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「礼の代わりに、今日こそ家まで送られてくれないか?」
エリオット様からの誘いに、自分がなんと返事をしたかについては、正直なところ記憶がない。
それでも、私が公爵家の馬車に乗っているということは、きっと「はい」と答えたのだろう。
肯定の意味での「はい」ではなく、理解不能のまま口から漏れ出た「はあ」や「へえ」といった、意味のない言葉だった可能性が高くはあるけれど。
エリオット様と二人きりで馬車に乗っているという状況の訳のわからなさに、私は車窓から外の景色を眺めるふりをしながら心を落ち着ける。
意識的にゆっくりと呼吸を繰り返していると、目の前に座るエリオット様が「ふっ」と笑うのがわかった。
「いや、すまない。あまりにもそわそわとしている様子が可笑しくてな」
「……ご自分が原因であること、わかっていらっしゃいます?」
どうにでもなれという気持ちでそう言うと、エリオット様は今度こそ声を出して笑った。
「そもそも、どうしてあんなことをなさったのですか?」
「ああ。勝手に触れてしまって、申し訳なかったな」
「そうではなくて! どうして、その……口づけをするふりなんかをなさったのですか!?」
「その方がドラマティックだろう?」
なんてことないふうに答えるエリオット様を前にして、私は呆気にとられる。
そんな理由からあんな行動をとるだなんて、この人は自分がどれだけ耳目を集める存在かわかっていないのだろうか?
愉快そうにこちらを眺めるエリオット様に、私はじろりと視線を向ける。
「……何を考えていらっしゃるのですか?」
どうしてドラマティックな様子を繰り広げる必要があったのか。
そもそも、「女性と関わらないようになさっている」と噂されるエリオット様が、わざわざ私を訪ねて教室に来たことからして、謎でしかない。
先程は「思った以上に情の深いお方なんだなあ」なんて思ってしまったけれど、そんな人間はあの場であんな言動をしない。
こちらの警戒心が伝わるように眉間に力を入れてみたけれど、エリオット様は全く気にする素振りを見せない。
「『君のことが頭から離れない』と言っただろう? 君に惚れたから、アピールしていこうと思ったんだ」
それどころか、そんな揶揄いの言葉が返ってくるものだから、自然と視線が鋭くなる。
「そういうのは結構です」
「本気にしてもらえないのか?」
僅かに目を見開くエリオット様は驚いているように見えるけれど、当たり前だ。
「それとも、私では相手にしてもらえないか? 自分で言うのもなんだが、わりと〝優良物件〟だと思うのだが?」
「世間的に見てエリオット様が〝優良物件〟だからこそ、本気にするはずないでしょう?」
ふうっと息を吐き、私はエリオット様を正面から見据える。
「より取り見取り選び放題のエリオット様が、わざわざ私を相手に選ぶ理由がないじゃないですか」
これと言った取柄もない伯爵家の娘。さらにはそこに〝婚約が破談になった〟というマイナスポイント付き。
「……よかったですね。もしも私がエリオット様のお戯れに本気になるような人間だったら、何を言われるかわかったものではありませんよ?」
本来ならば、公爵家のご子息に言うような内容ではないけれど、私も少しやけになっていたんだろう。
「どういう意味だ?」
「だってそうでしょう? もしも私が本気にしていれば、私は〝婚約解消後すぐに他の男性になびく女〟になりますし、エリオット様は〝そんな女性を選んだ見る目のない男〟だと言われかねませんよ」
「ですから、もうあんなおふざけはやめてくださいね」と付け加えると、エリオット様は「ふむ」と言ったきり黙り込んでしまった。
眉を寄せて何か考え込んでいる様子のエリオット様に対して、こちらから話題を提供できるはずもなく、私はぼんやりと彼を見つめ続ける。
日の光を受けて輝くブロンドの髪は、絵画に描かれる天使を思い起こさせた。
改めて観察すると、彼は本当に美術品のように整った容姿をしている。
学園中から「あのエリオット様」と呼ばれ、神格化されてしまっている背景には、この美しすぎる容姿も影響しているのだろう。
それを思うと、美しすぎるというのも良いことばかりではなさそうだ。
そんなふうにどうでもいいことを考えていると、いつの間にかエリオット様がこちらを凝視していることに気がついた。
「……どうされましたか?」
考え事が終わったのならば声を掛けてくれればいいのに。
そう思って問い掛けてみると、エリオット様の口角が持ち上がる。
それはもう「にやり」という効果音がぴったりの表情で、私は本能的に逃げ出したくなったのだけれど、馬車の中に逃げ場などあるはずもない。
「礼をしてくれると言っていたな。少し私に付き合ってほしい」
エリオット様はそう言って姿勢を正すと、「私に口説かれてほしいんだ」と続けた。
「…………はい?」
「私に、口説かれてほしい」
エリオット様は先程よりもゆっくりと、言葉を区切りながら同じことを繰り返したけれど、聞こえなかったわけではない。意味がわからなかっただけだ。
「いえ、聞こえてはいましたが」
「引き受けてもらえるだろうか?」
「ちょ、ちょっと待ってください。なぜそんなことをおっしゃるのか、理由を教えていただけませんか?」
私が尋ねると、エリオット様は困ったように笑いながら、ぽつりぽつりと自身を取り巻く状況を語ってくれた。
要約すると〝在学中は学業に専念したいにもかかわらず、婚約者が決まっていないせいで縁談の申し込みが後を絶たずに参っている〟ということらしい。
