕が、その時の私には持てなかった。
固まるエリオット様を置いて、今度こそ私はその場から走り去る。
「遠慮なくおっしゃって」なんて言ったくせに、彼の返事を聞くのが、とてつもなく怖かった。
校門に向かって走っている最中、リーリエ嬢と親衛隊ABCDを見かけた。
彼らは今日も、見えない外敵から守るようにして、リーリエ嬢を取り囲んでいる。
リーリエ嬢の表情は見えなかったけれど、なんとなく「あの子も今の状況を、嫌がってはいないんじゃないかな」と思った。
リーリエ嬢に対してそんなことを思うのは初めてだったけれど、みんなが噂するように、「貴族のご令息を侍らせて、良い気になっているんじゃないか」とすら思った。
そんな中、親衛隊員の合間から、リーリエ嬢と視線が合ったような気がした。
遠すぎて細やかな表情がわかるはずもないのに、なぜかリーリエ嬢は私を嘲笑っているように見えた。
……嫌な感じの子だわ。
直接言葉を交わしたこともないくせに、一瞬でもそう考えてしまった自分自身に、私は心底ぞっとしたのだった。




