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「セラフィナ嬢」
あの事件から、およそ半月後。
突如として教室に現れたエリオット様に名前を呼ばれて、私ははっと息を呑む。
要件の検討はついている。
先日エリオット様宛てに出した手紙が、ようやく彼の手元に届いたのだろう。
けれども、それを知っているのは私だけ。
あのエリオット様が他学年の女子生徒を訪ねて来たという事実に、教室は水を打ったように静まり返った。
あからさまに視線を向ける者はいないものの、教室にいる全員がエリオット様の動向を窺っているのが感じられる。
そんな状況に気後れしてしまった私は、すぐに返事をすることができなかった。
しかし、彼はそれを気にするふうでもなく、私の姿を捉えると片手を上げて「やあ」と言った。
「手紙の件で話がしたい。できれば、二人きりで」
エリオット様の言葉に、どこかから「ひいっ」という声が聞こえる。
少し離れたところから、とある侯爵家のご令嬢がものすごい表情でこちらを睨んでいるのも目に入った。
……どうしてそのように誤解を生むような言い回しをするのか!?
他人の恋路にそわそわしてしまう年頃の人間ばかりが詰め込まれた教室内。
貴族の子息子女といえども……というよりもむしろ、結婚が政治的な思惑とは切っても切り離せない貴族の子息子女だからこそ、私達はそういう話に飢えている。
ただでさえここはそういう場所なのだ。
さらにあのエリオット様が関係しているとなれば、周囲の人間がこのような反応をするのも仕方がない。
今さらではあるが、「あのエリオット様」と呼ばれるくらいに、彼も学園中の耳目を集める人物だ。
〝公爵家の嫡男〟というだけでも、彼と懇意になりたい人間はたくさんいるだろう。
そこに〝彫刻のように容姿の整った〟という条件が加わるし、彼の学園での成績は常に上位。噂によると性格も良く、非の付け所がない人らしい。
そんな盛りだくさんなエリオット様なのに、彼にはいまだに婚約者がいない。
彼の婚約者の座を狙うご令嬢、あるいは姉妹をその座にと考えるご令息が群がるのも当然と言えよう。
しかしエリオット様自身は、「学園を卒業するまでは、婚約者を据えるつもりはない」と言って、持ち込まれる縁談の全てを断っているという。
「変に期待をさせないためにも、エリオット様は女性と関わないようになさっている」
本人の口から語られたものではないようだが、その言葉が事実だと認識されるくらいには、彼が女性と共にいる場面を目にすることはほとんどない。
「エリオット様の婚約者になったなら、きっと一途に誠実に愛してくださるに違いないわ」
学園中の女子生徒が理想の男性像を投影するのに、エリオット様は満点の相手なのだ。
その人気ぶりはもはや「崇拝」と言っても過言ではなく、多くの人間は彼を同じ生身の人間として扱っていない。
そんなエリオット様が、女性を訪ねてわざわざ二学年下のこの教室まで足を運んでいる。
きっと数時間後には、学園中がエリオット様の〝らしくない〟この行動を知ることになるだろう。
「セラフィナ嬢? ……ああ、トレス伯爵令嬢か」
「伯爵令嬢? どうして? 全然釣り合いが取れていないじゃない」
「あれがエリオット様の……。期待外れだな」
エリオット様の常ではない行動と共に、学園中に名前を知られることになってしまった私が、そんなふうに噂をされる場面までが容易に想像できる。冗談じゃない。
すうっと息を吸い込んで、私は教室中に聞こえるような声量で返事をする。
「先日トラブルに巻き込まれた際に、エリオット様にご助力いただいた件に関してですね? その節は本当にありがとうございました」
おそらくこれで、私がエリオット様に送った手紙が色っぽい内容のものではないことが、教室にいる者達にも伝わったことだろう。
「話をするもなにも、手紙でお伝えしたことが全てです。あちらからも正式に謝罪を受け、無事に婚約解消の手続きが完了いたしました。エリオット様のご助力があってこそです」
私とダニエルの婚約解消について、こんな形で公表するつもりはなかったけれど、早かれ遅かれ周知される事実なのだ。
それならば変な尾ひれが付く前に、私の口から伝えておくのが良いだろう。
もう一度「ありがとうございます」と言いながら、エリオット様に頭を下げる。
そうしながらも私は、ダニエルとの婚約解消に至るまでのあれやこれやを思い出していた。
「そんな奴の元にセラフィナを嫁がせるわけにはいかない」
その日、男爵令嬢リーリエ親衛隊ABCならびにダニエルに呼び出された件について報告すると、父はきっぱりとそう言い切った。
「向こうが『どうしても』というから、この婚約を認めたというのに。今すぐ使者を送れ」
「ちょ、ちょっと待ってください。まずはあちら側との話し合いの場を設けた方がいいのでは?」
あまりに一方的に話を進める父を止めてもらおうと、同席していた兄にちらりと視線を送る。
しかし兄までもが「私も父上に同感です」と言うものだから、私は内心で白目を剥くほかない。
そんな中、暴走する二人を止める発言をしてくれたのは、兄の配偶者である義姉だった。
「私としてもあちら側の言動には憤りを感じますが、当事者はセラフィナです。セラフィナ自身の気持ちを大事にすべきではないでしょうか?」