「理由を伝えて断っても、『邪魔はいたしません』と食い下がられて面倒なんだ」
その時のことを思い出していたのだろうか、エリオット様はうんざりとした様子を隠そうともしなかった。
「『意中の女性がいるから遠慮してほしい』との口実があれば、少しは落ち着くだろうと思ってな」
「それならば、そんなに回りくどいことをしなくても、どなたかに婚約者のふりを頼めば良いのでは?」
「〝婚約者のふり〟を頼んでしまえば、後々〝偽の婚約解消〟をしなくてはならない」
エリオット様はそこで言葉を区切ると、一瞬言い淀んだ後で「〝婚約解消〟は女性にとって悪評になりかねないからな」と続けた。
「円満な形であろうとも、男性側に非があろうとも、そういった場合に悪く言われるのは女性側であることが多いだろう?」
申し訳なさそうな顔で「君に言うべきことではないが」と付け加えるエリオット様に、私は首を横に振る。
私だって、それを知らずにダニエルとの婚約を解消したわけじゃない。
「気になさらないでください。それを理解した上で〝ダニエルの婚約者で居続けること〟よりも〝婚約解消〟の方を選んだのです。悪評の恐ろしさはわかっているつもりですが、それでも他のご令嬢の親衛隊をしている人間の伴侶になることに比べるとまだマシです」
わざとおどけたふうに言ってみたものの、エリオット様は笑ってはくれなかった。
「ええっと……こほん。偽の婚約者を置かない理由は理解できました。ですが、私よりも適任者がいると思いますよ? 侯爵家のご令嬢だとか、容姿や能力的にも『あの方ならエリオット様が心惹かれて当然だ』と思われるような方だとか」
そう言いながら、私は数人のご令嬢を頭に思い浮かべる。
学園内にだって、それこそエリオット様の同級生にだって、私よりもエリオット様のお相手に相応しいご令嬢はいたはずだ。
けれども、試しにとあるご令嬢の名前を挙げてみたところ、エリオット様はきっぱりと「無理だ」と言い切った。
「どうしてですか? その方が説得力もありますよ?」
「いや。その家からは縁談を申し込まれている状況なのだ」
「では、他に……」
「考えてくれているところ申し訳ないが、現在私と同年代の子女がいる家の中で、縁談を持ち掛けてきたことのない家の方が少数派だ」
ここで「わーお」と口にしなかった自分を褒めてあげたい。
相手がエリオット様でなければ「さすがに嘘でしょう?」と思っただろうけど、彼のことだからきっと本当なのだろう。
「……苦労なさっているのですね」
思わずそう言ってしまうほどに、エリオット様の表情は疲れ果てていた。
「自分で言うのも気が引けるが、私を結婚相手にと望む家は多くある。下手な相手に声を掛ければ、後々困ったことになるだろう」
そう言って両手に顔を埋めるエリオット様に、私の中では同情心のようなものが湧き上がる。
「公爵家の跡取りとして、政略結婚を受け入れるだけの覚悟はある。だがそれまでは……せめて学園を卒業するまでは、自由に過ごしたいんだ」
その言葉は、彼の本心であるように思われた。
多くの家から結婚相手に望まれるというのは、傍から見れば羨ましい状況なのかもしれない。
しかしだからこそ、相手は自分の行為がエリオット様を悩ませていることに気づけず、彼の悩みは他人から理解してもらいづらいのだろう。
……やっぱり、人の噂なんてあてにならないわね。
目の前で弱り切っているエリオット様は、学園中から「非の打ち所がない」と言われるあのエリオット様の印象からはかけ離れている。
大して親しいわけでもない私に、ここまで胸の内をさらけ出して助けを求めてきているのだ。
きっと、それほどまでに彼は追い詰められているのだろうし、私としても彼の役に立ちたいとは思う。
けれども最後に、もう一つだけ聞いておきたいことがある。
「……私が『下手な相手』だとは思われないのですか? 外堀から埋めて、後々トラブルを起こすかもしれませんよ?」
男爵令嬢リーリエ親衛隊ABCDとのあの一件が起こるまで、私とエリオット様に接点はなかった。
私は一方的にエリオット様のことを知ってはいたけれど、それだって噂を耳にしたことがある程度で、彼自身を知っていたわけではない。
エリオット様にいたっては、私の顔すら知らなかったはずだ。
「つい最近知り合ったばかりの私のことを、信用してしまっていいのですか?」
少し意地悪な気持ちで尋ねてみたところ、エリオット様はぱっと顔を上げて悪戯げに目を細めた。
「〝婚約解消後すぐに他の男性になびく女〟になるつもりはないだろう? それが家名にも傷をつける行為だと、君ならわかっているはずだ」
「さあ? 『エリオット様と一緒になれるのであれば、実家も評判も気にしません』と言い出すかもしれませんよ?」
「ははは。それはないな」
「どうしてそう言い切れるのですか?」
「勘だ」
まさかの〝勘〟。
けれど、「私の勘はあてになる」と付け加えたエリオット様はなぜか自信満々で、「そういうものか」と思わされてしまう。
不思議な魅力のある人だなと、そんなふうに感じた。
「……なんだかエリオット様は、噂で聞いていたのとは随分違うみたいですね」
少年のような表情で笑うエリオット様に向かってそう言うと、「良い意味でか? それとも悪い意味でか?」と問い掛けが返ってきた。
「別に、良い意味でも悪い意味でもありません。噂だと聖人君子みたいな言われ方をしていますが、思ったよりも普通の人間なんだなと思いまして」
後から思うと、それは失礼な言葉だったかもしれない。
けれどもエリオット様は私の答えを聞いて、「そうだ、私は普通の人間なんだ」と言って、心底愉快そうに笑ったのだった。




