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それから数日後のこと。
その教室の前を通ったのは、本当にたまたまだった。
「どうしてあんな、伯爵令嬢なんかを!」
本来ならば滅多に人が来ることもない旧校舎の廊下を歩いていると、すぐそばの空き教室からそんな声が聞こえてきた。
その声は怒っているようにも、そして泣いているようにも聞こえるもので、私は思わず足を止める。
どうやら教室内には二人以上の人物がいるらしく、先程の声の主とは別の人物が、なんらかの言葉を発しているのが聞こえた。
わざわざこのような場所を選んで話をしているのだ。
きっと誰にも聞かれたくない内容であるに違いない。
そう考えた私が、早急に立ち去ろうとした時だった。
「ですが! トレス伯爵令嬢がエリオット様に釣り合うような相手ではないことなど、誰の目からも明らかでしょう!?」
突如として自分の名前が出てきたことに驚いて、身体がびくりと硬直する。
どう考えても、私のことが話題になっている。
それも、悪い意味で。
「こんなこと、本当はすべきじゃない」とは思うものの、このまま聞かなかったことにできるような内容でもなく、私は教室のドアの隙間からそっと中を覗き込む。
ある程度予想していた通り、教室の中にいたのはエリオット様ととある侯爵家のご令嬢。
「では君は、誰なら私に釣り合うと言うんだ?」
エリオット様の口から発せられた言葉は、丁寧でありながらも、ぴりりとした緊張感をまとっていた。
「……家格を考えれば、私の方が相応しいはずです」
この空気の中でそんな答えを返す侯爵令嬢に、私は心の中でそっと拍手を送る。
並大抵の人物であれば、不快感を隠そうともしていないエリオット様に対して、自分の意見をここまではっきりと言うことなどできまい。
しかし感心する私とは対照的に、エリオット様は眉をぴくりと動かすと、低い声で「ほう?」と言った。
「私が好ましいと感じているセラフィナ嬢なんかよりも、自分の方が〝上〟だと? 君なら誰の目から見ても、私と釣り合う人間だと? そう言いたいのか?」
私に向けられた言葉ではないにもかかわらず、エリオット様のあまりに冷たい物言いに、思わず身体がぶるりと震える。
「そっ、そんなことは言っていません。ですが、彼女は以前結んでいた婚約を解消したと聞いています。詳しい経緯は知りませんが、婚約解消だなんて……。きっと彼女自身にも問題があったのでしょう」
「……詳しい経緯を知らないのならば、憶測で語るべきではない。少なくとも私は、君よりもその経緯を知っているし、その上でセラフィナが好きなのだ」
エリオット様はそう言うと、息をゆっくりと吐き出した。
「セラフィナは、噂や憶測だけで他者を判断しない。そして、自分を良く見せるために他者を貶めるようなことは言わない。私は、彼女のそういうところに惚れたんだ。そもそも、『あの人よりも自分の方が上だ』などという考え自体、どうかと思うがな」
俯く侯爵令嬢に向かってエリオット様は「話はもう終わりか?」と声を掛ける。
遠目にもぞくりとさせられるくらいに、冷たい視線だった。
さすがの彼女も、それ以上食い下がることはできないらしく、小さな声で「…………はい」と返事をする。
「……ご足労いただき、ありがとうございました」
「そうだな。私はこれで失礼させてもらう」
エリオット様が教室から出てくるであろう様子を察知して、私は慌てて物陰に姿を隠す。
他の人に聞こえてしまうのではないだろうかと心配になるくらいに、心臓が大きく音を立てているのがわかった。
がちゃりと扉が開く音に続くのは、コツコツと廊下を歩く音。
しかし、不意にその音がぴたりと止まった。
「……もしもまた何かあれば、私が直接話を聞こう。以前から言っているが、くれぐれもセラフィナに迷惑をかけるようなことはしないでくれ。周囲にも、改めてそう伝えておくように」
エリオット様はそう言い残すと、今度こそその場を後にしたのだった。
人の気配がなくなった廊下の隅で、私は一人立ち尽くす。
きっとエリオット様は、今の出来事を決して私に知らせようとはしないだろう。
そして今までも、彼は今日のような出来事をひた隠しにしてきたのだろう。
「本当に、助けてもらってばかりなのね」
「エリオット様に相応しくない」と言われることについて、彼が解決してくれるのはまだわかる。
エリオット様の片想いの相手役を引き受けてなければ、言われる必要のなかった言葉だから。
けれどもダニエルとの婚約解消については、エリオット様に庇ってもらう筋合いはない。
それでも彼は、見えないところで私が悪く言われるのを防いでくれていた。
敵意だとか嫉妬だとか、そして侮蔑だとか、そういった負の感情を向けられないのは、ただ「エリオット様の片想いの相手」だからじゃない。
彼が、そうならないように積極的に動いてくれていたから。
「…………よし」
見えないところでずっと、私はエリオット様に助けてもらってきたのだ。
そのことに気づけた私は、静かに決意を固めたのだった。
◇◇◇
「……どこかおかしなところがありますでしょうか?」
王室主催の夜会当日。
会場前で到着を待ってくれていたエリオット様は、馬車から降りる私を見るなり「おお……」と呟いて黙り込んでしまった。
「以前お話しされていた夜会について、もう少し詳しく教えていまだけませんか? 少し、興味が湧いてきまして」
そんな言葉で、今日の夜会に出席する心づもりがあることをエリオット様に伝えた際には、「もちろんだ!」と嬉しそうにしていたのに、この反応は一体なんなのだろう?
エリオット様の刺すような視線から逃れるように、私は目線を逸らして頭に手をやる。
「ドレスを贈る……のは意味深すぎるな。何なら受け取ってくれる?」
「いえそんな、結構です」
「私のわがままに付き合ってもらうのだから、そういうわけにはいかない。髪飾りはどうだろう?」
「……あまり高価なものはやめてくださいね」
そんなやりとりの結果届けられたのは、シルバーの土台に紫色の宝石が散りばめられた髪飾りで、私は指先でそれを弄りながら、居心地の悪さにじっと耐える。
すると、私の行動に気づいたのであろうエリオット様が、そっと髪へと手を伸ばした。
「やはり似合っている。君の艶やかな黒髪には、何色でも似合うだろうが」
そんな言葉と共にとろりとした笑みを向けられて、顔に熱が集まる。
本当に好意を向けられているのではと錯覚しそうになるくらいに、エリオット様の眼差しは真っ直ぐだった。
……違う、私は〝片想いの相手役〟を頼まれただけ。
私は心の中で、そう唱える。
そして、わざわざそんな当たり前のことを唱えている自分に、心底驚いた。
「会場はこちらだ」
そう言って私を先導する形で、半歩前を歩くエリオット様。
私の位置からは、彼の表情を窺い見ることはできない。
そのまま目線を下げると、エリオット様の手が視界に入った。
差し出されることのなかった彼のその右手を、私はじっと見つめ続けたのだった。