美しく微笑む義姉に促されて、私はおずおずと口を開く。
「ダニエルへの愛情は枯れ果てました。ですが婚約解消となると我が家にも迷惑が掛かってしまうと思うので、私としては穏便に済ませたいと考えております」
「……家のことがなければ、彼との結婚は考え直したいということ?」
「それは、まあ。ですが、私も貴族の娘ですから、それなりに上手くやります」
こればかりは、貴族の娘として生まれたからには仕方がない。
両親や兄夫婦のように、愛し愛される関係でいられる夫婦ばかりではないのだ。
そんな諦めの気持ちを抱く私に向かって、義姉が「そう」と小さく呟くのが聞こえた。
「ならばすぐに使者を送りましょう」
「え?」
「この家は、あなたを犠牲にたかが子爵家と結び付かなくてはならないほどに、困窮してはいないのよ」
義姉はそう言うと、兄にちらりと目配せをする。
「この婚約解消があなたの枷にならないように、私達は全力を尽くすわ。もしもセラフィナが『誰とも結婚したくない』と考えるのであれば、ずっとこの家にいるという選択肢もあるのよ」
穏やかな口調でありながらも、義姉が纏うオーラは、父や兄に負けないくらいに怒りに満ちていた。
その後ダニエルの家に使者が送られ、事情を聞いたダニエルの両親が飛んで来るまでは、すぐのことだった。
平謝りするダニエルの両親の顔色の悪さとは対照的に、ダニエル自身はなぜか堂々とした態度を崩さなかった。
父と兄夫婦は、そんなダニエルの様子にも腹を立てていたようだけれど、私にとってはもはやどうでもいい。
きっと彼はまだ歌劇の中にいて、「自分の行いは正しいものだ」と信じているのだろうから。
結局、あちら側から少なくない額の慰謝料が支払われ、この件については幕を閉じた。
婚約解消に掛かる一般的な日数がどれほどのものかは知らないけれど、最速記録が目指せるのではなかろうかと思うくらいに、あっという間の出来事だった。
しばらくは〝婚約破棄の経歴があるご令嬢〟として、後ろ指をさされることになるかもしれないが、仕方がない。
家のことを考えると申し訳ない気持ちにはなるものの、好意が持てない、尊敬もできない相手との結婚が白紙になったことに、私はどこかすっきりとした気持ちでいる。
『傷付いてはおりません。ですが少し疲れてしまったので、結婚についてはしばらく考えたくありません』
エリオット様への手紙には事の顛末と、そういった意味の内容を丁寧に書き添えておいたはずだ。
それにもかかわらず私を訪ねて来てくれたエリオット様は、思っていた以上に情が深い人間なのだろう。
あの時ふらついてしまったせいで、お忙しいエリオット様に心配を掛けてしまって申し訳ない。
「全て無事に解決いたしましたので、ご安心ください。お礼については、近々両親と共にハーヴァード公爵家にお伺いいたします」
だからこれで終わりにしましょうと、そういう気持ちを込めてにこりと微笑む。
女性との関わりを避けているというエリオット様なら、「そうか、ならばこれで」というようなことを言って去ってくれるはずだ。
「何かあればまた声を掛けてくれ」くらいの社交辞令はあるかもしれないけれど、私だってそれを真に受けるほどに世間知らずではない。
このやりとりを最後に、今後エリオット様と言葉を交わすことはないかもしれないな……という気持ちで、彼の瞳を真正面から見つめる。
真紅の瞳が光を受けてキラキラと輝いている様を見て、「まるでルビーのようだ」と、関係のないことを考えていた。
しかし次の瞬間、宝石のようなエリオット様の瞳がすっと細められる。
離れた場所から見れば、それは「甘く蕩けるような」と表現されるような表情だと思う。
けれども、正面にいる私からは〝面白い悪戯を思いついた少年〟のようにしか見えない。
……この場でこれ以上余計な発言をさせてはいけない気がする!
嫌な気配を感じた私が、「場所を変えましょう」と提案するために、口を開きかけたその時だった。
「では、礼の代わりに今日こそ家まで送られてくれないか?」
エリオット様はそのまま、私にしか聞こえないような声量で「すまない」と付け加えると、私の髪を一筋取って毛先を自身の口元に近づける。
教室内にいる人間からは、彼が本当に私の髪に口づけをしたように見えたはずだ。
エリオット様の謎の行動に対して、私はなんとかして「……どうしてですか?」と声を絞り出す。
どうしてそんなことを言うのか、どうしてこんなことをするのか、意味がわからないという抗議の意を込めて発した言葉だった。
しかしどうやら、その問い掛けは悪手だったらしい。
エリオット様が「上手くいった」とでも言いたげに口角を持ち上げるのを見て、自分の失態に気づいたものの、もう遅い。
「実はあの後から、君のことが頭から離れないのだ。前回は『婚約者がいる身だから』と断られてしまったが、今はもう構わないだろう?」
美貌の公爵令息様の口から放たれたその言葉と、私に向かって差し出される大きな手。
これが歌劇の一場面だとするならば、場を盛り上げるようなバックミュージックが流れていることだろう。
けれどもここは、歌劇の世界ではない。
現実を生きる私は、教室内の声にならない悲鳴を背景に、もはや途方に暮れることしかできないのだった。




